猫の手

白黄白身

猫の手

 マル太は、僕を弟だと思っていたのか、絶対に媚びなかった。僕はとても悲しかった。


@


「お手」


 僕は右手を前に出す。呼応するかのように、ぷにっとした柔らかい手が置かれる。猫の手だ。


 懐かれていると言えば、そうではない。反対の手に持った、全猫が大好きなオヤツがあるからだ。現金なやつだ。


 真っ白なこの猫を、僕達家族はマル太と呼んでいた。理由は眠る時、まんまるになるから。

 マル太は僕が生まれる前から家に居た。近所の猫が子供を産んで、それをもらってきたらしい。

 昔は手のひらに乗って、まんまるになって眠っていたんだ。父はそう言う。今はこんなの大きいのに、信じられない。


 僕より早く家に居たから、マル太は僕に対してだけ、太々しかった。

 両親がご飯をあげる時、「お手」と言って右手を出せば、マル太は手を乗せた。

 僕が真似しても、マル太は絶対に手を乗せなかった。僕は寂しかった。

 そんな日々の中、あのオヤツが開発された。


 僕が左手にオヤツを持ち、右手を出すだけで、マル太は手を重ねる。視線はオヤツ一点を見つめ、決してぶれない。でも、それで良かった。


 毎日、家に帰るとオヤツ置き場から、一本取り出し袋を開ける。するとマル太は足元にやってくる。

 僕は右手を出した。マル太の手が乗った。僕は嬉しかった。


 オヤツが我が家に導入されてから2年、何度も僕は右手を出した。何度もマル太の手が乗った。僕は幸せだった。


 そんな生活は、僕が18歳の誕生日を迎えるまで続いた。


 何故かマル太は僕より歳をとるのが早かった。僕が18歳になり、マル太は20歳になった。いつまで経っても僕はマル太に追いつけず、その差は開くばかりだった。僕は不服だった。


 しばらくすると、マル太は何もないところで転ぶようになった。家族で大騒ぎした。

 お医者さんにも治せないらしかった。それでもマル太はオヤツが大好きだった。

 僕は右手を出した。マル太の手が乗った。僕は悔しかった。


 しばらくして、マル太は立てなくなった。寝たきりのマル太は、ご飯をあまり食べられなくなった。

 僕は右手を出した。マル太の手は乗らなかった。僕は辛かった。


 次の日、僕はいつもより早く目が覚めた。理由はなかった。マル太が苦しそう浅く息をしていた。僕は慌てた。


 僕を見つけると、マル太の手が動いた。手が少し浮いているように見えた。でも僕はオヤツを持ってない。


 慌ててオヤツを取り出そうとするが、オヤツ置き場にストックがない。早くしなくちゃ。確か棚の奥にまだ開けてない箱があるはずだ。


 マル太の苦しげな呼吸と、壁時計が刻む秒針の音が僕を焦らせる。


 棚の前で崩れる荷物も気にせず、無理にドアを開ける。手前に整頓された猫用品をかき出す。


 止めないで。止まれ!

 もっと大きく。うるさい!

 待っててね。待てよ!

 あと、もう少しだから!!

──────あった!


 袋を開けマル太の方を振り返ると、マル太はオヤツじゃなくて僕を見ていた。


 袋が床に落ち、中身が溢れる。


 僕だけを見ていた。


「あぁ…っ!」


@


 マル太は、僕を弟だと思っていたのか、絶対に媚びなかった。


 撫でようとすると嫌がるくせに、無理に横に寝転がせれて、そのまま眠ったりした。

 顔を合わせれば不機嫌そうな目をするのに、僕が落ち込んだ時はいつも隣にいた。

 無理やりお腹に顔を埋めても、抵抗はしなかった。

 尻尾を軽く撫でると、その尻尾でペチンと腕を叩いた。

 名前を呼ぶと、絶対に振り向いてくれた。

──────僕は、愛されていた。


@


 言葉は出なかった。でも、音だけは出ていた。


 もっとたくさん、名前を呼びたかった。

 もっとたくさん、ありがとうしたかった。

 もっとたくさん、大好きって伝えたかった。

 それなのに、どれも言葉にできなかった。


 悔しくて、悲しくて、堪らなくて。

 僕は少しだけ浮いた手を、優しく握った。

 冷たくなっていく手を温めたくて、必死に両手で握った。

 いつもは神様なんて信じないのに、自分勝手にずっと願ってた。


 程なくして、みっともない泣き声と、時計の煩わしい音だけが残された。


@


 どれくらいそうしていたのか、わからない。

 いつから両親が隣で泣いているのか、わからない。


 涙が枯れた頃、目覚ましの音が鳴り響く。

 僕が大切な家族を失ったと言うのに、時間は止まってくれなかった。


 僕は真っ赤に目を腫れさせながら、学校に向かった。僕はとても悲しかった。

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