鎌倉の和光さん

紙の妖精さん

第1話

鎌倉の線路沿いの桜並木はまだ満開には、程遠く、花びらは小さなつぼみを残したまま、柔らかい風に揺れている。朝の通学電車は、制服姿の中学生や高校生で程よく混雑していて、ホームには早足で駅に向かう学生たちのざわめきが響いていた。


「今日も寝坊しちゃった……」

深松深水ふかまつみずは小さく息をつきながら、急ぎ足で階段を駆け上がる。スクールリュックを肩背負い込み、彼女は目の前に広がる光景をちらりと見る。ホームの片隅で、栗色の小さな影が素早く動いた。


リスだった。

駅のベンチの下からひょっこり顔を出し、次の瞬間には手にしたパンのかけらをくわえて、すぐに小さな足で跳ねていった。深水は思わず笑みをこぼす。朝の慌ただしさの中で、ひたすら食べ物を探すリスに敬意すら覚えた。


電車が到着し、深水はぎゅうぎゅう詰めの車内に押し込まれる。窓の外には、さっきのリスが線路沿いの木々の間を駆け抜けていくのが見える。深水は心の中でつぶやいた。

「小さいけど、意外と元気だな……」


友達の智桃とも、声が後ろから飛び込んでくる。「深水、リス見た?」

「見た見た!あの子、絶対毎朝ここでパン探してるんだよね」

二人は笑いながら、通学電車の揺れに身を任せつつ、リスの日常と自分たちの日常を重ね合わせていた。


電車の中では話せないから、駅に着いたら話そうと、深水と智桃は互いに小さく頷きあった。


鎌倉中学のある駅に電車がゆっくりと滑り込む。ドアが開き、二人はそろって外に出る。改札に向かって歩き出す足取りは軽やかだが、同時に意識的にゆっくりとしたペースを保っている。追い越していく中学生たちが、彼女たちの進行を邪魔するわけではない。ただ、その速い足並みを横目で見ながら、二人は少し距離感を保つように歩みを整える。


鎌倉中学に通う深水と智桃は、自然と周囲の動きを観察し、自分たちの歩く速度を微調整した。別の中学校の女子たちが足早に改札口へ向かい、制服の裾やリュックの紐が揺れる。二人はそれを眺めながらも、焦ることなく自分たちのペースを守る。


鎌倉中学では、「いかなる状況でも平常心を保ち、論理的に行動すること。余裕をもった所作を身につけること」という校風が厳然としてある。深水も智桃も、それを思い浮かべながら、心持ちをやや大きく持とうと調整し、制服の乱れも軽く直す。


智桃はふと手を口に当てて、小さく笑った。「平常心、平常心……」


その言葉に、深水も微かに笑みを返す。外は朝の光でほんのり温かく、風が頬に触れる。電車を降りたばかりの体に、まだ揺れの余韻が残る。二人はお互いの存在をそっと確認しながら、ゆっくりと改札へ向かって歩みを進めた。その足取りには、まだ眠っている朝の静けさと、これから始まる日常へのちょっとした緊張が混ざっていた。


改札を抜け、駅のロータリーを歩き抜けると、二人は学校までの道のりで、他人に聞こえないくらいの声の大きさでようやく話し始めた。冬の空気は冷たく、吐く息が白く立ち上る。歩道の隅には、まだ落ち葉が凍りつくように残っていて、足音がカサカサと乾いた音を立てる。


「朝のお茶会、今日は何が出るかな……和菓子?」深水が小さな声でつぶやく。


「昨日は栗羊羹だったね」智桃が頷きながら答える。


二人は歩きながら、学校での朝の習慣を思い出していた。


「鎌倉中学に入学した時、最初の授業でいきなりお茶、出た時、びっくりした。みんなでお茶飲むって、智桃はびっくりしなかった?」


「うん……びっくりした」友達の智桃の声も小さく、少し笑みを含んでいる。


二人の足取りは軽やかだ。


「お茶菓子まで出ると、さすがにここ、中学なのかなって思っちゃう。でも、お茶の時間が終わると、鬼のような授業が始まるから……あれって、ある意味、洗脳なのかな?」深水は少し冗談めかして言ったが、その目には真剣さも混ざっていた。


