手を握れるなら、泣いたって

春生直

手を握れるなら、泣いたって

 冬の朝は薄暗い。

 リビングの窓から差し込む光はもやがかかったように白く、外の寒々しさを映している。まだ暖房が効ききらない、つんとした空気が鼻を冷やす。


「ほら、あなたたち! 早く起きて、ご飯食べちゃいなさい!」


 朝七時前に、息子二人を叩き起こす。それが、母親である陽子の日常だ。

 お弁当を作りながら流水で手を洗うと、指のささくれに水が冷たく沁みた。


 ばたばたと二階から降りてくる彼らのために、朝食をテーブルに並べる。

 ご飯、味噌汁、焼き魚に卵焼き。

 器は湯気を立て、慣れ親しんだ出汁の香りがリビングに充満した。

 いつも通りの朝の景色。


「ええ、また焼き魚? 俺、ウインナーがいいのに」


 テーブルに座った次男は今日も、そんな文句を言ってむくれる。中学に上がってから反抗期が来たのか、常に不機嫌で困ってしまう。


「……」


 受験を控えた高校生の長男は、何も言わず黙々と食べる。反抗することは無いけれど、最近ほとんど親との会話はない。


「いいから、ちゃんと食べなさい。背が伸びないわよ」


 お決まりの小言を口にして、気分が少し沈んでいることに気づく。


 いつからだろう。

 食事を作ることや、洗濯や掃除をすること。

 それに対する感謝なんて誰も言わないことに、疲れてしまったのは。


 『お母さん』というのは、間違ったってそんなことを口にしてはいけないものだ。

 いつも当たり前のように明るく、家族の世話をしなければならないのに。


 お弁当を手渡して、慌ただしく出かける息子たちを見送る。

 二人とも、陽子の身長をとうに越した。彼らの高い背中を見る度に、小さかった頃の思い出が夢のようによぎる。


 あんなに、ママ、ママってうるさかったのに。

 そんな眼差しは跡形もなく、彼らの瞳の中に陽子の姿はない。


「もう、母親なんて要らないのかもね」


 誰もいなくなったリビングに、陽子の呟きが落ちた。

 そろそろ、夫を起こしてこなくては。

 息子たちの朝食の後片付けをしてテーブルを拭くと、ふと自分の手が目に入る。


 すっかり節くれだって、皺が寄り、骨すらくっきりと浮かぶ。色は黒ずんでいて、小さな染みまでいくつも見つかった。手の先端はがさがさとひび割れ、お世辞にも若くは見えない。

 

 思わず、溜め息をついた。


「私もすっかりおばさん、ってことか」


 もうすぐ五十になろうというのだから、おばさんでないはずがないのだけれど。

 蛍光灯の下に照らされた、くたびれた自分の人生の通知表のような手を見つめる。

 

 夫と結婚し、子供を産んだことに後悔はない。

 むしろ、恵まれていると言う人だって多いだろう。


 それなのに、自分の胸にぽっかりと空いた、この空洞は何なのか。

 再度嘆息しても、その音を聞く者は誰もいない。


☆☆☆☆☆


 昼間だけのスーパーでのパートを終えて、陽子は帰途についていた。

 日はずいぶんと高くなったというのに、まだ風は厳しくコートに突き刺さる。

 気が滅入るようにどんよりとした冷気。


「今夜は、ひき肉が安かったから……ハンバーグにでもしようかしら」


 母親になってから、ずっと次のご飯のことばかり考えている気がする。

 子供がすくすくと育つように。

 お腹が空いて、泣いたりしないように。


 朝食、お弁当、夕食。

 食事を用意することは、幸せを願うことだ。


 献立をハンバーグとひじきの和え物にすることを決めて、顔を上げる。

 道路の脇を進んでいくと、反対側の歩道にうずくまる影があった。

 よく目を凝らすと、老婆が転んでしまったようだ。


「あら、どうしよう」


 辺りを見渡しても、人通りは少ない。

 老婆はなかなか起き上がれないようで、陽子は左右を確認し道路を渡った。


「おばあちゃん、大丈夫ですか?」


 声をかけると、老婆は眉根を寄せて陽子の方を見る。

 手押しのシルバーカーの持ち手を掴み、彼女は人の良さそうな顔を歪ませてこぼした。


「情けないねえ、水たまりが凍っててさ。起き上がることもできやしない」

「手伝いますよ。腰に手を回しても良いですか?」

「悪いねえ……」


 老婆の了承を得、陽子は抱きかかえるようにして彼女の身体を起こした。

 シルバーカーを使って、彼女はなんとか立ち上がることができた。


「どこか、痛むところはないですか? 一度、病院に行った方が良いんじゃないかしら」

「大丈夫よ、立てなかっただけ。息子に電話して迎えに来てもらうから、心配しないで」


 外套の泥をはらって、老婆はけらけらと笑う。

 確かに表情からすれば、そんなに大きな怪我はしていなさそうだった。


「それなら良いんですけど……」


 まだ心配した顔の陽子に、彼女は何かを思いついたようにシルバーカーの荷台を開いた。ごそごそと何かを取り出して、陽子に手渡す。


「大したお礼なんてできないけどさ、これお家で食べてよ! 今作って来たところよ」

 

