煤降る街の白粉
修羅
第1話
この街は、魔石を燃やした煤を白粉のように塗り、表面上の華やかさを演出している。
かつて誰よりも白くあろうとした女たちが毒物にさいなまれたように、女だけでなくその稚児まで死に追いやったことを知っていながら。
この繁栄にも当然対価が必要なはずなのに、暗い部分には目をつむり誰もが知らないふりをして享受している。
事務所の窓の外では、いつも通り七色に光る煤が雪のように降っていた。
「……で、地下の貯蔵庫に『煤憑き(すすつき)』が出た、と?」
俺は、机に放り出された茶封筒の中身を確認した。
中身は安物のタバコと、いくらかの硬貨を一瞥し、それから目の前で震える男を見た。
近所でパン屋を営むジャンだ。顔色は悪く、握りしめた拳は小刻みに震えている。
「ああ。昨日の夜、小麦粉の袋を運びこもうとしたら、暗がりにあいつが。
ありゃもう、ネズミなんてでかさじゃなかった。目が、魔石みたいに赤く光ってそれに…」
ジャンが言葉を切る。
彼が言いたいのは、それが「ただの獣」ではないということだ。もしかしたら、数日前から行方不明になっている隣人か、あるいは煤を無謀にも吸いすぎたスラムの連中か。
「悪いがジャン、俺は慈善事業家じゃない。助けてやりたいのはやまやまだが、煤憑き退治ってのは、命を危険にさらす重労働だ。この額じゃ、ガスマスクのフィルター代にもなりゃしねえ」
俺はわざとらしく溜息を吐き、背もたれに体を預けた。
ジャンは絶望したように肩を落としたが、俺は椅子から立ち、キャビネットの中からリボルバーを手に取った。
「だが、お前の店のライ麦パンは、ここらへんで唯一、煤の味がしない。お前が食い殺されると、俺の朝飯から主食が消えちまうことになる。ここ一ヶ月のパン、全部ツケにしろ。それで手を打ってやる」
「レイ! ああ、助かる。頼む」
感謝の言葉を背中で受け流しながら、俺は重いコートを羽織った。ベルトのポーチに魔石弾を詰め込み、慣れた手つきでガスマスクを装着する。
「勘違いするなよ。俺は朝食の心配をしてるだけだ」
吸気弁がシュコー、と硬い音を立てる。フィルター越しの冷たい空気が、俺を『人』の側に繋ぎ止める唯一の鎖だ。
「おい、ニナ。留守番を頼む。」
事務所の隅、煤で視力を失った少女の微かな返事を聞きながら、俺は七色の霧が視界を埋め尽くす外へと足を踏み出した。
ジャンのパン屋は、事務所から二つ角を曲がった、より標高が低い区画にある。
地下の貯蔵庫へ続く階段を一段下りるごとに、大気の澱みが肌にまとわりついた。
俺は腰のホルスターから、愛用のリボルバーを引き抜く。獣と違い煤によって強化された煤憑きの皮膚は、並の弾丸では弾き返される。だからこそ、この銃は火薬ではなく、魔石の爆発による圧力を一気に開放して鉛玉を叩き出す、特注の「魔圧式」だ。
弾を装填する音と靴音だけが、静まり返った地下室に響く。
「これは、酷いな。ここは煤の吹き溜まりだ。ジャンのやつ浄化をケチりやがったな」
ガスマスクの中に呼吸が籠る。ランタンの灯りに照らされた貯蔵庫は、小麦粉の白と、堆積した煤の七色が混ざり合い、まるでガキのパレットのようだった。
奥の暗闇で、カチ、カチと音がする。爪が石床を叩く音だ。
「グルル」
低く、地を這うような唸り声。影の中から現れたのは、通常の倍ぐらいありそうな大型犬だった。
背中の骨が異常に突き出し、目は濁った赤色に発光し、焦点はどこにも合っていない。
そいつが、一気に地を蹴ってこちらに向かってきた。
「――チッ、速いな!」
俺は咄嗟に横へ跳び、背後の棚を粉砕する怪物の突進をかわす。すぐさま姿勢を立て直し、リボルバーの銃口を向けた。
煤憑きは人を辞めた時、知性を失う代わりに、本能という名の凶器を研ぎ澄ませる。
だが、俺たち人には、そいつらが捨て去った『知性』という武器がある。
ダン
銃声が地下室に響いた。 閃光が地下室を一瞬だけ白く染め、反動が手首を激しく突き上げる。放たれた重い鉛玉は、魔獣の眉間にあった魔石を粉砕した。
焦げた毛並みの臭いが地下室に充満する。魔獣は一度だけ大きく痙攣し、肉体が魔石のカスのように崩れ落ちていった。
俺はリボルバーを、ホルスターに収める。大きく息を吐き出した呼気がマスクの排気弁を震わせた。
「終わったぞ、ジャン。ツケの分は働いた」
そう呟き、帰ろうとしたとき煤憑きが死んだあたりに場違いな輝きが目についた。
指先ほどの小さなガラスの空き瓶だ。
煤の汚れを寄せ付けないほど滑らかな細工が施されたその瓶の底には、どろりと濁った、漆黒の液体がわずかに残っている。
顔を近づけると、ガスマスクを通過して魔石が燃える時のあの甘ったるい煤の匂いを煮詰めたような匂いが漂ってきた。
「ポーションか…これを煽れば、天国へ行けるとでも吹き込まれたか」
この街では、煤の毒を和らげると称する安価な偽薬が蔓延している。
だが、これはその類じゃない。もっと悪意を感じるおぞましいものだ。俺はハンカチでその瓶を拾い上げ、ポケットにねじ込んだ。
事務所に戻ると、使い古された薪ストーブの上が音を立てていた。
煤で視力を失った少女、ニナが、音だけで俺の帰還を察して顔を向ける。
「おかえりなさい、レイ。今日は、いつもより煤の匂いがきつい」
「ああ、最悪な仕事だった。ジャンの店は当分、パンから煤の味がするだろうよ」
俺はガスマスクを脱ぎ捨て、乱暴に椅子に座った。ニナが手際よく、湯気の立つスープをテーブルに置く。
彼女は目が見えなくても、驚くほど正確にこの事務所を把握している。
「これを見てくれ、ニナ。いや、聴いてくれと言った方がいいか」
俺が地下で見つけた黒い液体が残る空き瓶をテーブルに置くと、ニナが細い指先で持ち上げ顔の前に持って行った。 次の瞬間、彼女の眉が不自然に跳ね上がる。
「小さな音が聞こえる。暗い海の底で、誰かがずっと叫んでいるような。レイ、これ中身は『煤』そのものじゃないわ」
「ああ、知ってる。ただの煤を、もっと質の悪い何かに練り上げた代物だ。それも、数百年前、俺たちが『絶滅させた』はずの連中の技術でな」
俺はスープを一口すする。温かさが腹に落ちるが、舌の奥に残る苦味は消えてくれない。
「レイ、危ないことはしないでね。あなたはただの人なんだから」
「わかってるさ。俺はただの探偵だ。日銭を稼いで、美味い飯が食えればそれでいい」
嘘だ。自分でもわかるほど、声が乾いていた。
窓の外では、七色の雪が街を白粉のように塗り固め続けている。
その下で、どれほど醜悪な事件が起こり始めているかも知らずに。
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