沖津二丁目に係る安否確認事案
いふや坂えみし
沖津二丁目に係る安否確認事案
一
生活支援センター職員の
十一月五日木曜日。秋も深まりだいぶ肌寒くなってきたが、今日はよく晴れていて暖かい。今は昼食を終えたばかりの時刻で日差しも強いが、仕事を終える頃には寒くなっているだろうか。
生活支援員は支援が必要なさまざまな住民を相手にする。二十年近くこの仕事をしていて、四年前からこのエリアを担当している。そろそろ異動が近いかもしれない。その家は仙台市内の一軒家が軒を連ねる住宅街に建っていた。
見慣れた白い外壁で覆われた二階建て住宅の玄関ドアに近づく。呼び鈴を押すが、反応がない。また気分が
もう一度呼び鈴を押す。トイレにでも行っているのだろうか。電話をかけてみようかとハンドバッグに手を伸ばしかけたところで、玄関ドアの下から少量の水が染み出していることに気づく。なにか室内で異変があったのだろうか。嫌な予感を感じつつスマホを取り出し、目の前の家に電話をかける。ドアの向こうから
まだ訪問する予定の家は残っているが、家の中から水が流れ出しているのはどう考えても普通ではない。職場へ報告してから家族に連絡を取ってみようか。今日は想定どおりの一日にはならないようだと宍戸澄子は心のなかで小さくため息をついた。
二
新卒の警察官は全員、地域課の警察官として交番勤務から職歴がスタートする。地域課の警察官は、警察署内での無線指示や事務処理などを行う者を除けば大半が交番勤務をしている。そして、『指導部長』と呼ばれる交番の巡査部長または警部補が指導官となり、仕事を覚えていくことになる。平沢聡の指導部長は
警察では巡査部長のことを部長、警部補のことを係長、警部以上になると刑事課長、交通課長、署長、次長、管理官、局長など役職名で呼ばれるようになる。新田正雄は巡査部長なので、平沢は新田のことを新田部長と呼んでいる。
新田は高卒で警察官になって数年の交番勤務を経て交通課へ異動した。それから二十年ほど交通課で勤務し、再び地域課勤務へ戻って現在に至る。
新田はパワハラという概念がなかった頃を生きてきた警察官であり、今年定年を迎えることから自らの指導方法について気をつけている様子は見られなかった。新人の平沢に対して必要な教育をせず、誤りをみつけるとねちねちと陰湿に罵倒するような人間だった。
最初のうちは平沢も指導してもらおうと素直に話を聞いていたが、数カ月で我慢の限界が訪れたので可能な限り接点を持たない方向へ対応を変えていた。
三
十一月五日木曜日。今日も平沢はいつものように交番勤務に就いている。交番は三班の交代制で、一当務二十四時間だ。平沢の班は新田と、巡査長で警察官六年目で巡査長の赤尾がいる。赤尾は二十九歳で後輩の平沢は三十三歳。年齢制限ギリギリで警察官になった平沢のほうが年上だった。平沢がまともな教育を受けられずにいても警察官として成長しているのは、赤尾からいろいろな面で教えを受けていたからだ。
その日の午前中、杜湾交番では事件・事故などの事案は発生していなかったので平沢たちはパトロールをしたり地域住民の各家庭を回る巡回連絡などをしていた。なにごともなかったのでいつもどおり昼食をとり終わると、地域住民が相談に訪れた。
最近、杜湾交番管内で不審者が子どもに声をかける事案が頻発しており、通学時間帯のパトロールを依頼する相談だった。小学生の子どもを持つ若い母親で、相談を受けていると事案発生を報せる警告音が鳴る。交番内では、常に宮城県警の通信指令部からの無線指令が聞こえる状態になっている。
「宮城本部から杜内地域」
「杜内地域です、どうぞ」
「指令番号五十七。沖津七丁目二十の八路上。乗用車同士の接触物損事故。当事者からの通報」
「杜内地域、了解」
「以上、宮城本部」
宮城本部と杜内警察署地域課の応答が終了する。
「うちの管内ですね。俺、行ってきます」
赤尾が臨場の準備を始める。
「一人で平気か?」
新田が確認する。新田は赤尾に対しては丁寧に接している。赤尾は仕事ができるからだろう、と平沢は推測している。通常は複数人で現場臨場するが、事案が重なった時はその限りではない。通常レベルの物損交通事故であれば、一人で対処可能な案件だった。人身事故の場合はけが人がいるため、複数人で対応する必要がある。
「あそこは
赤尾はヘルメットをかぶる。バイクの乗車や火災現場へ臨場するために支給されているものだ。赤尾は耐刃防護衣に入った杜内警察署管内だけに通じる携帯無線を取り出す。
