アレックス都市伝説シリーズ
迦兰多(Jialanduo)
第一集:緋桜の呪(幕末編)
著者:迦兰多(Jialanduo)
第一節:晩春の異香
文久三年(一八六三年)、晩春。 動乱の時代、大気は焦燥と不安を孕み、淀んでいるようだった。黒船来航の余波は未だ収まらず、京の都で閃く刃の光は、崇山峻嶺を隔てたこの信州・松代藩にまで届いているかのようであった。 しかし、松代藩の若き藩士、榊兵庫(さかき ひょうご)にとって、真に背筋を凍らせるものは、攘夷志士の暗殺名簿でも、揺らぐ幕府の権威でもなかった。それは、頭上を覆い尽くす異常な空であった。 空は、不気味な薄紅色に完全に遮蔽されていた。 暦は四月下旬、桜の花期などとうに過ぎている。例年であれば、嬌憐な花弁は春泥と化し、枝頭には新緑が芽吹いているはずだ。盛者必衰、それこそが「もののあわれ」と呼ばれる美学の極致である。 だが今年、松代藩の桜は散らなかった。散らないどころか、狂気じみた生命力で増殖を続けているのだ。
兵庫の屋敷は城下町の外れ、山林に近い場所にある。幼少より蘭学を修め、自らを合理主義者と任じる彼は、怪力乱神の類を鼻で笑ってきた。星辰の運行も植物の枯栄も、万物には理があると信じている。 だが今、庭に立ち、樹齢百年の枝垂れ桜を見上げる彼の理性は、粘着質な恐怖によって徐々に侵蝕されていた。 その枝垂れ桜は、通常であれば瀑布のごとく枝を垂らし、軽やかで優美な姿を見せる。しかし今、枝には夥しい数の花が層を成して密集し、その重みで繊細な枝は悲鳴を上げるように歪んでいた。それはもはや「垂れる」のではなく、無数の桃色の巨蟒(うわばみ)が樹冠から地面へと「圧し掛かり」、下界の人間を睥睨しているかのようだった。
花の色も異様だ。淡く儚い桜色ではない。何かの養分を限界まで吸い上げたような、深く、濃く、病的な緋色。夕陽の残照を受け、樹全体が燃え上がり、眩暈を誘うような妖艶な光を放っていた。 何より兵庫を不快にさせたのは、その「匂い」だった。 空気中には、煮詰めたような濃厚な甘い香りが充満している。蜜壺をひっくり返したような甘さだが、深く吸い込むと、その底に言い知れぬ腥(なまぐさ)さが潜んでいることに気づく。それは血の匂いというより……古い何かが陰湿な場所でゆっくりと腐敗し、発酵していくような気配。 その異香は鼻腔を犯し、衣服に纏わりつき、皮膚に浸透してくる。肺腑が甘ったるい毒気で満たされ、呼吸をするたびに粘液が絡みつくような重さを覚えた。
「兵庫様、やはりこの花……何か妙ではございませぬか?」 兵庫の沈思を破ったのは、怯えたような声だった。古くから仕える老女中の阿松(おまつ)である。彼女は箒を手にしていたが、掃くべき落花は一枚もない。 「阿松、其方はここに六十年住んでいるな。これごとき光景を見たことがあるか?」 兵庫は視線を戻し、老女を見た。阿松の顔は緋色の花影で青白く見え、濁った瞳には深い憂色が浮かんでいた。 「いいえ、お目に掛かりませぬ。古老の言い伝えでは、桜が散らぬは土地神様の御立腹、凶事の前触れだと……」 兵庫は眉を顰め、その迷信を蘭学の知識で論破しようとした。気候の温暖化か? 土壌成分の変化か? 彼は枝垂れ桜の下へ歩み寄り、研究のために一房の花を摘もうと手を伸ばした。
指先が花弁に触れた瞬間、彼は火に触れたかのように手を引っ込めた。 その感触は、植物のそれではなかった。微かに冷たく、脆い感触ではない。 生温かく、柔らかく、弾力があり……まるで、極めてきめ細かな「生き物の皮膚」に触れたようだった。 心臓が早鐘を打つ。兵庫は不快感を堪え、再び手を伸ばすと、力を込めて花房を引き千切った。 断面から植物の汁は出なかった。 茎が断裂した瞬間、掌の中の花房が、ごく微かに「痙攣」したのだ。 直後、先程より数倍も濃厚な甘い腥気が噴き出した。兵庫は激しい嘔吐感を覚え、花を投げ捨てそうになったが、堪えて目の前にかざした。 懐中の虫眼鏡で覗き込む。花弁の紋様が鮮明に見えた。 それは植物の葉脈ではない。細微な管が蛇行し、交錯するその様は、まるで……極小の血管網だった。
「馬鹿な……」 兵庫は譫言のように呟き、額に脂汗を滲ませた。 これは自然現象ではない。彼の知るいかなる植物学の範疇にもない。 その時、風が吹いた。 普段なら衣の裾さえ揺らさぬ微風。だが、この重苦しい満開の桜の下では、その風さえもが異様に感じられた。 風が吹いても、花弁は一枚も舞わない。 重たげな枝が風に揺られ、擦れ合うたびに、絹鳴りのような、あるいは無数の人間が耳元で囁くような、湿った衣擦れの音が響く。
