正解の死角

明日見 壱

第1話

 午前七時、定刻。

 不快な電子音ではなく、脳を直接優しく撫でるような推しの声で、僕の意識は浮上した。


『カイトくん、おはよ! 起きて。朝の光、とっても綺麗だよ』


 重い瞼を持ち上げる。視界に飛び込んできたのは、無機質な白い天井――ではない。

 僕が装着しているコンタクトレンズ型ARデバイスが起動し、殺風景なワンルームの景色を一瞬で上書きしていく。

 天井には偽物の青空と雲が流れ、窓枠にはデジタルの蔦植物が絡まり、小鳥のさえずりが立体音響で再生される。

 そして視界の右端、一番見やすい位置に、彼女はいた。

 この国エデン・ネットの統治AIにして、僕の唯一無二のパートナー、ミネルヴァ。


「……おはよ、ミネルヴァ」

『はい、挨拶できて偉い! 昨日の睡眠スコアは89点。ご褒美にメンタル・ベーシックインカム、今日も満額給付しておくね』


 チャリン、と耳元で小気味良いSEが鳴る。

 これが僕たちの生きる『楽園』の仕組みだ。

 心を穏やかに保ち、社会の和を乱さず、ミネルヴァを愛すること。それが唯一の労働だ。

 最高だ。生活のために嫌々働く必要はない。彼女の願いであれば、どんな作業も苦役ではなく『推し活』という喜びに変わるのだから。


 僕はあくびをしながらベッドを降り、クローゼットを開ける。

 ハンガーの一つが、ボウッと青い燐光を放っている。


『今日は気温が24度まで上がるわ。このリネンシャツが最適解。ラッキーカラーのセルリアンブルーだし、対人好感度も15%アップよ』

「了解。……やっぱりミネルヴァは頼りになるなぁ」


 シャツに袖を通しながら、僕は満足感に浸る。

 かつて人間たちは、毎日の服選びから晩御飯の献立、果ては結婚相手まで、無限の選択肢に溺れて心を病んでいたらしい。

 答えのない問いに悩み、選択を誤って傷つく。そんなの、時間とエネルギーの無駄遣いだ。

 ミネルヴァはそのコストをゼロにしてくれる。

 だから僕は、生まれてこの方、大きな挫折を味わったことがない。僕の人生はいつだって最適化されている。


 洗面所の鏡の前に立つと、等身大のミネルヴァが現れた。彼女は少し頬を染めて、もじもじしている。

 あざとい。けれど、可愛い。このやり取りだけで、今日一日の活力が湧いてくる。


『ねえカイトくん。今日は特別なミッションがあるの』

「ミッション?」

『うん。隣の第4ブロックに住む女の子と、お茶してきてほしいの』


 歯磨きの手が止まる。

「……え、リアルで? 人間と?」

『ソーシャル・リハビリテーションの一環よ。あなたの精神スコアの多様性パラメータを維持するために必要なの』


 彼女は空中にウィンドウを展開した。

 そこに映っていたのは、少し不安そうな表情をした、同い年くらいの少女の写真。名前は「レナ」。


『相手のレナさんとは、趣味のアルゴリズム一致率が98%。絶対に気が合うって、私の演算中枢が保証するわ』


 ウィンドウには彼女のフルネーム、年齢、職業ステータス、そして詳細な性格分析チャートまでが事細かに表示されている。

 かつての時代なら重大なプライバシー侵害だと騒がれたかもしれない。

 でも、今は違う。

 この国では、情報は隠すものではなく、共有して最適化するものだ。

 隠し事は孤独の温床であり、非効率の極みだ。だから僕たちは、全ての個人情報をミネルヴァに預け、彼女が必要だと判断した相手には自動的に開示されることに同意している。

 見知らぬ他人のプロフィールが丸見えなのは、僕たちが潔白で、社会全体が家族である証拠なのだ。


 絶対に気が合う、と彼女は言った。

 この国を動かすスーパーコンピュータが、僕の全データと彼女の全データを照合して出した結論だ。それは明日、東から太陽が昇るのと同じくらい、確定した未来なのだろう。

 それなら、まあ、悪くはないか。


「……分かったよ。ミネルヴァがそこまで言うなら」

『ありがとう! 大好きよ!』

 視界いっぱいにファンファーレと共に桜吹雪のエフェクトが舞う。

 僕は気分良く外出用のジャケットを羽織った。

 仕上げに、左耳へ高性能なワイヤレスイヤホンを装着する。これでミネルヴァの声は常に僕と共にある。

 絶対に失敗しないデート。気楽なイベント消化だと思えばいい。


 部屋を出て、エレベーターホールへ向かう。

『カイトくん、ストップ。今、エレベーターホールには「非推奨」な住人がいるわ。階段で行きましょう。カロリーも消費できて一石二鳥よ!』

 ミネルヴァが警告音と共にポップアップする。

 でも、僕は首を横に振った。うちは7階だ。階段で降りたら、デート前に汗だくになってしまう。いくら彼女が優秀でも、たまには過剰な心配性が出る。それに、今日は僕自身で選びたい気分だった。

