第二章

ep.19 恩人


 「それで?私に黙っていろと?」


 カリサは包帯を巻かれた腕とは反対の腕で太々しく頬杖を付き、テーブルを挟んだ正面の椅子に座る女性へと問いかけた。目の前に置かれたカップからはコーヒーのいい香りが漂ってくる。


 「えぇ。それが主の望みなので」


 「主…」


 カリサの脳裏に、先日の少女の姿が思い起こされる。自分が手も足も出なかった邪徒を圧倒した、得体のしれない人物。


 「あれだけの力を見せられて、私が組織に黙っていられるとでも?」


 カリサの返答を聞いた、グレア・モルペンデルと名乗る女性は苦笑いを浮かべた。そして観念したように大きく息を吐き、話し始める。


 「私はともかく、あの方の存在をアンディ…いえ、貴方の上の者に知られると少々厄介な事になりそうで…」


 (ボスの名前を知っている?この女…)


 世間に対し、組織の情報は徹底的に規制されている筈。内部の人間を除き、ボスの情報を知ってる者など、世界でも数えるほどしか居ないだろう。


—そもそもの話


 「私に選択の余地はあるのかしら?」


 このグレアなる女性の実力は未知数だが、あの少女と自分の戦力は比べるまでもない。言う事を聞かなければ殺せばいいだけだ。


 「深い意味は無く、あくまでお願いです。それに…」


 何を思ったか、グレアはその先を話すことを躊躇した。


 「それに、何かしら?」


 しかし、相手の配慮を気にも止めず、カリサは無遠慮に食い下がる。


 「貴方はミア様が、『わざわざ』お力を行使されて救ったのですから。手荒な真似はしませんよ」


 口角はしっかりと上がっているが、目が笑っていない。


 「勿論、助けて貰った事には感謝しているわ」


 「ではこちらのお願いを受け入れて貰っても?」


 丁寧な言葉や態度とは裏腹に、その身体の周囲にはピリピリとしたものを纏っている。そして彼女から発せられる空気の変化を感じ取り、カリサは思わず喉を鳴らした。


 「グレア」


 突如、室内を埋め尽くしていた殺気は、嘘のように消え去った。声のした方に目をやると、少女ミアがドアを開き室内を覗いていた。


 「ミア様!お身体の方は…」


 「問題ない」


 少女ミアの姿を見たカリサは、先程までの太々しい態度を改め、肉食獣を前にした草食動物のように身を縮ませた。


 その様子を気にもとめない態度で、ミアは窓際へ向かい、ゆっくりと椅子に腰掛けた。グレアは慌てて席を立ち、キッチンへと向かう。


 室内は静寂に包まれ、キッチンからの食器がたてる音だけが響く。しかし、カリサは意を決し勢いよく立ち上がるとミアの方へと身体を向けた。


 「何故私を、いえ、私達を助けて下さったのですか?」


 聞きたい事は山程あったが、いざ絶対強者を前にすると、この質問で精一杯だったと言ったところか。


 だが、ミアからの返答は無かった。暫しの沈黙の後、コーヒーを用意したグレアがやってきてカップをテーブルの上へと置いた。


 ミアは無言のまま、正面に置かれたカップを手に取り口を付ける。まるで説教をされている子供のように、カリサはミアの動作一つ一つに反応し、身体を小刻みに震わせた。


 「カリサ、と言ったか」


 「あ、は…はい!」


 急な問いかけに動揺したのか、カリサの返事はぎこちない。それと同時に、この人物から認識されていると実感が芽生え始め、無意識から来る身体の震えを抑えるのに必死になった。


 落ち着くようにグレアに促され、深呼吸を繰り返した。そしてミアがゆっくりと言葉を続ける。


 「あの少年は私の恩人でな」


 「恩人…ですか?」


 普段の楓はただの一般人で、自分は疎か聖隊の者にだって敵わないだろう。この少女ミアからすれば蟻以下の存在と言っても過言では無い。わざわざ身を呈してまで、助けるような借りがあるとは到底思えない。


 ちなみに、カリサは楓の家に居候させてもらっているのを恩だとは微塵も思っていなかった。


 ミアがカップを静かに置くと、初めてカリサへと視線を向けた。あの戦いの最中ですら、表情の一切を変えなかった彼女の口元が、僅かに緩んだかのように見え‐


 「君は私の恩人を守ってくれた。ならば君も私の恩人だ。これからの事は好きにするといい」


 唖然としているカリサをよそに、グレアがキッチンで何かを焼き始め、室内には甘い香りが充満し始めていた。




 〜


 玄関でカリサを見送ったグレアはリビングへと戻り、主ミアの側に控えた。


 ミアの顔色は悪いままだ。それに目の前に置かれた好物の菓子にすら手を付けていない。態度や表情には一切出さないが、本調子で無い事はグレアの目からすると明白だった。


 命令に従った為とは言え、敵が行動を起こす前に先手を打たなかった事、分かれずとも二体の敵を、犠牲を出さずに自分だけで始末する事は可能であった事、結果論にはなってしまうが、グレアは酷く後悔していた。


 「そんな顔をするな。私は大丈夫だ」


 その心痛を察したのか、ミアは気遣う声をかけた。しかし、主の痛ましい姿を前に、グレアの心が軽くなる事はない。それに



 「もしカリサさんが秘密を守ってくれたとしても、今回敵対した者達は黙ってないでしょう。ここは離れた方が良いと思われます」



 今後、この街で起こる事態は容易に想像できる。早々に遠くの地へと避難しておくのが賢明だろう。しかし、グレアの提案に対し返答は無かった。



 「あの少年への恩は既に返せた筈です。だって命を救ったのですよ?それに比べたら…!」


 「グレア」


 ミアはその先の言葉を制止した。そして思い耽るかのように窓の外を眺めると、珍しくも微かに笑みを浮かべた。

 


 「恩義に大小は無いさ。それに私は…」




 その先を聞いたグレアには返す言葉が見つからず、静かに涙を流すことしか出来なかった。

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