「杜湾六〇二から杜内地域」
各交番に配布された携帯無線には番号が割り当てられており、赤尾がいま携帯している無線機の番号が六〇二だった。
「杜内地域です、どうぞ」
「指令番号五十七、PBから現場方向、どうぞ」
「杜内地域了解」
「以上杜湾六〇二」
PBというのはポリスボックス、交番のことだ。赤尾が交番を出発した。しばらくして相談を聞き終え、平沢が受けた相談の書類を作っていると、交番の電話が鳴る。
「はい、杜湾交番です」
「あ、平沢くん?安否確認の依頼がきたから行ってくれる?」
電話をかけてきたのは杜内警察署地域課庶務の斎藤係長だ。
「了解です」
「ええとね、宍戸澄子さんていう生活支援センター職員からの通報なんだけど、午後一時半ころに沖津二丁目四の十二にある衣田敏男さんていう人のお宅を訪問したそうなんだけど、呼び鈴を押しても電話をしても反応がないんだって。毎月第一木曜日に訪問してて、外出はしてないはずだから、確認してほしいって」
「わかりました」
「うん、よろしくね」
警察へ通報するときには、一般的には一一〇番に電話をかける。だが、それ以外にも警察署へ電話をかけたり交番へ電話をかけたりすることもできる。今回は警察署に電話をかけたパターンだ。生活支援センター職員が警察署の電話番号をスマホに登録していてもおかしくはない。
「なんだって」
新田は平沢に電話の内容を確認する。
「安否確認の通報が署に入りました。沖津二丁目の住宅を訪問した生活支援員から、訪問先の住民の応答がないって内容です」
「そうか。じゃあ、準備して」
「はい」
平沢は執務室のキャビネットに保管されている巡回連絡簿から衣田宅の巡回連絡票を探す。巡回連絡簿は各住宅の巡回連絡票が綴じられた簿冊であり、巡回連絡票は警察官が各家庭を回って確認した家族構成や連絡先が記された紙である。安否確認の場合、本人に連絡が取れなければその家族に連絡する。そのための準備だった。
幸い、衣田家の巡回連絡票は見つかった。巡回連絡をしても不在だったり、回答を拒否されることもあるのであるだけましだった。平沢は巡回連絡票を外して交番のコピー機でコピーする。
「巡回連絡票のコピーです」
「なんでもう一枚コピーしないんだ。お前も持ってろ」
以前、安否確認の現場に臨場した時は一枚でいいと言われたからだが、それを言っても怒られるだけなので平沢は受け流す。
「はい」
もう一枚コピーしてから平沢は隣室の壁にかけられた活動帽とパトカーの鍵を取る。活動帽というのはふだん交番の警察官が勤務中にかぶる帽子で、野球帽に近い形をしている。つばの上に警察のエンブレムのついた独立した前立てが取り付けられているのが野球帽との違いだ。一般的に警察官がかぶっているイメージの制帽はバスの運転手がかぶっているような帽子の形をしているが、それは交番の前で立番するときなどでしかかぶらない。荒れた現場だと制帽は脱げやすいからだ。
平沢は運転席、新田は助手席に乗り込む。エンジンをかけ、カーナビに目的地を入力する。無線のマイクを取り、杜内警察署地域へ連絡する。
「杜内六から杜内地域」
パトカーにはすべて無線番号が割り当てられており、杜湾交番のパトカーは六番だった。
「杜内地域です、どうぞ」
「署司令、沖津二丁目安否確認、PBから現場方向、どうぞ」
本部からの指令には指令番号がつけられているが、各警察署からの指令については番号がついていない。そのため、無線では各警察署の指令は全て署司令と統一して呼ぶ。
「杜内地域、了解」
「以上、杜内六」
平沢は赤ランプを点灯させ、交番を出発した。
四
午後二時すぎに現場へ到着した。現場は一軒家で、駐車場もあいていたのでパトカーを駐車した。現場に駐車場がない時は交通の邪魔にならないところを探さなければならないので、運が良い。玄関前に中年女性が立っており、会釈されたので平沢は敬礼を返す。通報者だろう、と予測した。
「杜内六から杜内地域」
「杜内地域です、どうぞ」
「署指令、沖津二丁目安否確認、現着。どうぞ」
「杜内地域、了解」
「以上、杜内六」
平沢と新田はパトカーを降り、中年女性のもとへ向かう。
「こんにちは。杜湾交番の平沢です。通報者の方ですか?」
「はい、こんにちは。私が通報した
「こんにちは。杜湾交番の新田です。応答がないってことですが、訪問してからの流れを教えてもらえますか?」
