災厄滅世の契
@XUANN
序章 | 初生
ロッグ無籍自治域のロヴィア村で、
一人の少年が誕生した。
少年が生まれたその日、天気は良かった。
記憶に残るほどの快晴ではない。
ただ、あまりにも普通で、
この日も、その先の毎日も、同じように続いていくのだと
錯覚してしまうほどの穏やかさだった。
カール・ノルテスは分娩室の外に立ち、
無意識のうちに両手を組んでいた。
これほど長く、何もせずに立ち尽くすのは久しぶりだった。
これまでの年月、
彼は距離や音、気配を測ることに慣れてきた。
だが、ここでは――何一つできなかった。
やがて、泣き声が響いた。
小さく、短い。
それでも、確かにそこに在った。
その瞬間、カールはようやく気づいた。
自分の呼吸が、ずっと整っていなかったことに。
⸻
少年が抱き上げられたとき、
彼の動きはどこか不器用だった。
手は震えていない。
けれど、どれほどの力で触れていいのかわからなかった。
結局、壊れやすい何かを扱うように、
慎重に、ただ支えることしかできなかった。
カールは腕の中の少年を見下ろした。
長い間、見つめていた。
時間が流れていることさえ、
自分では気づかないほどに。
⸻
「……名前は?」
ベッドに横たわるリア・ヒーサが、静かに尋ねた。
カールは、わずかに息を詰める。
本当は、迷うものだと思っていた。
彼は昔から、物事に意味を与えるのが得意ではない。
それでも、
もう一度少年へ視線を落とした瞬間、
その名は、ごく自然に浮かび上がった。
考え抜いたわけでもなく、
前もって用意していたわけでもない。
ただ――そこにあった。
⸻
「エルだ。」
低く告げられた声は、
小さいながらも、はっきりとしていた。
⸻
リアは彼を見た。
「……意味はあるの?」
カールは少年を見下ろし、
そっと指先で額に触れた。
「自分の立つ場所を、忘れないでほしい。」
一拍置いて、続ける。
「押し流されず、簡単に退かないように。」
リアはそれ以上、尋ねなかった。
ただ、微笑んで言った。
「じゃあ……エルね。」
⸻
エル・ノルテスが生まれたその日、
天気は、変わらず良かった。
⸻
それからの日々は、静かだった。
カールは制服を着なくなり、
夜明け前に目を覚まして
扉や窓を確かめることもなくなった。
代わりに、
これまで必要としなかったことを学び始める。
料理をし、片づけをし、壊れた家具を直す。
時折、キッチンで立ち尽くし、
自分が間違った場所に立っていないか
確かめるような顔をすることもあった。
だが、エルが泣けば、
彼はすぐに我に返った。
⸻
歩けるようになった頃、
エルは何度も転んだ。
リアは思わず一歩前に出るが、
カールは手で制した。
「……待て。」
エルは立ち上がり、
また転び、
それでも、もう一度立ち上がる。
ふらつきながらも、
ようやく足を止めた。
それを見て、カールは言った。
「立てたら、進め。」
励ましでも、命令でもない。
ただ、事実を告げるような声だった。
⸻
ミラ・ノルテスが生まれた年、
エルは四歳だった。
そのとき初めて、
自分が、唯一抱かれる存在ではないのだと知る。
カールは、いつもよりゆっくりとした動作で
ミラをエルに預けた。
「力を入れるな。」
「……でも、離すな。」
エルはうなずき、
緊張したまま、真剣に抱きしめた。
その日から、
彼は自然と、妹の前に立つようになった。
⸻
カールがエルに教えた最初の「技術」は、
剣ではなかった。
立ち方だ。
「急いで前に出るな。」
彼は膝を折り、肩に軽く触れる。
「まず、足に――立つ場所を覚えさせろ。」
エルは理解できなかったが、
言われた通りにした。
「立てないなら、何を持っても意味がない。」
⸻
その後に、木剣が与えられた。
誰かを倒すためではなく、
押し倒されないために。
カールは、上手くできても褒めず、
失敗しても責めなかった。
ただ、時折こう言うだけだ。
「今のは、急ぎすぎた。」
あるいは、
「今日は昨日より、安定している。」
それらの言葉は重くない。
だが、確かに、残っていった。
⸻
リアが教えたのは、また別のことだった。
「怖がってもいいの。」
暗い部屋に入れないエルに、そう言った。
「でも、その怖さを他人に投げちゃだめ。」
「……どうすればいいの?」
「ゆっくりでいい。」
「自分で抱えられる速さまで、ね。」
⸻
六歳のとき、エルは一度だけ尋ねた。
「父さん、前は何をしてたの?」
カールは、少しだけ黙った。
「……家を持ち歩けない仕事だ。」
「じゃあ、今は?」
カールは彼を見て、答えた。
「今は、ここにいる。」
エルはうなずいた。
そのときは、それで十分だった。
⸻
もし、世界が介入しなければ、
日々はこのまま続いていたのかもしれない。
木剣は少しずつ大きくなり、
ミラは父の顔を覚え、
教えは習慣となり、
記憶になることはなかっただろう。
だが、世界は――
誰の意思も、問わない。
⸻
ずっと後になって、
エルはようやく理解する。
名前とは、祝福ではない。
それは、託された方向なのだと。
そして彼が教えられたのは――
失う前に、
まず立つことだった。
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