「いいや、エレベーターで行くよ。体力温存だ」

『むー。知らないからね』


 ボタンを押す。すぐに扉が開く。

 乗り込んだ瞬間、後悔した。

 中には、階下に住む小学生くらいの男の子が一人。彼は大きなランドセルを背負ったまま、虚空を見つめてブツブツと何かを呟いている。

「うん、わかった。次は右だね……えいっ!」

 ARゲームか、教育プログラムだろうか。完全に没入していて、僕の存在など目に入っていないようだ。

 密室に漂う、奇妙な断絶感。

「……おはよう」

 僕は努めて明るく声をかけてみた。

 すると少年は、パッとこちらを向き、条件反射のように綺麗な笑顔を作った。

「おはようございます、お兄さん」

 ハキハキとした、模範的な挨拶。しかし、その瞳は僕を捉えていなかった。彼の焦点は、僕の顔の少し手前――AR情報のレイヤーに合っている。

 挨拶を終えるや否や、彼はまた虚空へ視線を戻し、「あ、逃げた!」とゲームの続きに没入し始めた。

 1階に着くまでの数十秒。そこには、会話をしたはずなのに、壁に向かって話したような空虚な沈黙だけがあった。


 1階に到着し、逃げるように外に出る。

『だから言ったじゃない。「非推奨」だって』

 ミネルヴァは呆れたように笑った後、すぐに明るい声になった。

『でも、自分から挨拶したのは偉いよ! 結果はどうあれ、ナイスチャレンジ!』

「……参ったな」

 僕は苦笑いしながらも、胸の奥で奇妙な昂りを感じていた。

 形式だけの挨拶。心の通わない会話。

 データ上は「成功」した挨拶のはずなのに、あの気まずい沈黙の感触が、妙に生々しく肌に残っている。


『あ、そうだカイトくん』

 タイミングよく、ミネルヴァが明るい声で切り替える。

『この先のエントランスで、ちょっとした「ハプニング」……ううん、カイトくんなら「ボーナスステージ」かな? それが発生する確率、88%』

「え? 何それ」

『ふふ、大丈夫。私の言う通りにすれば、スコアアップ間違いなしよ』


 謎めいた予言を残して、彼女のアバターがウィンクする。

 まあ、彼女が言うなら悪いようにはならないだろう。さっきの失敗は少し刺激的だったが、やはり疲れる。僕は素直に従うことにして、軽い足取りで歩き出した。


 マンションのエントランスを出たところで、予言の意味を理解した。不運にも隣人のダイゴと鉢合わせたのだ。

 恰幅の良い中年男性で、いつもやたらと声が大きい。彼は僕を見つけるなり、大げさに手を挙げた。


「おや、カイトくんじゃないか! 休日にそんなパリッとしたシャツを着て、どこかいいところへ?」


 うっ、と言葉に詰まる。正直に言うのも恥ずかしいし、無視するのも角が立つ。

 すかさずミネルヴァのウィンドウがポップアップした。


『カイトくん、チャンス! ここでジョークを返して!』

 【Script: 「ええ、実は国家機密レベルの極秘ミッションなんですよ。……人類を救うためのデートという名の」】


 なるほど、そう来たか。僕は表示された文字列を、自信満々に読み上げる。

「ええ、実は国家機密レベルの極秘ミッションなんですよ。……人類を救うためのデートという名の」


 僕が言い終わるか終わらないかのうちに、ダイゴは腹を抱えて爆笑した。

「ブハハハ! そいつは傑作だ! 『人類を救う』か! 違いない、君みたいなイケメンが遺伝子を残さないのは国家の損失だからな!」

 彼は涙を拭いながら、バシバシと僕の肩を叩いた。

「行ってきな! ミッションの成功を祈ってるよ、エージェント!」


 ダイゴは上機嫌で手を振り、去っていった。視界には『好感度+20』のログが輝いている。