「はい……。今日の午後一時すぎに衣田さんのお宅を訪問しまして、呼び鈴を鳴らしたんですけど応答がなくて……。毎月第一木曜日のこの時間に訪問してるんです。衣田さんていうのが五十代の男性なんですけど、ええと、なんていうか……精神障害を持った方で、聞こえてても反応してないだけかと思って、しばらく待っていたんです。でも、反応がないので電話をかけてみたんですね。それでもやっぱり反応がなくて。それでその、玄関のドアの下から水が染み出してるのに気づいたんです」
「水ですか」
平沢は玄関ドアに視線を向けると、たしかにドアの下から水が染み出している。まだ中を確認できないので不気味な想像が膨らむ。憶測の域を超えないが住民はすでに中で亡くなっているかもしれないと考えた。安否確認の現場へ臨場した場合ただ単に家族に黙って旅行へ行っていた、ということもあるが、入ってみたら中で遺体を発見することも少なくない。
「それからどうしましたか?」
「はい。ええと、何かあったんじゃないかと思って、まずは衣田さんのお父さんに連絡してみたんですけどつながらなくて。それで職場に報告して、警察を呼びました」
「お父さんとは同居しているんですか?」
「いいえ。月に一回、様子を見に来ていると聞きました」
「そうですか。お父さんの連絡先、教えてもらっていいですか?」
平沢は衣田の父親の連絡先を確認する。巡回連絡票に記されていた電話番号と同じだった。その番号に連絡してみるが、つながらない。
「つながらないですね」
「平沢、周辺確認してこい」
「はい」
平沢はまず玄関の呼び鈴を鳴らす。かすかに家の中から呼び鈴がなる音が聞こえる。
目の前の家に電話をかける。やはり電話の音が中からかすかに聞こえる。
玄関のドアノブを引くが、鍵がかかっている。一軒家の周囲を時計回りに回り、窓の鍵をかけ忘れたところがないか念入りに探す。庭に通じるガラス戸の鍵があいていれば楽なのだが、どの鍵も施錠されていた。
「全部施錠されてますね」
平沢は新田に報告する。
「人の気配はするか?」
「とくに物音とかは聞こえてこないですね」
「もう一回、父親に連絡取ってみろ」
「はい」
平沢は電話をかけたが、応答はない。
「やっぱり出ないですね。ドアから水が出てきてるような異常事態ですし、窓割ってもいいんじゃないですか?たしか生命・身体に危険があったらやっていいって警職法にありましたよ」
警職法というのは警察官職務執行法のことだ。
「……地域庶務に連絡するから、ちょっと待ってろ」
新田が電話をかけて確認をとる。
「……ええ、はい、はい……わかりました」
新田は平沢の方へ顔を向ける。
「もう一回、家の外周調べて入れる場所がなかったら父親に連絡して、連絡つかなかったら窓割っていい」
「了解です」
平沢は再度、家の外周を調べ始める。すると、支給された職務用の携帯電話が鳴った。
「はい、もしもし杜湾交番の平沢です」
「あの……衣田と申します。何回か電話がかかって来たので折り返し連絡しました」
「ああ、ええと敏男さんのお父さんですか?」
「はい、衣田源といいます。敏男の父親ですけど、敏男が何かしましたでしょうか……」
「ああいえ、生活支援員さんが訪問する約束だったんですが留守なので通報が来まして。安否確認で来たんですけど、応答がなくて。玄関のドアから水が出てきてますし、何かあったのかもしれないので入りたいんですけど、鍵もなくて入れないんですよね」
「そうでしたか……私、働いてるものでそちらにすぐ行けないんですが、どうしましょう」
「旅行に行くとかそんな話は聞いてないですか?」
「いえ、ないです」
「そうですか。もし許可していただけるのであれば、窓を割って入って確認させていただきたいんですよ。家の中で倒れているかもしれませんし」
「そうですか……そうですよね、わかりました。割っていただいて大丈夫です」
「ご協力ありがとうございます」
「仕事が終わったら、すぐそちらに向かいます」
「はい、よろしくお願いします」
平沢は電話を切ると外周を回り、新田に報告する。
「部長、父親から連絡が来まして、窓を割る許可もらいました。外周の鍵はあいてません。父親は仕事が終わったらこっちに来るそうです」
「つながったんなら代われ。確認したいこともあったのに」
「はい、すいません」
平沢は反射的に謝罪したが、すまないともミスをしたとも思っていない。新田の言うことをまともに受け止めていると疲弊するだけだと数カ月の勤務で学んでいた。平沢は家の中に入りやすい大きなガラス戸に目をつける。