兵庫は空を見上げた。 松代藩全域が、この妖異な緋色に覆い尽くされていた。山野の桜、街道の並木、寺社の名木、例外なく全てが満開のまま固着している。 その濃密な桃色は空を塞ぎ、昼を昏くし、夜を不気味に彩る。都市全体が巨大な「肉の蓋」の下に閉じ込められ、外界から隔絶されたようだった。 琥珀に閉じ込められた昆虫のような閉塞感。周囲の樹脂は徐々に硬化し、もがくことすら許されない。 さらに不安を煽るのは、城下の人々の反応だった。 当初、人々はこの「散らぬ桜」を瑞兆だと喜んだ。藩主・松平大和守に至っては、乱世における松代藩の永遠の繁栄を示す吉兆だとし、盛大な観桜会を催した。 だが時が経つにつれ、歓喜は正体不明の倦怠感へと変貌していった。 人々は嗜眠(しみん)状態に陥り、動作が緩慢になった。祭りの提灯が下がる通りを歩く人々の顔から笑顔は消え、虚ろな目で頭上の重たい花枝を見つめている。あの甘い異香が麻酔のように、人々の活力を吸い上げているのだ。
兵庫は、今日藩校で会った同僚、田中のことを思い出した。剣豪として知られ、強靭な精神を持つ彼が、講義中に突然言葉を切り、窓外の桜を呆然と見つめていた。 「兵庫君……」田中は夢遊病者のような声で言った。「あの花……我々を見ていると思わないか?」 その時は疲労だと思った。だが今思えば、田中の充血した眼には、深い恐怖と、何かの誘惑に抗おうとする必死の足掻きが見えていたのだ。 兵庫は深呼吸をし、肺に溜まった腥気を吐き出そうとした。蘭学者として、この偽りの美景に溺れるわけにはいかない。 彼は書斎に戻り、分厚い植物図鑑を開いた。原因を突き止めねばならない。 しかし、精緻な植物画に目を落とした時、彼はある違和感に気づいた。 図鑑の下に、西洋から取り寄せた解剖学書が重なっていたのだ。表紙には、胸郭を開かれた人体解剖図が描かれている。 兵庫の視線が、桜の挿絵と、解剖図の肺の構造を行き来する。 戦慄が脳髄を走った。 あの異常な花弁の紋様……それは、解剖図に描かれた「気管支と肺血管」の走向と、酷似していたのだ。
第二節:腐根の呻き
花弁の紋様と人体解剖図の酷似。その発見は、冷たい釘となって兵庫の脳裏に打ち込まれた。 彼は本を閉じた。鯨油ランプの炎が無風の中で大きく揺らぎ、壁に映る彼の影を歪に引き伸ばす。 部屋に充満する甘ったるい腐臭は、意思を持ったかのように彼の目鼻に潜り込もうとしていた。 ここには居られない。理性的な空気が欲しかった。
彼は大小を帯び、屋敷を飛び出した。 夜の帳は下りていたが、松代藩に闇はなかった。頭上を覆う緋色の桜雲が、城下の灯りを反射し、空を病的な暗赤色に染め上げていた。 通りには人影があった。祭りの衣装を纏い、提灯を提げた人々が、城の中心である本丸へと向かっている。 だが、それは祝祭の行進ではなかった。 兵庫が人混みに紛れ込むと、すぐに異様な気配を感じ取った。 喧騒も歌声もない。ただ、無数の草鞋が石畳を擦る「ザッ、ザッ」という音が、巨大な軟体動物の這う音のように響くだけだ。人々の動きは緩慢で、顔には薄気味悪い恍惚の笑みが張り付いている。 時折、誰かが立ち止まり、頭上の花枝を愛おしげに見つめ、あえぐような吐息を漏らす。 赤子を抱いた若い母親がいた。赤子が泣き叫んでいるのに、母はあやすこともせず、路傍の桜の枝を、まるで恋人の頬を撫でるように優しく愛撫していた。 強烈な違和感が兵庫の喉を締め付ける。彼らは魂を抜かれ、本能だけで動く肉袋のようだ。 彼は人の波に逆らい、藩校へ向かった。 この藩で唯一、正気を保っているであろう人物、恩師であり稀代の蘭学者、佐久間象山(さくま しょうざん)に会うために。
藩校は山裾にあった。近づくにつれ人影は消え、異香はいっそう重くなる。 校門は閉ざされていた。彼は塀を乗り越え、中庭へ入った。 静寂の中、象山の書斎だけに明かりが灯っている。 扉を叩こうとした兵庫の手が止まった。中から音が聞こえる。 それは読書の声ではない。低く、断続的な呻きと、湿った何かが床を擦る音。 「……違う……理屈が……通らぬ……」 衰弱しきった象山の声だった。 兵庫は礼儀も忘れ、障子を開け放った。 むせ返るような悪臭。桜の香りと、化学薬品、古紙、そして……腐肉の臭気。 書斎は惨状を呈していた。本棚は倒れ、実験器具は砕け散っている。 その中央で、佐久間象山は床に這いつくばっていた。 衣服は裂け、髪は乱れ、顔は煤と墨で汚れている。だが、そんなことは些事だった。 象山は、実験などしていなかった。 彼は、床板を剥がし、その下の黒い土を、素手で掘り返していたのだ。 爪は剥がれ、指先は血肉に塗れ、それでも彼は狂った土竜(もぐら)のように土を掻き出している。
「先生! 何をなされているのですか!」 兵庫が駆け寄ると、象山が顔を上げた。 兵庫は息を呑んだ。師の目は血走り、瞳孔は極限まで開き、恐怖と狂熱が入り混じっていた。頬はこけ、数日で二十年は老け込んだようだ。 「兵庫か……お前も……感じたか?」 「何をです? 先生、お早く手当てを……」 「根だ!」 象山は兵庫の手首を掴んだ。万力のような力、氷のように冷たく、湿った泥の感触。 「根だ! 全ては根にある! 私は解剖した……花を、枝を……構造が違う……あれは導管ではない、血管だ! 神経だ!」 彼は兵庫を離し、掘り返した穴を指差した。 「見ろ! これを見ろ!」
