樫の木(仮題)

山田奇え(やまだ きえ)

第一話「紙片」①

 物心がついたとき、実の父親はいなかった。

 ただ、血のつながりこそないものの――そう呼べる人ならいた。

「――僕は本来こういう迷信めいた話をする立場の人間ではないのだけどね、君の首元にある〝それ〟は何らかの『縁』なんだよ」

「エン?」

「ああ、道しるべのようなものさ。君がやらなきゃいけないこと。心の奥底でそうしたいと願うこと。それを忘れないために付けられた目印なんだと僕は思う」

「でも、わたし、嫌いだわ。これのせいでみんなわたしをバカにするんだもん」

「はは、きっとそうだろうとも」

 まだ幼かった自分が【秘密基地】だなんて呼んだあの場所で、私は彼とくだらない話やまじめな話をいっぱいした。

 あの人からもらった言葉の数々は今でも、私が思うことや感じることの受け皿になっていて、だから、きっといわゆる『薫陶を受けた』っていうのはこういう状態のことを言うのだと思う。

 優しい顔と温かい声をした人だった。しかし、どこか他者と融け合わない冷たさを秘めた人でもあった。

【秘密基地】の外には立派な樫の木が立っていた。秋にどんぐりをたくさん持ち帰っては母を困らせたものだ。


 いつの日か彼は私の人生からいなくなっていた。


 子供ながらになんとなく『これで最後だ』と感じたあの日に、母の手に引かれる私へと彼は一枚の紙片を渡した。

 そこに書かれていたのは手紙というには無機質な、箇条書きの文章の羅列。

「約束をしよう。君が『善く生きる』ということに迷った時、そこに書いてあることをするんだ」

「そうしたらまた会える?」

「君が望むならね」



          φ



 四畳半の安アパート。日焼けした畳の上にあぐらをかいて、建て付けの悪い網戸越しに裏路地を見下ろすと、トラックがと地面を揺らしながら走り去っていった。

「――火、点けないの」

「……ああ、うん」

 なんとなく昔のことを思い出していた。

 淡い記憶とでもいうのだろうか。心の奥底に仕舞ってあって、ふとした瞬間にだけ思い出す、そんな過去のこと。

 あれから数十年がたって、私はを経験した。

 そして現在、一身上の都合で仕事を辞めてから転がり込んだ母の部屋で、無気力なままにもう三か月という月日が経とうとしている。

「ささ、どうぞ」

「こりゃどうも」

 乾いた母の指から差し出されるライターの火に煙草の先を近づけて、イグサの香りと一緒に吸い込む。

 遠慮がちに炊かれた赤色が小さな紙の筒を斜めに焦がした。

 すると――。

「もーらい」

 母は私の距離感に土足で踏み込むように口元へ手を伸ばしてくると、悪びれもしない無表情で、煙を立ち昇らせるラークを引ったくってしまう。

 それから、この不遜な母親は流れるように二口目(ここが煙草で一番美味い)をさっと飲みこんでしまった。

「……タバコ、やめたんじゃないの」

「吹かすだけよ。ノーカウント」

「元愛煙家の詭弁だね」

「――げっ、何これ! ガソリンみたいな味だわ……。アンタこんなの吸ってんの」

「美味しいでしょ。クラシックマイルド」

「ううん、なんだかジジくさい」

「それがイイんじゃんか」

 煙草を取り返しながら、わっはっは、とわざとらしく笑う。

 間もなく、母はそそくさとちゃぶ台のほうに戻って行ってしまった。

 机の上やその周りには無造作に蔵書の数々が放り投げられていて、その真ん中で彼女はノートパソコンに向かい合って正座する。

 こんなに散らかった作業環境にあって、背筋を伸ばして折り目正しく座っている五〇代女性という図はどこか珍妙だった。しかし、その光景はこの人の在り方をよく表しているようにも思えた。