「あのガラス戸、割っていいですか」
「ああ。お前、一人で行って来い」
「了解です」
こういう現場では危険な状況を避けるために二人一組で行動するのが鉄則だが、一人のほうが気楽なのでありがたいと感じていた。
五
平沢は白手袋をはめる。ガラスで怪我をしないためだ。耐刃手袋があればもっと安心だが、あれは冬用の装備なので警察署のロッカーに入れたままになっていた。
警棒を引き抜く。警棒の柄の先端を変形させるとガラスクラッシャーが出てくる機構が備え付けられている。そういう機能があるのを知ってはいたが、平沢が実際に使うのは初めてだった。柄を錠付近のガラスにぶつけるが、ガンガンと音がなるだけで割れない。ガラスの強度は意外に高かった。制服の袖先と手袋の間に隙間ができないよう注意しながら、さらに強い力でガラスを叩くと、カシャンという乾いた音を立ててガラスが割れた。
割れたガラスに触れないよう、注意してゆっくりと手を差し入れ、サムターン錠を回す。ガラス戸に手をかけるとすんなりと開いた。錠以外にドアストッパーなどがついていなかったので開けるのが楽だった。ガラス戸の奥の障子戸を開ける。平沢の目に予想外の光景が飛び込んできた。
障子戸ギリギリのところに置かれたベッド。ベッドにかけられた原色のシーツ。その上に畳まれないまま置かれた掛け布団と毛布。どちらも派手な原色だ。そこまではよかった。だが、ベッドの上に倒れて寄りかかっているタンスの意味がよくわからない。最近大きな地震は発生していない。タンスの引き出しは引き出されたままになっており、たたまれずに押し込まれた衣類が垂れ下がっている。ベッドの上には衣類が散乱している。泥棒でも入ったのだろうか。そう考えるなら外周の鍵が施錠されたままなのはおかしい。なぜこのような状態になっているのか、平沢の理解を超えていた。
気を取り直して、とりあえずベッドの上に足をかける。スプリングが効いていて不安定だ。転ばないように重心を低くしながら、斜めになったタンスに手を添えて両足を乗せる。
部屋の中は薄暗い。ちらりと腕時計を見ると午後三時を回っていた。ベッドの上に乗ると、部屋の床にも無数の衣類が散乱しているのが見えた。なぜこのような状況になっているのだろうか。部屋の湿度が高い。吸いこんだ空気が湿っている気がする。ワイシャツが皮膚に張り付いてくる。
床の上に降りると、ぐちゃり、という音と靴の裏に張り付く気味の悪い感触がした。部屋の中が水浸しになっていたが、散乱した衣類に水が吸われて靴を乗せるまで床が濡れていることに気が付かなかった。部屋の中を見回す。人はいない。この状況であれば、もし家の中に人がいるのであればすでに事切れているだろう。生きていれば水の対処をしているはずだ。
斜めに倒れたタンスが異彩を放っているが、その部屋は寝室のようだ。倒れた人もいないようなので、次の部屋へ行くことにする。薄暗かったのでドアの近くにあった照明のものと思われるスイッチを押したが、照明がつくことはなかった。庭への出入り口は障子戸で和風だが、部屋のドアは洋風だった。ドアノブを回してドアを引くと、廊下から水が流れ込んできて水量が増した。
このまま進むと、靴の中に水が入り込んでくるかもしれない。パトカーに長靴を積んであるので、平沢は一度戻ることにした。
「なにか見つかったか」
新田が平沢に尋ねる。新田が何をしていたのかわからないが、気にするだけ無駄なので頭から思考を追い出す。
「いえ、部屋の中の水量が思ったより多いので、長靴に履き替えます」
「そうか」
平沢はパトカーのトランクを開けて長靴を取り出し、履き替えて脱いだ靴を運転席に置いた。少しの時間だったが、外に出ると解放された気分になる。家の中は理由はわからないが嫌な感じがした。気は進まないが捜索を再開する。
六
最初の部屋を通り過ぎ、廊下に出る。廊下は暗かった。警察官がベルトの外に巻いている拳銃・警棒・手錠をつけた帯のことを帯革という。ほぼ全ての警察官は、この帯革にライトをつけている。夜間に使う頻度が高いからだ。平沢は廊下をライトで照らした。正面は壁になっており、右側の奥に玄関、左は別の部屋と浴室が見える。
最初の部屋の電気がつかなかったのでなかば諦めていたが、廊下の電気のスイッチを探す。部屋を出て右に進むと壁の端に行き当たり、そこから九十度左にまた壁が続いている。左へ続く廊下の右隣に階段がある。九十度左の壁の端、目の高さにあるスイッチを見つけた。押してみると、廊下全体にオレンジ色の淡い照明が灯った。暗闇の中を探さなければならないと覚悟を決めていたので、照明がついて少し安心する。