 突然、眼前に現れた深緑の風呂敷包み。陽子は戸惑って手を振った。


「いえそんな、お礼なんて結構ですよ」

「いいからいいから、どうぞ!」


 年配の女性の勢いに抗うこともできず、陽子はそれを受け取ってしまった。

 四角い箱はずしりと重く、匂いからして何か食べ物のようだ。


「じゃあね、本当にありがと!」


 老婆は陽子の右手を握って振る。

 その感触は皺々で細く、ふわりと温かい。

 なぜだか目の奥がつんとして、泣きたいような気持になった。


「……いいえ、そんな」


 上手く笑顔が作れなくて、変な顔をしていると自分でも思う。

 手を離した老婆は目尻をくしゃくしゃにして、春風のように言った。


「あなた、良い手をしてるわね」

「……えっ?」


 陽子は、目をしばたかせた。

 老いて荒れた自分の手は、どこからどう見ても醜い。


「わかるわあ。頑張って来たんでしょう、ずっと。そういう人の手よ」


 老婆は歯を見せて笑むと、今度こそゆっくりと歩き去った。


☆☆☆☆☆


 どこかぼんやりとした頭で帰宅し、陽子はリビングのテーブルに、老婆からもらった包みを置いた。

 風呂敷の結び目を解くと、大きな半透明のタッパーが現れる。


「これは……」


 蓋を開け、立ち昇る湯気と醤油の香り。

 所狭しと敷き詰められた、ごろりと大きな具材は、茶色く汁が染みていて美味しそうだ。

 大根、卵、結び昆布に糸こんにゃく。冬の風物詩のような、温かいおでん。


「人に作ってもらったおでんなんて、いつぶりかしら」


 わざわざ外で食べることもないし、実家でないと、作ってもらったおでんを食べることなんてないかもしれない。

 暖房をつけ、リビングが暖まってくると、何だか急激にお腹が空いた気がしてきた。


「……味見しようかな」


 箸と小皿をキッチンから持ってきて、タッパーから大根を一切れよそう。

 大根を箸で切ろうとすると、力もいれていないのにすっと箸が通った。


 一口分を箸で掴み、口に運ぶ。

 大根はほろりと舌の上でほどけ、あまじょっぱい出汁の風味が広がった。大根のかすかな苦味さえ、醤油の味と相まって懐かしい。


 一口、もう一口と食べるたびに、冷えた身体にじわりと染みていくようで。

 陽子を労わるような、老婆の優しさを思い出すようで。


「……うっ、ふうっ……」


 気が付けば、陽子は肩を震わせていた。

 ぽたり、とテーブルに水の粒が落ちる。


 褒められるようなことなんて、何もしていない。

 毎日当たり前にご飯を作って、掃除をして、洗濯をして。


 ハンドクリームを塗っても、手は荒れていく。それでも、努力の跡だと言ってもらえるのなら。


 老婆の骨ばった細い手の温度を、陽子はまだ覚えていた。


☆☆☆☆☆


「ただいま! お母さん、今日のご飯はー?」

「……ただいま」


 ガチャガチャとドアの開く音がして、息子たちが帰宅した。

 キッチンで夕食を準備しながら、陽子は返事をする。


「ハンバーグとひじきと、おでんよ! お弁当箱、早く出してね!」

「はいはーい」

「はいは一回!」


「……」


 長男は、無言でお弁当の包みをキッチンのカウンターに置いた。

 そのまま身体を翻し、階段を上ろうとするので、彼の背中に声をかける。


「ねえ、ちょっといい?」

「……何」


 面倒くさそうな顔で、長男は振り向いた。

 陽子はキッチンから出てきて、彼に駆け寄る。彼の右手を、ぎゅっと握る。


 大きくて日焼けした、滑らかな手。

 それでも中指の内側には、固い膨らみができている。

 長時間筆記具を握るとできる、ペンだこの形。


「……ほんとに、何?」


 怪訝そうな息子の顔を見上げて、陽子は微笑む。


「勉強、頑張ってるのね。あと少しで受験だもんね」


 意表を突かれたのか、彼は少し戸惑ったようだった。


「……うん」


 母を探していた小さな柔らかい手は、形を変えて、未来を掴もうとしている。


「お兄ちゃんの受験が終わったら、二人とも家事やってもらうわよ! 一人暮らしできるようにならないとね!」


 家事は、特別なことではない。

 それでも、愛を紡ぐことだ。


「えーっ⁈」

「……うん、そうする」


 陽子は、息子たちに向かって、手をひらひらとさせた。

 その手の形は、きっと、そう悪いものではない。


 

 


 


 


 

 

 


 


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