兵庫は恐怖を堪え、穴を覗き込んだ。 そこには、校庭の古桜の側根があった。 だが、それは「木の根」ではなかった。 大人の太腿ほどもあるその根は、樹皮ではなく、肉色の半透明な膜に覆われていた。膜の下では、青黒い静脈が脈打っている。 水分を吸っているのではない。血液を送っているのだ。 周囲の土壌は黒ではなく、大量の血液を吸ったような暗赤色に変色し、そこには無数の白い蛆のような細根が蠢き、土から何かを貪欲に啜っていた。 「聞こえるか……」 象山は地面に耳を押し当て、虚ろに囁いた。 「地の底……深いところで……何かが跳ねている……ドクン……ドクン……」 兵庫は息を殺した。 静寂の底、異香の奥から、それは聞こえた。 風音ではない。虫の音でもない。 地殻の深部から響く、極めて低く、緩慢な震動。 ドクン……長い間隔をおいて……ドクン。 その度に地面が微かに震え、兵庫の心臓も共鳴するように跳ねた。 それは地質活動ではない。数千尺の地下で、巨大な心臓が拍動している音だ。 この怪異な樹根は、地下の「母体」から、忌まわしい養分を地上の花々へ送り続ける巨大な臍の緒なのだ。 「目が覚めたのだ……」 象山は泣き顔のような笑みを浮かべた。 「兵庫、我々は皆……『あれ』の養分になるのだ」
第三節:生体標本の宴
「目が覚めたのだ……」 佐久間象山の言葉は、泥の匂いと絶望を孕み、呪詛のように兵庫の耳にこびりついた。 地底からの巨大な心音――ドクン……ドクン……――は、一打ごとに兵庫の胸を打ち、息苦しさを増幅させる。肉色の樹根は、地獄の淵から伸びた触手のように脈打ち、想像を絶する恐怖の存在へと繋がっている。 「先生、逃げましょう! この事を藩主に報告せねば!」 兵庫は象山を立たせようとした。 しかし、師の体は鉛のように重かった。彼は土坑の縁にしがみつき、あの肉根を離そうとしない。それは命綱への執着か、あるいは……断ち切れぬ愛着か。 「逃げる? どこへだ?」 象山は顔を上げ、濁った瞳に異様な光を宿して言った。 「松代城下すべてが『あれ』の支配下にある。大気の香りも『あれ』の吐息だ。もう逃げ場はない、兵庫。我々は……既に毒されている」 彼は懐から油紙に包まれた手帳を取り出し、兵庫に押し付けた。 「これを持っていけ……私の観察記録だ……推測も書いてある……」 象山の声は急迫し、今わの際の灯火のように揺らめいた。 「ここに……『あれ』に対抗する術があるかもしれん……早く行け……私にかまうな……私はもう……深入りしすぎた……」
言葉が途切れた。 肉色の樹根が蠢いたからだ。 白い蛆のような細根が鎌首をもたげ、血の匂いを嗅ぎつけたヒルにように、音もなく象山の腕に這い上がった。 「先生!」 兵庫は絶叫した。 だが、象山は抵抗しなかった。それどころか、その顔には解脱にも似た安堵の表情が浮かんでいた。彼は目を閉じ、細根が皮膚を食い破り、血管と筋肉へ潜り込むのを甘んじて受け入れた。 血は流れない。細根は完璧な宿主を見つけたかのように、急速に象山の肉体と融合していく。 「あぁ……」 象山は長い吐息を漏らした。それは苦痛ではなく、どこか愉悦を帯びていた。 「なんと……暖かい……」 彼は譫言を漏らし、巨大な根の拍動に合わせて、微かに震え始めた。
兵庫は骨の髄まで凍るような悪寒を感じた。もう助からない。理性は逃走を命じているが、足がすくんで動かない。 その時、外から足音が近づいてきた。 引きずるような音ではない。整然とした、力強い、武具の擦れる音。 「榊兵庫! おるか!」 厳しい声が響いた。藩の目付(監察官)が、武装した藩士たちを率いて現れたのだ。 兵庫は身構えた。象山の奇行が露見したのか? 藩校での乱行は重罪だ。 彼は手帳を懐に隠し、覚悟を決めて書斎を出た。 戸外には七、八人の藩士。目付は青ざめた顔で兵庫を睨みつけた。 「榊兵庫、藩主の命により、直ちに本丸へ登城せよ」 「藩主様が?」 兵庫は耳を疑った。一介の下級藩士が、藩主に謁見するなどあり得ない。 「問答無用、参れ!」 目付が合図すると、二人の藩士が左右から兵庫を挟んだ。それは召喚というより連行だった。 兵庫は書斎を振り返った。死のような静寂の中、仄暗い灯りだけが漏れている。象山がどうなったか知る由もないが、自分は今、より大きな渦中へ踏み込もうとしていることだけは確かだった。
一行は本丸へ向かう大道を進んだ。 観桜会は最高潮に達しているはずだった。本丸周辺の桜は無数の提灯に照らされ、紅蓮の炎のように夜空を焦がし、異形の桜を妖艶に浮かび上がらせている。甘い腐臭は窒息しそうなほど濃い。 だが奇妙なことに、本丸付近には町人の姿がなかった。警備は厳重で、守衛の藩士たちは厚い面頬をつけ、表情を隠している。