探し残しがないように、元の部屋から時計回りで調べていくことにする。廊下を左へ進むと、ちゃぷちゃぷと足音が鳴る。廊下には靴底が埋まる程度の水が溜まっていて、歩くたびに長靴の周りに波紋が広がる。
隣の部屋のドアの前に立つ。人の気配を探るが何も感じられない。自分の感覚が正しいとも限らない。警戒しながらドアを開ける。部屋の中には、奥の障子戸を突き抜けておぼろげな外の光が差し込んでいる。こちらの部屋の棚も倒れている。衣類は散乱していなかったが、敷かれた
部屋の探索を終えて再び廊下に出る。廊下の奥に浴室の
ギギっと予想よりも大きな音が鳴って浴室のドアが開く。床の凹凸に少しカビが生えているのが目に映る。浴槽の中には折りたたみ式のフタが立てられており、フタの折り目にはやはりカビが生えている。浴槽に水は張られておらず、フタや浴室内に水滴は見当たらない。しばらく使っていないようだ。人はいない。いなくてよかったと少し安心する。
浴室のドアを閉めて照明を消す。浴室の捜索を終え、時計回りに進む。警戒しながら隣のドアを開ける。台所のようだ。窓から日の光が入ってきているが、薄暗くなってきている。シンクには洗われていないままの食器が重ねられており、食器の近くを数匹の
テーブルに隠れて見えていない床も確認するため、小袋が大量に入ったかごやゴミ箱を蹴らないよう注意しながら移動する。ベルトの周りに拳銃と手錠と警棒を吊るための帯革を巻き付けているので、いつもより腰回りの体積が増えている。テーブルや壁にぶつけて傷つけないよう、ゆっくりと進む。テーブルに沿って回り込むと、レジ袋が落ちているだけで人が倒れているということはなかった。薄く水が溜まっているこの状況で人が倒れていたとしたら、やはり生きている可能性は限りなく低いだろう。周りを傷つけないようゆっくりと体の方向を変え、台所の捜索を終えた。
再び廊下へ出て、玄関に向かって進む。左側の壁が途切れ、九十度左へ壁が曲がり、奥のトイレへ続いている。廊下を進むたびに水量が増えている。足の甲まで水が浸かるようになった。廊下に灯る淡いオレンジ色の光の中、ざぶざぶと水をかき分けて進む。漏水の元はトイレだろうか。木製のドアの目の高さに大きな赤い持ち手にフックのついた画鋲が刺さっており、フックには「TOILET」と表示された札がかかっている。この札があったから遠目でもこのドアの向こうがトイレだとわかった。
警戒しながら右開きのドアを開ける。ふいに足元へ黒い塊が流れてくる。驚いたがわずかに左足を右へずらし、塊は左側を通って後ろへ流されていく。
今のはなんだったのか。わからないが、トイレの確認を優先する。
ドアを完全に開くと、便座に座って頭が床の水に浸かった遺体を発見した。
水に浸かった頭は骨が見えている。
だから遺体だとわかった。
骨が見えた頭が見えているということは、つまり。
足元を流れていった黒い塊は、頭皮ごと
遺体を発見したのだから、報告しなければならない。刑事課を呼ばなければ。
平沢の耳に水の流れる音が聞こえた。目の前のトイレから発せられた音だ。この音はトイレに近づいてからずっと聞こえていたと、今頃になって気づいた。
平沢は来た道を戻る。玄関は使わない方がいいと判断する。現場保存のためだ。可能な限り発見時の状態を維持するべきだ。
外へ出て、大きく息を吐いた。呼吸が浅くなっていたらしい。
「一階のトイレで、なかば白骨化した遺体を発見しました」
「そうか」
「刑事課へ連絡します」
平沢は刑事課へ連絡し、それから三十分ほどで刑事課が到着した。引き継ぎをして、いったん解放される。あとで遺体発見時の書類を作成しなければならない。交番へ戻るためパトカーに乗り込んだときにはすっかり日は落ちていた。
それから一週間ほど後のことだ。深夜、平沢がパトロールをしていて衣田敏男の家の前を通ると、家の電気がついていた。衣田敏男の父親が家の整理をしているのだろう。そうに違いない。
以降、平沢はしばらく深夜のパトロールで衣田敏男の家に近づくのを避けることにした。
沖津二丁目に係る安否確認事案 いふや坂えみし @zaka-blog
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