名前を呼ぶまで

⭐︎Ryua⭐︎

第1話

春は、いつも中途半端だと思う。

寒さはまだ残っているのに、空気だけが先にやわらかくなって、何かが始まるような顔をしている。でも実際には、何ひとつ約束してくれない。

校門の前で立ち止まり、私は小さく息を吸った。

新しい制服は少しだけ硬くて、肩に余計な重さを感じる。ガラスに映る自分は、まだこの学校の一部じゃない。

私は、普通でいたかった。

目立たず、傷つかず、必要以上に期待しない。

特に、恋には。

前の学校で学んだことがある。

誰かを特別に思う気持ちは、楽しいだけじゃ終わらない。

近づいた分だけ、失う可能性も増える。

だから、ここでは静かに過ごす。友達はできたらいい。でも、それ以上はいらない。

そのはずだった。

この春、何度も耳にすることになる名前も、何度も胸の奥で反響する声も、

このときの私は、まだ知らない。私の席は、窓側の一番後ろだった。

出席番号の関係で決まった席だと、担任は言ったけれど、正直なところ当たりだと思った。

前から見られることもないし、窓の外を見れば、気持ちを落ち着かせることができる。

校舎三階の教室。

窓からは校庭が見えて、部活の準備をする先輩たちの姿が小さく動いていた。

空は薄い青色で、雲がゆっくり流れている。

「次、相川」

名前を呼ばれて立ち上がると、教室中の視線が一瞬だけ集まる。

でもそれはすぐに興味を失って、それぞれの方向に戻っていった。

「相川七海(あいかわななみ)です。よろしくお願いします」

それだけ言って、私は席に座る。

拍手は控えめで、でもそれがちょうどよかった。

 

隣の席は、まだ空いていた。

少し遅れて教室に入ってきた男子が、無言でその席に向かう。

黒髪で、派手さはない。背は平均より少し高いくらい。

なのに、なぜか目が離れなかった。

「遅れてすみません」

短く言って、彼は椅子に座る。

「名前」

担任が言う。

「……成瀬悠真(なるせゆうま)です」

それだけ。

余計な言葉は一切なかった。

なのに私は、その名前を頭の中でなぞっていた。

成瀬、悠真。

声の低さと一緒に、妙に残る。

授業が始まると、私はノートを取りながら、隣の気配を意識している自分に気づいた。

シャーペンの音。 ページをめくる指先。

窓から入る風に、彼の制服の袖が少し揺れる。ただ隣に座っているだけ。

それ以上でも、それ以下でもない。

——これは、恋じゃない。 自分に言い聞かせた、そのとき。

「それ、シャーペン?」

小さな声がした。

「……え?」

「芯、折れてる」

指差された先を見ると、私のシャーペンは途中で止まっていた。

「あ、ほんとだ。ありがとう」

そう言うと、成瀬は一瞬だけ口元を緩めた。

声を出さない、控えめな笑顔。

それだけのやり取りなのに、胸の奥がわずかに揺れる。

席替えがなければいいな、と思った。理由は分からない。

ただ、今の位置が、少しだけ心地よかった。

この気持ちに名前をつけるには、まだ早い。

でもその予感だけが、静かに残っていた。

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2026年1月16日 10:00
2026年1月17日 10:00
2026年1月18日 10:00

名前を呼ぶまで ⭐︎Ryua⭐︎ @Ryua092138

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