幾重もの庭園を抜け、彼らは大広間へ通された。 開け放たれた襖の向こう。その光景に、兵庫の瞳孔が収縮した。 それは観桜の宴ではなかった。 死の香りに満ちた「生体標本展」だった。
大広間には膳が並んでいるが、芸妓も楽師もいない。 左右に座すのは、家老や重臣たち。きらびやかな礼服に身を包み、正座している。 だが、その姿勢はあまりに硬直していた。微動だにせず、顔には不気味な薄笑いを張り付け、虚空を見つめている。 彼らの前の膳には、酒肴ではなく、豪奢な漆塗りの盆が置かれていた。 盆の上にあるのは食物ではない。 暗赤色の液体を満たした瓶に生けられた、満開の桜の枝だった。 花は毒々しいほどに鮮やかだ。そして重臣たちは、花を愛でているのではない。花に「愛でられて」いた。 兵庫は見た。桜の枝先から、髪の毛のように細い肉色の触手が伸びているのを。 触手は意思を持つかのように、重臣たちの鼻孔、耳、あるいは衣の隙間から皮膚へと侵入し、蠢いている。 大広間は死寂に包まれ、誰も言葉を発さず、身動きもしない。ただ触手だけが緩慢に蠕動し、重臣たちの恍惚の笑みが深まっていく。
上座、藩主の座には、松平大和守がいた。 彼の姿は、家臣たちより遥かに凄惨だった。 背後の屏風から生えた巨大な桜の樹に、半身を取り込まれていたのだ。 太い肉色の枝が体を締め上げ、無数の花が彼の体表から直接咲き誇り、半人半樹の怪物へと変貌させている。 だが藩主に苦痛の色はない。誰よりも狂熱的で、幸福な表情を浮かべていた。血走った目を限界まで見開き、入室した兵庫を凝視している。 「あぁ……兵庫、来たか……」 藩主の声は空洞のように響き、粘着質な反響を伴っていた。 「見よ……なんと美しき……偉大なる恩寵か……」 藩主は枝に絡め取られた手を辛うじて上げ、満室の「生体標本」を指し示した。 「我らは……ついに『あれ』と一体になったのだ……」 藩主の口角が信じ難い角度まで裂け、木質化し始めた歯茎と舌が露わになった。 「今宵こそ……我が松代藩……総員『昇天』の時……」
第四節:肉質の迷宮
「昇天だと?」 兵庫は目の前の狂気と恐怖に、胃の腑が裏返るのを覚えた。 これは昇天などではない。集団生贄、生きた人間を植物の肥料へと変える邪教の儀式だ。 日頃、藩政を論じ合っていた重臣たちが、今は操り人形のように座し、肉色の触手に犯されている。その一律の、恍惚とした微笑みは、極楽を見ているかのような虚ろさだ。 「兵庫、何を躊躇う?」 半身を桜に取り込まれた藩主・松平大和守が、空洞の如き粘着質な声で促した。 「早く加われ。『緋桜神』の恩寵を受けるのだ。見よ、其方の席も用意してある」 木質化した藩主の指が、末席の空席を指す。そこにも漆の盆があり、触手を伸ばす妖花が生けられていた。 兵庫は戦慄した。あそこに座れば、自我を捨て、この恐怖の生態系の一部と化す。 彼は懐の象山の手帳を上から押さえた。これが唯一の希望だ。座して死を待つわけにはいかない。 「御免……蒙る!」 兵庫は佩刀を一閃させた。薄暗い広間に白刃が煌めく。 「無礼者!」 藩主の傍らに控えていた目付が、刀を抜き放ち突進してきた。 その動きは平時より鈍重で、顔にはあの不気味な笑みを浮かべたままだが、太刀筋の重さは変わらない。 兵庫は身を捻って剛剣を躱し、返し刀で目付の袖を切り裂いた。 血は出ない。 裂けた袖の下から覗いたのは、皮膚でも筋肉でもなく、灰白色の樹皮のような硬い組織だった。 その下で、無数の肉色の繊維が蠢き、傷口を修復している。 目付は痛みを感じていない。一瞬呆けた後、その笑みを一層獰猛に歪め、疲労を知らぬ機械のように再び斬りかかってきた。 兵庫は悟った。もはや人間ではないこの怪物たちに勝機はない。 彼は防戦一方となり、出口へと後退した。 「捕らえよ! 逃がすな!」 藩主が咆哮する。彼を縛る桜の枝が激しく蠢き、今にも襲い掛からんとする。 僵坐していた重臣たちも、次々と立ち上がった。 動作はぎこちなく、関節からは「バキリ、バキリ」と、骨が植物繊維に置換されたような不快な音が響く。彼らはゾンビのように群がり、退路を塞いだ。
兵庫は広間の隅、桜の絵が描かれた屏風の前へ追い詰められた。 絶体絶命。かつての同僚、上司たちの成れの果てに囲まれ、彼は刀を構えるしかなかった。 その時、背後の屏風が「ビリッ」と破れた。 手が伸び、兵庫の襟首を掴んだ。 兵庫が驚愕して振り返りざまに斬ろうとすると、耳元で聞き覚えのある声が囁いた。 「声を出すな、来い!」 阿松婆だ! その腕力は驚くほど強く、兵庫はなす術もなく屏風の裏へ引きずり込まれた。 そこには狭い隠し通路があった。漆黒の闇、カビと甘い腥気が充満している。 「阿松、なぜここに?」 兵庫は息を切らせて問うた。 先を行く黒い影は答えず、黙々と進む。その足取りは速く、六十過ぎの老婆とは思えない。 通路は迷路のように入り組み、徐々に下り坂になっていく。