約束しないという、約束

高坂結衣

第1話

レッスンは、いつもより少しだけ短かった。


高崎は譜面を閉じ、ペンを置く。

「今日はここまでにしましょう」


声の高さも、言葉の選び方も、いつもと同じ。

それなのに、部屋の空気だけが微妙に違っていた。


風花は立ち上がり、椅子を元の位置に戻す。

鍵盤に向かっていた時間が、きちんと過去形になる。


「ありがとうございました」


深くも浅くもない、ちょうどいい角度で頭を下げる。

風花は、自分の声が少しも震えていないことに気づき、

それに小さく安堵する。


彼は頷き、少し微笑んだ。

余計な言葉はない。

それが、ふたりの合図だった。


風花はバッグを肩にかけ、ドアに向かう。

ノブに手をかけた瞬間、

背中に、ほんの一拍の間が生まれる。


振り返らない。

名前も呼ばれない。


それでいい、と思う。


廊下に出ると、外の光が少し眩しい。

現実が、何事もなかったように続いている。


階段を下りながら、

彼女は自分の歩幅が普段と変わらないことを確かめる。

世界は崩れていない。

関係も、壊れていない。


ただ、

同じ音楽を共有する前より、

少しだけ深いところで、お互いを知ってしまっただけだ。


次のレッスンの日程は、もう決まっている。

それを特別な意味にしないことも、

ふたりは暗黙のうちに了解している。


風花は扉を開け玄関を出た。

空を見上げる。

胸の奥に、言葉にならない余韻を残したまま。


――また、弾きに来よう。


それだけを心に置いて、

何事もなかった顔で、彼女は歩き出す。

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約束しないという、約束 高坂結衣 @yui-k

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