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ささがに
ep.1 始まり
冷戦とは、戦争の不在ではない。それは戦争が常に起こり得る状態を維持し続ける異様な均衡だった。アメリカとソ連。二つの超大国は、地球を何度も破壊できるだけの核兵器を抱えながら、同時に「核兵器は撃てば終わりだ」という理性にも縛られていた。恐怖が抑止力となり、抑止力がさらに恐怖を育てる。その循環の上に、世界は成り立っていた。
1
アメリカ東海岸、某空軍基地。午前三時十七分。静寂を切り裂いたのは、警報音だった。それは訓練用とは明らかに異なる、短く鋭い警告音だった。管制室の照明が自動的に切り替わり、壁一面のスクリーンに赤い表示が浮かび上がる。
「未確認飛翔体、探知!」
オペレーターの声が裏返る。
「ソ連領内、北方発射地点より上昇。軌道解析中.....北米大陸方向!」
室内の空気が、一瞬で凍りついた。当直士官たちは、互いの顔を見た。誰もが、同じ言葉を思い浮かべていたが、口にする者はいなかった。
まさか。
数秒後、管制室の扉が開き、エドフォード少将が入室した。五十代半ば。短く刈り込まれた髪、皺の刻まれた顔。彼はこの基地の最高指揮官であり、冷戦期のアメリカ軍将校として、最悪の事態を想定する訓練を何百回も受けてきた男だった。
「状況を報告しろ」
低く、抑えた声だった。
「現在、未確認飛翔体一基を探知。速度、高度ともに大陸間弾道ミサイルのプロファイルと一致します。ただし」
「ただし?」
「識別コードなし。発射数が一基のみという点が不自然です」
エドフォードはスクリーンを見つめた。緑の軌跡が、ゆっくりと、しかし確実にアメリカ本土へ伸びている。
「誤報の可能性は?」
「人工衛星の誤認、気象ロケット、あるいはレーダー異常の可能性も排除できません」
誰もが、そうであってほしいと願っていた。エドフォードは、数秒間、沈黙した。その沈黙は、短く、しかし致命的な重さを持っていた。
2
彼の脳裏には、これまでの訓練が蘇っていた。
最初の一報を疑うな
敵は必ず奇襲を選ぶ
一発目を受けてからでは遅い
冷戦とは、逡巡した者から死ぬゲームだった。
「発射地点はソ連領内で間違いないか」
「はい。少なくとも、我々のデータでは」
「軌道変更の兆候は?」
「ありません。現在も北米へ直進中です」
エドフォードは、拳を握った。一基だけ。それが罠である可能性もある。本命は別にあり、こちらの反応を誘うための試射かもしれない。
だが、もし本物だったら?
もしこれが核弾頭を搭載したミサイルで、着弾まで残り十数分しかないとしたら。彼は知っていた。大統領への正式報告、国家安全保障会議の招集、その決定を待っていては、対応が間に合わない可能性がある。この基地には、限定的ながらも報復用の核ミサイルが配備されていた。それを即座に発射できる権限を持つのは、ここでは彼だけだった。
「少将.....」
副官が、言いかけて口を閉ざす。エドフォードは、ゆっくりと振り返った。
「我々の任務は何だ?」
「.....国家の防衛です」
「そうだ」
彼は再びスクリーンを見た。
「誤報だった場合、歴史は我々を笑うだろう。だが判断が遅れて都市が消えた場合、歴史は我々を許さない」
そして、決定的な一言を告げた。
「これは核攻撃だ」
3
空気が、一段と張り詰める。
「報復プロトコルを発動する」
誰かが息を呑む音がした。
「ソ連領内、戦略目標に対し核ミサイル発射準備」
副官が震える声で確認する。
「大統領令は.....?」
「時間がない。責任は私が取る」
エドフォードは、制御卓に手を置いた。そこには赤い保護カバーのついたスイッチが並んでいる。彼は、その一つを跳ね上げた。
「発射」
地下サイロから、低く唸るような振動が伝わってくる。数秒後、地面が震え、モニターに映像が切り替わった。白い炎。黒い煙。そして、天へ向かって伸びる細長い影。一発、また一発。数十発の核ミサイルが、夜空を裂いていった。誰も拍手をしなかった。歓声もなかった。ただ、世界が不可逆の段階へ進んだことを、全員が理解していた。
4
数分後、ホワイトハウスへの緊急回線が開かれる。
「こちら東海岸基地。核ミサイル発射を確認」
電話口の沈黙が、異様に長かった。
「.....誰の命令だ?」
「エドフォード少将の独断です」
その瞬間、アメリカ合衆国は、冷戦から熱い戦争へと移行した。そしてこの時点ではまだ誰も知らなかった。ソ連から発射されたとされた謎の飛翔体が、核ミサイルではなかったことを。
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