湿気が増し、壁からは水滴が滲み出ていた。 やがて微かな光が見え、通路が開けた。 巨大な地下空間に出た。 兵庫は息を呑んだ。 そこは地下室や貯蔵庫ではない。あの恐怖の桜の「根の国」だった。 巨大な肉色の根が虬龍(きゅうりゅう)のごとく盤根錯節し、暗赤色の光を放ちながら脈打っている。修羅場のような光景。頭上や四方には蜘蛛の巣のように細い根が垂れ下がり、獲物を求めて空中で蠢いている。 地面には累々たる白骨。人間、獣。すべて根に巻かれ、髄まで吸い尽くされ、脆いカルシウムの殻だけが残されている。 その間には、腐敗の途上にある死体も散らばっていた。様々な時代の衣服を纏った乾屍(ミイラ)。ここは松代城の数百年にわたる「ゴミ捨て場」であり、妖樹の「食堂」だった。
「阿松、どこへ行くのだ?」 兵庫の声が震える。巨大生物の胃袋に落ちた気分だった。 先導していた阿松が足を止めた。 ゆっくりと振り返る。 根の放つ赤い光の中、兵庫はその顔を見て後ずさりした。 慈愛に満ちた老婆の顔ではなかった。 顔の半分は肉色の植物組織に覆われ、片目は虚ろな樹瘤(こぶ)と化している。体も変異し、片腕は異様に肥大化して木質の棘が生えていた。 だが、残された片目には、兵庫が見たこともないほど清明で、断固とした光が宿っていた。 「兵庫様……」 阿松の声は、木片を擦り合わせたように嗄れていた。 「私……私はもう、自分を抑えきれませぬ」 変異した太い腕を上げ、地下空間の深淵を指差す。 「あそこへ……『源』へ行ってくだされ……」 「源?」 「私は……ここの墓守でございます……」 阿松は苦痛に顔を歪めた。体内の何かと必死に戦っているようだ。 「松代家は……代々……『あれ』を奉ってきました……」 「ですが……今年の生贄は……足りなかった……」 阿松の体が激しく痙攣し、肉色の組織が爆発的に侵食を始めた。 「早く……若様……行って……象山様の仰る通り……」 彼女は最後の理性を振り絞り、兵庫を強く突き飛ばした。 「心臓を……潰して……」 言い終わるや否や、阿松は人間のものではない咆哮を上げ、傍らの巨大な脈打つ根へと身を投げた。 体は瞬く間に根と融合し、その一部となった。 兵庫は涙を拭い、歯を食いしばった。阿松が示した闇の奥へ走り出す。 根の迷宮を抜け、白骨を踏み砕く。 あの重苦しい巨大な心音――ドクン……ドクン……――が、耳をつんざくほど大きく響き始めた。 恐怖の真実は、すぐそこにある。
第五節:血肉の苗床
地下深くへ進むにつれ、空気は粘度を増し、甘く腐乱した異香が固形物となって喉を塞ぐかのようだった。 巨大な心音――ドクン……ドクン……――は、もはや聴覚ではなく、内臓と骨を直接揺さぶる物理的な衝撃となり、激しい吐き気と目眩をもたらす。 周囲の光景は、人間の理解を超えていた。 地下迷宮を構成する肉色の根は、植物というより巨大生物の血管や筋肉そのものであり、暗赤色の微光の下で生々しく蠕動している。 兵庫は生き物の体内を歩いている錯覚に陥った。足元の感触は湿った粘膜のように柔らかく、踏みしめるたびに粘液が滲み出る。 生理的な嫌悪感をねじ伏せ、刀を握りしめ、彼は進んだ。 阿松の最期の導きと、象山の手帳だけが頼りだった。
無数の根が絡み合う狭い空洞を抜けると、視界が開けた。 そこは広大な地下空洞だった。天井は見えないほど高く、鍾乳石のように太い根が垂れ下がっている。 そして中央には、巨大な円形の「穴」があった。 轟く心音は、その穴の底から響いてくる。 兵庫は穴の縁に立ち、底を覗き込んだ。 全身の血が凍りついた。 底にあるのは、植物の球根でも心臓でもない。 それは「池」だった。 暗赤色の、ドロリとした液体が満ちる池。液体は緩慢に沸騰し、気泡を上げては破裂し、耐え難い腐臭を放っている。 その池の中央に、名状しがたい巨大な「モノ」が浮いていた。 無数の人間の四肢、胴体、頭部がねじれ合い、融合してできた巨大な肉塊。 皮膚はなく、鮮紅色の筋肉と青紫の血管が剥き出しになり、液体の飛沫を浴びて濡れ光っている。 肉塊の表面には無数の歪んだ人の顔が埋め込まれていた。叫び、泣き、狂笑しているが、その声は心音にかき消され、ただ口だけがパクパクと動いている。
これこそが真の「緋桜神」。 松代藩の地下に数百年隠されてきた秘密。 地上の桜は、この怪物が獲物を捕らえ、繁殖するために伸ばした触手に過ぎない。花香で人間を惑わせ、根で養分として取り込み、最終的に同化する。 歴代藩主は神を奉っていたのではない。怪物を「飼育」していたのだ。死刑囚や民、家臣を餌として与え、引き換えに偽りの繁栄と「永生」を得ていた。 だが今年、怪物の飢えは限界を超えた。地下の生贄では飽き足らず、松代城全体へ魔手を伸ばしたのだ。