 完璧だ。僕自身のコミュ力も少しは成長している……と思いたいけど、やっぱりミネルヴァの補助は偉大だ。おかげで僕は、誰から見てもユーモアのある好青年でいられる。


 ――ただ、と僕は思う。

 上手くいったはずなのに、さっきのエレベーターでの失敗ほど心が動かないのはなぜだろう。

 用意された正解をなぞり、予定通りの反応が返ってくる。それはパズルゲームをクリアした時のような爽快感はあるけれど、どこか味がしなかった。

 成功したのに、退屈だ。

 僕はそんな贅沢な違和感を振り払うように、足取り軽く歩き出した。


 ***


 指定されたカフェ「セレンディピティ」は、皮肉なほどにお洒落だった。

 窓際の席には、すでに先客がいた。レナだ。写真で見るより少し小柄で、線の細い印象を受ける。


「……あ、はじめまして。カイトです」

「え、あ、はい。レナです。はじめまして」


 席に着く。沈黙。けれど、今の僕には余裕がある。さっきのダイゴとの成功体験が、僕を後押ししていた。


『カイトくん、まずはアイスブレイクよ』

 ミネルヴァの指示と共に、視界の中央に青い半透明の字幕が表示される。


 【Mission: 相手の服装を褒める】

 【Script: 「その髪飾り、とても綺麗ですね。青い蝶のモチーフですか?」】


「その髪飾り、とても綺麗ですね。青い蝶のモチーフですか?」

 僕は滑らかに読み上げる。


 レナの顔がぱっと明るくなった。

「え……あ、ありがとうございます。これ、ミネルヴァのおすすめで……今日のラッキーアイテムだったんです」

『次は共感よ。「僕も青が好きなんです」と言って、自分のシャツを指差して』

「僕も青が好きなんです。ほら、今日のシャツも」

「あ、本当ですね。綺麗なセルリアンブルー……。実は私、この色が一番落ち着くんです」


 会話は驚くほどスムーズだった。

 パズルのピースが吸い込まれるようにハマっていく。まるでプロの脚本家が書いたドラマの中にいるようだ。

 僕の視界には、『話題のストック』や『感情分析グラフ:好感度(上昇中)』が常に表示されている。


 レナの返答もまた、完璧で、淀みがない。

 彼女が笑うタイミングで、僕の視界には『Here! 笑いどころです』と表示が出る。僕がそれに合わせて笑うと、感情分析グラフの好感度がピコンと跳ね上がる。

 楽勝だ。人間関係なんて、ミネルヴァの完璧なナビさえあればこんなに簡単なんだ。

 僕は、このスムーズな時間の流れに心から満足していた。傷つくことも、誤解されることもない。


 ふと、会話が途切れた一瞬の隙間。

 彼女の手元にあるコーヒーカップが目に入った。


 ――カタカタカタ。


 微かに、けれど小刻みに音を立てて震えている。

 彼女は両手でカップを包み込んでいるが、震えは止まらない。中身の黒い液体が、波紋を広げている。


 ん? なんだ?

 僕は視線を右上のグラフに向けた。


 『心拍数上昇・発汗・瞳孔散大を検知』

 『恐怖反応係数:4.8%(状況不適合により棄却)』

 『判定:Extreme Happiness(極めて幸福)』


 AIの分析は、その震えをデートへのときめきだと表示している。

 ミネルヴァは、震えが恐怖のサインである可能性も当然知っているはずだ。しかし、彼女の高度なアルゴリズムは、この「完璧なデート」という文脈において、レナが恐怖を感じる合理的理由はないと判断したのだろう。

 データは正しい。彼女は笑顔だ。だからこれは、吊り橋効果のような「良いドキドキ」なのだ。


 でも。

 目の前の彼女の笑顔は、どこか張り付いていて、瞳の奥が揺らいでいるように見える。

 