 所作のひとつひとつから垣間見える育ちのよさと、並み居る男たちをたじろかせてしまうような機知とか理知とかに富んだ才媛の――その成れの果て。

 かつて煙草のよく似合ったこの鉄の女は、私のことを一瞥して、全くもって遠慮のない一言を浴びせた。

「――で、あんたどうすんの、仕事」

「……さてね」

「さてね、じゃないわよ。失業保険だっていつまでももらえるわけじゃないんでしょう」

「あのね、社会の荒波に揉まれて人間関係に傷ついて実家に帰ってきた娘を労わる気持ちとかそういうのはないわけ?」

「ないわね。ずっと言ってきたでしょう。大学までは面倒見るけど、そっからは自分でどうにかしなさいって」

「なんて冷たい……」

「言われ慣れたわ」

 束の間の沈黙。

 キーボードを軽快に叩く音だけが、空気が重くなるのを妨げるように部屋の中で反響する。

「なんでそんな風に育っちゃったのかしらねぇ。器量し、器量なし。そのくせ、変に学が付いたせいで選り好みばかりする、口だけは一丁前の三十路女」

「……そりゃ自虐だね。三十路の部分以外」

 母はどこか嬉しそうに笑った。屈託のない笑みだった。

「そうかもね。……でも、もうここはアンタの帰ってくるべき家じゃないわ。昔住んでた家もとっくに更地になって、今じゃ味気ない税金対策の月極駐車場になっちゃった。……だからね、前に進みなさい。それしかないのよ」

「前ってどこよ」

「アンタから見た正面よ」

 鼻を鳴らして、煙草を吸い込んだ。

 煙に巻くには、透けすぎて、揺らぎすぎた紫煙を吐き出す。

「……昔はもっと悲観的だったはずなんだけどね。自分の境遇ってやつに。でも、なんかいつの間にか冷めちゃった」

「冷めたんじゃなくて、飽きたんでしょ。私からすれば、アンタは自分から不幸を選んでいるように見えるわ。心がないから、そうやって次へ次へと刺激ペシミズムだけを求めるの」

 小さな灰皿を掴んで、机のほうに投げた。

 それにぶつかった本が悲壮感を伴って床に落ちた。

「……さっきの言葉は修正するわ。アンタ学もない。自分の気持ちに言葉を与えることすらできないんだもの」

「――何が分かんだよ。……なんかに、私の、何が」

「『お前ら』じゃないわ。ここでは『お前』って言葉を選ぶべきよ」

 嘆息した母が本を拾い上げるとそこから見覚えのある一枚の紙切れが落ちた。

「――この本はね、お母さんが尊敬している人の本よ。それはもうたっくさんの煙草と一緒に孤独と戦い続けた女性の」

「覚えてるよ。でも、当時中学生の小娘に勧める本じゃなかったね」

「言葉や考えに出会うのに、年齢は関係ないわ。言ってるじゃない、心が必要なのよ。腑に落とすための『器』がね」

 それから紙片をつまみ上げて内容を確認するとそのまま私に向かって差し出した。

「……でも、今のアンタにはこっちのほうが効きそうだわ」

 私はそれを受け取るとろくに中身も読まないままスウェットのポケットに突っ込んだ。

「…………」

「一つ伝えておく」

「……何」

「これでも愛してるのよ。あなたをね」

 私は思わず噴き出した。それを見て、いまいち感情の読み取れない両側の眉を吊り上げた表情をしたあと、首を左右に振りながら母は続けた。

「同じ血が流れているからというのとはまた違うの。それだと不十分で、お腹を痛めて生んだからというのもきっと核心じゃない」

 煙草の灰を落とすために気まずそうに灰皿を拾いに行った私の目を見て。

 自分でもどこか不思議に思っているようなそんな声音で。

 母は言った。


「――きっと『縁』というんじゃないかしらね。こういうのは」


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樫の木(仮題) 山田奇え(やまだ きえ) @kie_yamada

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