絶望が兵庫を襲う。こんな巨大な化け物に、一本の刀で何ができる? その時、懐の手帳が熱を持ったように感じた。 彼は手帳を開いた。薄明かりの下、象山の筆跡を追う。 最後のページ。走り書きのような文字。 『……奴は無敵ではない。力は「融合」と「同化」にある。根のネットワークが意識と力の伝達路だ。もしネットワークを、特に地上への主幹との接続を断てば、休眠状態に陥るかもしれぬ……』 『……弱点は……未だ完全に同化されていない部分……人間としての意識が残留している「結節点(ノード)」だ……そこが最も不安定な要素である……』
兵庫は顔を上げ、肉塊を見つめた。 肉塊の頂点。そこから天井の闇へ向かって、一本の極太の主根が伸びている。地上の枝垂れ桜へ繋がる大動脈だ。 その主根と肉塊の接続部。そこに、一人の人間が埋め込まれていた。 旧式の武士の装束。下半身は肉塊に溶け込んでいるが、上半身と頭部は露わになっている。 顔は苦悶に歪んでいるが、その面影に見覚えがあった。 松代藩初代藩主、真田信之(さなだ のぶゆき)。 晩年隠居し、行方知れずになったとされる英雄。彼こそが最初の「宿主」であり、地上と怪物を繋ぐ最初の「結節点」だったのだ。 信之の目は、頭上の根を凝視し、何かを呟いている。 兵庫は耳を澄ませた。 「……殺せ……早く殺せ……」 「……終わらせてくれ……頼む……」 残留思念の哀願。彼こそが不安定なノードだ。彼を破壊すれば、繋がりを断てるかもしれない。 だが、肉塊は腐食液の池の中央にある。どうやって近づく? 兵庫は周囲を見回した。 天井から垂れ下がり、池の縁近くまで伸びている太い根があった。その先は信之の近くまで達している。 狂気じみた賭け。勝算は薄い。だが選択肢はない。 兵庫は深呼吸し、手帳を懐にしまい、柄を握り直した。 助走をつけ、跳んだ。 湿って滑る根に飛びつく。 根が激しく震え、細い触手が蛇のように絡みついてくる。兵庫は刀を振るい、狂ったように触手を斬り捨てた。粘液が肌を焼き、激痛が走る。 痛みを堪え、バランスを取りながら、池の中央へ向かって根を伝い進む。 近づく。信之の苦悶の表情がはっきりと見える。 下の肉塊が脅威を察知し、激しく波打ち始めた。液体が大波となって兵庫を襲う。 兵庫は爪を立てて根にしがみついた。 ついに、真田信之の真上に到達した。 迷いはない。 兵庫は刀を逆手に持ち、全身全霊の力を込め、咆哮した。 「うおォォォ!!!」 彼は身を投げた。己を復讐の流星と化し、初代藩主の、未だ人間性を残した頭蓋へと突っ込んでいった。
第六節:断たれた臍の緒
兵庫の体は、重力に加速された矢となり、粘つく大気を切り裂いて落下した。 眼下には初代藩主・真田信之の歪んだ苦悶の相。 それは単なる標的ではない。全ての罪悪を終わらせるための唯一の開閉器(スイッチ)だ。 切っ先が肉を穿つ感触は、通常の人体のそれとは異なっていた。骨の抵抗も筋肉の弾力もない。腐敗した泥沼か、巨大な腫瘍に突き刺さるような、不快な柔らかさと微かな抵抗。 ズチュッ―― 鈍い音が心音にかき消される。 刃は信之の脳幹まで深々と達し、兵庫の体も勢いのまま巨大な肉塊へと激突した。 鼻が曲がるほどの腥臭。 直後、肉塊が激しく痙攣した。これまでにない激震が兵庫の五臓六腑を揺さぶる。 信之の顔に張り付いていた苦痛が凝固し、見開かれた瞳孔が瞬時に拡散した。 数百年続いた哀願――「殺してくれ……」――が唐突に途絶える。 次の瞬間、信じ難い現象が起きた。 意識の消滅と共に、信之の半身が急速に崩壊を始めたのだ。接着剤を失った砂の城のように、皮膚も骨も灰白色の粉末となり、下の煮え立つ暗赤色の池へと溶け落ちていく。 その崩壊箇所こそ、地上への主根を繋ぎ止めていた要(かなめ)だった。 結節点を失った主根は、神経を切断されたかのように瞬時に活力を失った。鮮やかな肉色が褪せ、死灰のような褐色へと変貌し、激しく収縮しながら亀裂を走らせる。
バキバキッ――ドォォン! 轟音が地下空間を圧した。 自重と崩壊に耐え切れず、主根が肉塊から完全に断裂したのだ。 傷口から噴き出したのは血ではない。大量の灰白色の胞子だった。 胞子は濃霧のように爆発的に広がり、視界を遮った。
「やったか……」 兵庫は激震する肉塊の上で、荒い息を吐いた。賭けには勝った。 だが、危機は去るどころか悪化していた。 地上との接続を絶たれた怪物は、狂乱状態に陥った。肉塊はのたうち回り、血の池に巨浪を巻き起こし、壁に激突する。地下全体が崩落寸前のように揺れている。 兵庫は肉塊表面の突起――誰かの手足の残骸――にしがみつき、必死に振り落とされまいと耐えた。落ちればあの腐食液の中だ。 さらに悪いことに、胞子雲が襲ってきた。 ひと呼吸した瞬間、喉と肺に焼けた鉄串を突っ込まれたような激痛が走った。 激しく咳き込むと、血痰が出た。毒だ。 象山の手帳にあった記述。怪物は致命的な脅威に対し、腐食性と幻覚作用を持つ胞子を放出する。 強烈な目眩。視界が歪む。 肉塊に埋め込まれた無数の顔が生き返り、一斉に兵庫を見て獰猛に笑い、欠損した腕を伸ばして掴みかかろうとする。 