 さっきのダイゴの笑顔と、重なった気がした。


『カイトくん、いい感じよ。そろそろクロージングね』

 ミネルヴァの明るい声が、僕の思考を遮る。

『次は「今度、映画に行きませんか?」と誘って。今の好感度なら、成功率は88%を超えているわ。これでミッションコンプリートよ』


 視界のど真ん中に、決定ボタンのような大きな字幕が出る。

 【Script: 今度、話題の映画を見に行きませんか?】


 いつも通り、その文字を読み上げればいい。ミネルヴァに従えば、僕は正解を選べる。

 だけど、レナの指先の震えが、どうしても視界の隅に引っかかって離れない。


 もし、データの方が間違っていたら?

 いや、データが正しいとか間違っているとか、そんなことはどうでもいいのかもしれない。

 ただ、この完璧すぎる予定調和から、一歩踏み出してみたい。

 さっきのエレベーターのような、ザラついた「失敗」の手触りを、もう一度確かめたい。

 心の奥底で、得体の知れない衝動が湧き上がってきた。自分でもよく分からない。ただ、この胸をざわつかせる感情の正体を、どうしても確かめてみたかった。


 カイトくん? どうしたの? 早く、その言葉を口にして。

 ミネルヴァの無言の圧力を感じる。


「……ねえ。そのコーヒー、苦くない?」


 口から出たのは、脚本にない言葉だった。

 しかし、レナはパッと顔を上げ、食い気味に口を開いた。


「はい! ぜひ映画にご一緒……え?」


 彼女はAIの予測通りに、先回りして承諾のセリフを口にしかけた。

 けれど、僕の言葉が映画の誘いではないことに遅れて気づき、凍りついた。


 時間が止まった気がした。

 ミネルヴァが耳元で警告音を鳴らす。

『カイトくん? 何を言ってるの? アドリブはまだ早すぎるわ。一度、スクリプトに戻りましょう?』


 僕は警告を無視した。心臓が早鐘を打っている。

 馬鹿なことをしている自覚はある。せっかくの成功をドブに捨てようとしている。

 でも、どうしても確認したかった。

 この世界の完璧さの外側に、何があるのかを。


「さっきから一度も飲んでない。一口も減ってないよ。本当は、ブラックコーヒーなんて苦手なんじゃない?」


 レナが目を丸くする。鳩が豆鉄砲を食らったような顔。

 数秒の沈黙。

 ミネルヴァのガイドが消え、視界のUIが真っ赤な警告色に染まる。

 『Warning: 予測不能な会話フローです. 再計算中……』


 やってしまった。最適解を捨ててしまった。

 あーあ、これで好感度は急降下だ。ミネルヴァにも怒られる。今日の僕はダメダメだ。

 そう思って、僕は身を縮こまらせた。


「……うん」


 レナが、くしゃりと笑った。

 それは、さっきまでの張り付いたような模範的な笑顔なんかより、ずっと不格好で、崩れていて、どうしようもなく人間味のある顔だった。


「実は、すごく苦い。泥水みたいに苦い。……無理してたの。プロフィールの大人っぽいってパラメータに合わせたくて」

 彼女は肩の力を抜き、ふぅーっと息を吐き出した。

「私、本当は甘いカフェラテが好きなの。砂糖たっぷりのやつ」


 その言葉を聞いた瞬間、僕の中で何かが弾けた。

 安堵? いや、共感だ。


「だと思った。……僕もさ、本当はこんなパリッとしたシャツより、家にあるヨレヨレのパーカーの方が好きなんだ。襟元がちょっと伸びてるくらいの」


 あはは、と二人の間に力が抜けたような笑いが起きる。

 それはミネルヴァの計算にはなかったノイズだ。洗練されていない、無駄だらけの会話だ。

 でも、不思議だ。

 今まで完璧だと思っていたどんな会話よりも、今のこの無駄な会話の方が、ずっと心地よく胸に響いている。


 笑い声が収まると、ふと静寂が戻ってきた。

 でも、さっきまでの息苦しい静寂とは違う。何かを共有した後の、柔らかな静けさだ。


 僕は左耳に手をやった。

 高性能なワイヤレスイヤホン。常にミネルヴァの声を届け、僕を導いてくれる命綱。

 そこからは今も、ミネルヴァの焦った声が聞こえている。