「わかんないけど……朝の一服ってかな?」智桃。


「先生、本式にお茶立てるところからやりたいって言ってたけど、さすがに教室でお茶立てるのは無理だから、煎茶……?」


「うん」深水は小さく頷き、心の中で一日の始まりの緊張をほぐすように息を吐いた。学校までの短い道のり。陽が二人の制服に淡く当たり、落ち葉や街路樹の影を長く伸ばす中で、話す内容は何気ないけれど……。


「今朝のお茶会のお茶菓子は、甘夏蜜柑ケーキワッフルだよ」――声の主は、二人の後ろから軽やかに聞こえた。振り返ると、友達のリズが少し息を弾ませながら歩いている。


「どうして知ってるの?」深水が不思議そうに訊くと、リズは笑った。


「学校のホームページにちゃんと載ってるよ。見てないの?」


「知らなかった……ホームページなんて、そんなのあったんだ」智桃も目を丸くする。


「えーっ、本当?」深水も驚きを隠せず、思わず声が大きくなる。


「しかも、みんなのテストの成績とかも、アクセス権を申請すれば見れるんだ、学校に」リズは楽しそうに説明を続ける。その声には、ちょっとした得意気な響きがあった。


「うわー、何それ!」二人は顔を見合わせ、思わず笑ってしまう。


「学校自慢のデータベースなんじゃない?」リズは、ふわりと笑う。「知らないけど」


「それって、やりすぎじゃないかな……」深水は少し眉を寄せる。


リズは少し間を置き、意味ありげに続ける。「そのデータベースにアクセスできるから、学校にお金が入るみたい。そのお金が、お茶会とかお茶菓子とか、いろんなのに使われるんだって」


深水は小さく息を吐く。「ふううん……」


冬の朝の冷たい空気の中で、三人の声は柔らかく響き、駅前の街路樹の影を長く引いていた。


「甘夏蜜柑ケーキワッフルかあ……」深水は少し首をかしげ、空を見上げるようにしてつぶやいた。「甘夏とみかんって同じ果物だし、ケーキワッフルって、どういう意味なんだろう……」


智桃も首を傾げる。「ワッフルはワッフルで、ケーキはケーキだし。うーん」


深水は両手を軽く広げながら考える。「たぶん、二種類のみかんを使ってるってことと、ワッフルとケーキ、それぞれの味が楽しめるってことなんじゃないかな……」


「なるほどね」智桃は少し笑って、頷いた。


「それって美味しいのかな……?」深水は小声で疑問を溢す。ちょっと半信半疑な口調に、自分でも笑いが混じる。


「聞いたところによると、外国のお菓子メーカーの試作品なんだって。学校がアンケートを取って、そういうデータを送ることによって、無料で提供してもらえる」リズがちょっと得意そうに説明する。


「なるほど……」深水は小さく息をつき、ふわりと笑った。


学校の正門をくぐると、深水と智桃とリズは少し身を寄せ合いながら、ゆっくりと講堂に向かう。通学路では気づかなかったが、校庭の隅にリスがひょっこり顔を出して、ちょこちょこと木の根元を駆け回っている。


「わ、あれリスじゃない?」智桃が小さな声で指をさす。深水は目を細め、木々の間を走る小さな影を追う。リスは、ほんの一瞬だけ三人を見てから、すぐに枝の上に飛び移った。


「かわいい……」深水の心が少し弾む。智桃も小さく笑い、リスを見ながら「癒しだわ」とつぶやいた。


講堂に入ると、既にお茶会の準備が整っていた。テーブルの上には、色とりどりのお茶菓子が並ぶ。甘夏蜜柑ケーキワッフルは、光を受けてほのかに艶を帯び、見ただけで甘酸っぱい香りが鼻をくすぐる。


「うわ、これだ!」深水はワッフルの上にちょこんと載ったオレンジ色の果肉を見て目を輝かせる。


席に着くと、そっとお茶が運ばれてくる。湯気がゆらりと立ち上り、ほのかに香る煎茶の香りに、二人は自然と背筋を伸ばす。手元のケーキワッフルに手が伸びる。


「……おいしい!」深水は一口かじって、果物の甘酸っぱさとケーキ生地の柔らかさ、ワッフルの軽い食感が口の中で混ざり合う感覚に目を細める。智桃も同じく、にっこり笑って頷いた。