耳元の心音は、無数の叫びと狂笑が入り混じった地獄の交響曲へと変わった。 『兵庫……来い……一緒になろう……』 『苦しい……腹が減った……』 『なぜ……なぜ拒む……』 声が脳髄を直接掻き回す。意識が拡散し、抵抗を止めてこの巨大な集合体へ溶け込みたいという誘惑が湧き上がる。 駄目だ! ここで倒れては、阿松や象山の死が無駄になる! 兵庫は舌を噛み切る勢いで噛んだ。激痛で理性を呼び戻す。 逃げ道を探せ。 彼は上を見た。断裂した主根の上半分が、天井からぶら下がり、死にかけた大蛇のように力なく揺れている。 あれしかない。あの根を登れば、地上へ戻れるかもしれない。 だが、根の先端は十数メートルも上空にあり、激しく揺れている。 絶望しかけたその時、肉塊が最大級の痙攣を起こし、跳ね上がった。 兵庫の体は巨大な力で空中に放り出された。 放物線を描き、血の池へ落下する―― その刹那、彼が闇雲に伸ばした手が、奇跡的に垂れ下がった根の先端を掴んだ。 枯れてなお強靭な根。兵庫は激突の衝撃に耐え、守宮(ヤモリ)のようにしがみついた。 助かった。 だが、本当の地獄はこれからだ。 毒胞子の中、崩壊する地下で、ぬめり、揺れ動き、枯死しつつあるこの根を数百メートル登らねばならない。 彼は下を見た。 肉塊は血の池で狂ったように暴れ回っている。無数の顔が頭上を仰ぎ、怨嗟と未練に満ちた虚ろな目で、登っていく兵庫を凝視していた。 ドクン……ドクン…… 乱れ、狂った心音は、生死をかけた脱出劇への最後のカウントダウンのように響き続けていた。
第七節:零落する緋色
登攀は、永遠に続く拷問に等しかった。 枯死したとはいえ、根の表面は断末魔の分泌液でヌルヌルと滑る。指を干からびた亀裂にねじ込み、足指で瘤に食らいつき、一歩一歩、全身全霊で体を引き上げる。一度の過ちで、下の血の池へ逆戻りだ。 毒胞子の濃度は増すばかりだった。 肺は呼吸器としての機能を失い、燃える炭を詰め込まれたふいごのようだった。呼吸のたびに激痛が走り、吐き出した血が目の前の根を赤く染める。 幻覚は苛烈を極めた。 根の木目から阿松の悲しげな顔が浮かび上がり、前方で象山の影が手招きしては消える。 風切り音は悲鳴に変わり、虚空から伸びる無数の見えざる手が、彼の着物を引きずり下ろそうとする。 『諦めろ……兵庫……』 『逃げられんぞ……』 『こちらへ来い……』 兵庫は視覚と聴覚を閉ざし、生存本能のみを駆動させた。 世界は眼前の灰褐色の根と、機械的な動作の繰り返しだけになった。手を伸ばす、掴む、引き上げる、また手を伸ばす……。 どれほどの時間が経ったのか。一時(いっとき)か、一生か。 体力の限界を超え、意識が暗転しかけたその時、異変を感じた。 胞子の濃度が薄まり、あの窒息しそうな甘い腥気が和らいだのだ。 代わりに鼻をくすぐったのは、泥と夜露の混じった……新鮮な冷気。 顔を上げる。 頭上には、土と岩の天井。その隙間から、一筋の裂け目が見えた。 そこから漏れ入る、か細い地上の光。 希望の光だ。 兵庫は最後の力を振り絞り、速度を上げた。 裂け目に体をねじ込み、泥と岩の間を這い上がる。 手が、草の感触を捉えた。 彼は渾身の力で、地中から己の体を引き抜いた。 地面に転がり、貪るように空気を吸った。まだ微かに甘い匂いは残るが、地下の毒ガス室に比べれば天国だった。 生きて戻った。 よろめきながら立ち上がり、周囲を見渡す。 そこは本丸の裏手にある寂れた庭園だった。 そして眼前の光景に、彼は目を疑った。 空を覆い尽くしていた妖艶な緋色の桜が、驚くべき速度で凋落していたのだ。 自然な散り方ではない。枯死し、崩壊している。 花は水分と色を失って灰色の塵となり、枝は干からびて「パキパキ」と骨が砕けるような音を立てて折れ、落下していく。 覆いが取れた空には、本来の深い夜闇と星々が戻り、清冽な月が輝いていた。 甘い異香は急速に消え失せ、街を支配していた重苦しい空気も霧散していく。 遠くから、人々の悲鳴と……泣き声が聞こえた。正気の人間の声だ。 兵庫は足を引きずり、大広間へ向かった。 広間は惨状だった。 寄生されていた重臣たちは床に倒れ伏していた。突き刺さっていた枝は枯れ落ち、体には痛々しい穴が残されている。 彼らは死んではいなかったが、死よりも酷い状態だった。長い悪夢から突然叩き起こされたように、呆然と自分の傷を見つめ、何が起きたのか理解できずに震えている。偽りの幸福感は消え、残ったのは底知れぬ恐怖と虚脱感だけだ。 上座の松平大和守は、最も悲惨だった。 彼を包んでいた巨樹は完全に枯死し、干からびた枝が枷のように彼にぶら下がっている。 藩主は体を丸め、紙のように白くなった顔で、恐怖に打ち震えていた。狂熱は去ったが、正気には戻っていない。 虚ろな目で兵庫を見つめ、譫言を繰り返す。 