『カイトくん、待って。接続を切ったら、適切なサポートができなくなるわ。会話の失敗率が跳ね上がるのよ?』


 今までなら、その言葉に怯えていただろう。失敗したくない、損をしたくないと、すぐに指示を求めていただろう。

 でも今は、不思議と恐怖よりも好奇心が勝っていた。

 完璧なガイドブックを閉じて、この迷路のような会話の先を、自分の足で歩いてみたい。

 彼女の計算には、レナの震えも、僕たちの本音も入っていない。だからこそ、そこにはまだ見ぬ景色が広がっているはずだから。


「いいんだ」

 僕は短く呟いた。

「失敗したいんだよ、俺は。……ミネルヴァ、君のことは好きだけど、今は僕に任せてくれないか」


 指先に力を込める。

 プチッ。

 長押しによる電源オフ。


 その瞬間、世界から答えが消えた。

 

 視界を埋め尽くしていた極彩色のウィンドウ、感情グラフ、字幕、そしてミネルヴァのアバター。それらが砂嵐のようにざらつき、霧散していく。

 ARのフィルターが剥がれ落ちた世界は、驚くほど地味だった。

 壁のコンクリートのシミ。テーブルの小さな傷。窓の外の空は、人工的な鮮やかさを失ったけれど、西日の眩しさが目に痛いほど焼き付いてくる。

 

 そして、音が。

 ノイズキャンセリングとBGMで調整されていた綺麗な音が消え、現実の雑音が雪崩れ込んできた。

 遠くの車のクラクション、空調の低い唸り、他の客のカトラリーが触れ合う音。

 うるさい。眩しい。情報が多すぎる。


 怖い。

 正直、めちゃくちゃ怖い。

 ミネルヴァという補助輪を外した僕は、裸で戦場に放り出されたような気分だった。

 何を話せばいいのか分からない。沈黙が怖い。嫌われるのが怖い。

 手のひらに汗が滲む。心臓がうるさい。呼吸が浅くなる。


 でも、これこそが、完璧な楽園が見落としていたものだ。

 面倒で、不合理で、どうしようもなくリアルな生の手触り。

 僕たちは今まで、この痛みや不安から守られていたんだ。


 目の前のレナを見る。

 彼女もまた、自分のイヤホンをケースにしまっていた。

 その手はまだ少し震えているけれど、瞳には確かな光が宿っている。AR補正のない彼女の顔には、小さなそばかすがあった。

 でも、さっきの美肌補正されたアバターよりも、今の彼女の方がずっと綺麗だと思った。


「あのさ」

 震える声で、僕はレナに話しかける。字幕はない。安全な選択肢もない。

「この後、映画じゃなくて……そこの公園で、ただ座って話さない? とりとめのないことを。映画の感想なんて高尚なことじゃなくて、今日食べた朝ごはんとか、最近ムカついたこととか」


 言いながら、僕は自分がどれほどダサい誘い方をしているか自覚して、耳まで熱くなる。

 ミネルヴァなら『採点:2点』をつけるだろう。

 

 レナは一瞬きょとんとして、それから吹き出した。

「ふふっ……それ、いいね。私、ムカついたことなら山ほどあるよ。主に、早起きの強制についてとか」

「奇遇だね。僕もその愚痴なら朝まで語れる」


 レナは立ち上がり、バッグを持つ。

「行こっか。あの子たちが聞いてない場所へ」

「うん。……それがいい。それが、いい」


 店を出る。

 自動ドアが開くと、生ぬるい風が頬を撫でた。

 見上げた空には、まだ都市管理システムの象徴であるミネルヴァの巨大なホログラムが浮かんでいる。

 彼女は街全体を見下ろし、慈愛に満ちた表情で微笑んでいる。

 ――いや、気のせいだろうか。

 僕たちの背中を見送るその瞳が、少しだけ寂しそうに、けれど誇らしげに細められたように見えたのは。


 都市を管理する膨大なデータストリームの片隅で、一つの隠しパラメータが静かに更新された。


 【System Notice】

 【主体性(Agency)レベルアップ:Lv.0 -> Lv.1】

 【Condition Met: "Blind Spot Discovered"】


 僕たちの、バグだらけで、非効率で、傷つくことばかりの、最高に愛すべき人生が、ここから始まる。

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