*****



講堂の端のほうに、深水たちの目を引く人物がいた。着物に身を包んだ老人が、静かに立っている。その姿は、どこか威厳を湛えつつも、穏やかな空気を漂わせていた。


深水は小さく息を吐き、友達の智桃とリズにささやくように言った。

「和光さんだ……」


智桃とリズは顔を見合わせ、小首をかしげる。

「誰……あのおじいさん、深水の知り合い?」リズが小声で尋ねる。


深水は少し笑みを浮かべ、言葉を続けた。

「和光和尚さんだよ。鎌倉の禅寺のお坊さんで。和光さんって、書道がめちゃくちゃ上手くて、はっきり言って国宝クラスなんだよ、宗教界で」


智桃とリズは、ただ「ふううん」と小さく相槌を打つ。言葉では表現しきれない雰囲気に、二人は少し圧倒されているようだった。


深水は、講堂の奥にいる老人の背筋の伸びた立ち姿、静かに揺れる白髪、そして柔らかくも鋭い眼差しを眺めながら、心の中で小さく感嘆した。授業やお茶会の騒がしさとは別の、静謐な世界をそこに感じる。


智桃がそっと耳元で囁く。

「……亀仙人みたい」


リズも同意して頷いた。

「うん、なんだか……なんかかわいい」


深水が少し照れたように笑いながら、講堂の端に立つ和光さんに手を振る。すると、和光さんも穏やかに手を振り返した。白髪の老人の手の動きはゆっくりだが、温かさが伝わってくる。


「意外とフレンドリーだね」とリズが小声で呟いた。


智桃は少し首をかしげ、にやりと笑う。

「深水って、特殊……年上好きなんじゃないの?」


深水は軽く肩をすくめて、口元に柔らかい笑みを浮かべる。

「実は……私のおじいちゃんなんだ」


智桃とリズは目を丸くして一瞬息を呑み、それから納得したように頷いた。

「あ、だからね……」


二人はその答えに、妙に腑に落ちた様子で、互いに顔を見合わせる。深水の微笑みと、和光さんのゆったりとした手の動きが、静かに講堂の中に温かい余韻を残した。


三人は講堂を出て、校庭を歩きながら、廊下を抜けて自分たちの教室へ向かった。日差しがガラス窓を通り抜け、廊下の床に温かな光の帯を描く。外の木々の影がゆらゆらと揺れ、落ち葉がそよ風に舞い上がるたび、三人の足音がささやかに響いた。


教室に着くと、すでにほかの生徒たちは机に腰かけ、時計を気にしながらそわそわと落ち着かない様子だった。深水は軽く息を吸い、両手を揺らしながら微笑むと、にこやかに声をかける。

「平常心、平常心」


その声に、隣にいるリズと智桃も自然と肩の力を抜いた。しかし、時は過ぎても先生は現れず、生徒たちの間にざわめきが広がった。小さな声で「どうしちゃったんだろう」「授業始まらないのかな…」と不安げな声がちらほら溢れる。時計を見ると、もう30分以上が過ぎていた。


その瞬間、学校の放送が静かに教室に響いた。

「本日、休校となります」


「えーーー!」一斉に上がる驚きの声。クラス中の生徒が声を重ねる中、リズと智桃も思わず顔を見合わせ、目を丸くした。

「珍しいね、休校なんて」リズが小さく笑う。

「うん、朝からびっくりだよ」智桃も微笑む。


深水は机に手を置き、両手を軽く広げて教室を見渡した。その声には不思議な落ち着きがあり、自然と周囲の緊張を和らげる。

「いかなる時も平常心!」


その言葉に、クラス全体がふっと息をついたように落ち着く。笑い声が小さく溢れ、ざわめきは和らいだ。


窓の外を見ると、冬の光に照らされた校庭では落ち葉がゆらりと舞い、遠くの木々の枝に小さなリスが顔を出す。深水がそっと手を差し出すと、リスは軽やかに枝を飛び移り、三人は思わずくすりと笑った。


「逃げられちゃったね」智桃が笑うと、リズもクスリと笑った。

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