「……消えた……神が……消えた……」 「……なぜだ……なぜ見捨てた……」 「……寒い……虚しい……」 兵庫は勝利の喜びなど微塵も感じなかった。あるのは深い悲哀だけだ。 地下の臍の緒を断ち、数百年の呪いを終わらせた。だが代償はあまりに大きい。阿松も象山も、多くの命が失われた。生き残った者たちも、心身に消えない傷を負った。 兵庫は広間の縁側に立ち、急速に枯れゆく桜林を見つめた。 夜風が吹き、灰白色の花の残骸を巻き上げる。遅すぎた葬列のように。 松代藩の春は終わった。最も残酷で、決定的な形で。 だが兵庫は知っていた。怪物は死んではいない。 地上との接続を失い、休眠しただけだ。あの底知れぬ血の池で、次の目覚めを、次の愚かな「接続者」を待っているのだ。 懐の手帳に触れる。象山が命を賭して残した真実。 生きねばならない。これを記録し、後世へ伝え、警告せねばならない。たとえその真実が、どんな怪談よりも恐ろしくとも。 彼は月を見上げた。阿松と象山が微笑んでいる気がした。 「生きるぞ、兵庫」 彼は刀を握り締め、未知の闇夜へと歩き出した。
第八節:散らぬ種
文久三年のあの春、松代藩の桜は一夜にして枯死し、灰燼に帰した。 この怪事は、動乱の時局に乗じ、藩によって迅速かつ不可解な手際で揉み消された。 公式には、黒船と共に渡来した西洋の植物病が蔓延したためとされた。あの夜の惨劇や藩主の乱心は、時局への憂慮が引き起こした集団ヒステリーとして処理された。 真実は厚い土と、より厚い緘口令によって封印された。 地下への通路や兵庫が這い出した亀裂は、巨石と生石灰で厳重に埋め戻された。作業に関わった下級武士たちは、数日中に相次いで不審死を遂げた。 松代城は平穏を取り戻したが、その下には窒息しそうな死の気配が澱んでいた。 藩主・松平大和守は一命を取り留めたものの、発狂した。暗室に引き籠もり、光と植物を極度に恐れ、花柄の着物を見ただけで悲鳴を上げ、皮膚の下に何かがいると叫んで自身の肌を掻き毟り続けた。 生き残った重臣たちも、行ける屍のように口を閉ざした。彼らの体には円形の傷痕が残り、雨の日にはその奥が幻覚のように疼いた。
榊兵庫は、唯一の覚醒者として、孤独な墓守となった。 役職を辞し、佐久間象山の旧居に移り住んだ。師の蔵書と、あの手帳を受け継ぎ、残りの人生をかけてあの夜の出来事と、地下の存在に関する考察を記録し続けた。 蘭学の暗号を用い、一見すると植物学の覚え書きに見えるように偽装して。 やがて幕府は倒れ、明治が来た。 髷は切られ、帯刀は廃された。松代藩は長野県の一部となり、本丸は取り壊され、学校や庁舎が建った。旧時代の痕跡は消え去り、あの妖異な春など無かったかのようになった。 新しい桜が植えられた。それらは春に淡く咲き、すぐに散る。人々はその下で笑い、無常の美を讃えた。 兵庫だけは、桜を直視できなかった。舞い散る花弁が灰色の残骸に見え、鼻先にはあの甘い腐臭が蘇る。耳の奥では、あの心音――ドクン……ドクン……――が鳴り響くのだ。
彼は生涯妻を娶らず、秘密の手記と恐怖の記憶を守り続けた。 明治三十年(一八九七年)、晩秋の夜。 老いた兵庫は病床にあり、死期を悟っていた。 彼は這うように起き上がり、暗号化した手記を漆塗りの鉄箱に入れ、庭の枯れた古桜――かつて最初の異変を目撃した場所――の根元に埋めた。 力を使い果たし、床に戻る。 月光が枯れ木のような腕を照らす。 地下からの脱出時、毒胞子に侵された体は、長年彼を苦しめてきた。 だが今夜、月明かりの下で袖をまくり、彼は左腕の内側を見た。 そこには、根を登った際に火傷のように残った、銅銭大の暗赤色の痣があった。 数十年間、痛みも痒みもなく沈黙していた古傷。 それが今、鮮やかに変色していた。 不気味な生命力を帯びた肉色に輝き、微かに隆起している。触れると、死んだ皮膚の粗さはなく、きめ細かく、温かく、弾力があった。 まるで……ゆっくりと成長する、一枚の花弁のように。
兵庫の濁った瞳から、一筋の涙が伝い落ちた。 彼は悟った。あの夜、臍の緒を切ったが、怪物を殺したのではなかった。 怪物は彼の手を借りて、「播種」を行ったのだ。 自分は生存者でも墓守でもない。選ばれた最後の、そして最も優秀な「容器」だったのだ。 一生をかけて秘密を守り、同時に一生をかけて、己の血肉で、地上に残された最後の「種」を温め続けてきたのだ。 兵庫は震える指で、その肉色の隆起を優しく撫でた。 死の淵で、彼は言い知れぬ、総毛立つような安らぎを感じていた。 あの音が聞こえる気がした。地下深くから、遥かな時空から、そして自身の体内から。 ドクン……。 彼は目を閉じ、かつての藩主と同じ、妖しく満ち足りた微笑みを浮かべた。
「春が……また来る……」
(第一集 完)
アレックス都市伝説シリーズ 迦兰多(Jialanduo) @Alexsayst
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