順番
日晴よる
211025
夢を見た。
時代は戦後あたりだろうか。『僕』は兄と弟妹と、父母とともに暮らしていた。
戦争の傷跡の残る街は荒れ、ドブのような色合いの川が幾本も流れている。
父は病気でほとんど寝たきりで、親戚や周りからは可哀想だと言われているらしい。
けれど、子どもたちはそんな環境も苦ともせず、庭やそこらの瓦礫の中で、幼子らしく駆け回って楽しそうにはしゃぎ遊んでいる。
「じゃあ」
朝食のあと、兄は一言だけ残して出ていった。
兄が出ていった日の晩、珍しく父に部屋に呼ばれた。兄が出ていき、まだ十歳そこそことはいえ家にいる兄弟の中で僕が最年長になったから、これからは何か任されることがあるのかもしれない。
部屋に入りそんなことを思い正座する僕を一瞥すると、父は無表情のまま僕の頬を平手で打った。何が起きたか分からず父を見ると、反対の頬も打たれた。
そこに感情はなく、単なる作業のように父は僕の左右の頬を打ち続けた。
父は病気のためか、元々なのか、頭がおかしかった。
暴力は日々エスカレートしていった。平手打ちに始まった暴力は、僕では到底思いつかない多種多様な手段が取られるようになっていった。けれど、エスカレートすればするほど、不思議と傍目からわからないものへと変化していった。
そして、暴力を受けることがいつしか日常となってしまった。
勿論おかしいなとは思うが、死ぬわけではないし、きっといずれは終わるから、まぁ良いかと他人事のように感じた。
あるとき、父は僕の足の指の爪を一本、根元から剥がした。 僕が廊下でうずくまっていると、母からおつかいを頼まれた。
靴の中で血が固まり、痛みは鋭いし、歩きにくくて仕方がない。
歩けば歩くほど血が出てきたので、せめて血を乾かそうとひと気の少ない瓦礫のところまでやってきた。
そこで、瓦礫に腰掛けている兄に出会った。家を出て、久しく顔を見ていなかった兄だ。最後に見たときよりも頬はこけているが、随分と精悍な顔つきになっていた。
兄は僕の歩き方を見て、煙草を口にくわえたまま「ふーん」と短く漏らした。 そして、兄は煙草をくゆらせると挨拶もなく朗らかかに言った。 「小さな子にしか、あいつは興味を持たない。俺みたいに大きくなれば、もう何もされやしないさ」
そう言って指先で灰を払おうとするが、うまく落とせず、火のついた欠片が膝に転がり落ちた。 「あちっ」と笑って払いのける仕草も、どこか不自然でぎこちない。
「だから今は、おまえの番だ。それが終われば、下の子の番だ」 まるで季節の移ろいを語るみたいに、当たり前のこととして。
煙の筋が、夕方の淡い光に溶けていく。 その言葉がしばらく胸に沈殿したあと、不意に違和感が芽生えた。
――そういえば、兄は片目を細めるようにしてものを見ていた。 ――そういえば、手の動きがどこかぎこちなく、よく物を取り落としていた。
思い返せば、些細な不自由さがあちこちににじんでいたのだ。 兄の身体に刻まれたその歪みも、長い間まともに意識することがなかった。
気づいてしまった今になって、背筋が冷える。
けれどそれ以上に「自分が大きくなれば、下の子たちに危害が加えられる」という事実に、何よりも恐ろしさを感じた。
そう思ったためか、高校入学を迎える年になっても僕の体はまるで十二歳やそこらの子どものようなままだった。
周りからも幼さをからかわれることがあったが、何も気にすることはなかった。
父の興味は僕に向いたままだ。これでいい。
ある日の学校からの帰り道、病気でほぼ家から出られないはずの父と、小さな弟が対岸の河川敷にいるのを見かけた。ひと気のない、空が紫をにじませ始めた黄昏時だった。
虫が何かを見つけたのか、弟がしゃがんで雑草の中をのぞき込んだ。父はまるで絡ら繰り人形のように不自然にその後ろに腰をかがめると、弟の薄い方に骨ばかりの大きな手をのせた。
ただそれだけだった。
なのに僕は、激しい怒りと恐怖が湧き上がってくるのを感じた。
──あぁ、あの男を殺すしかない。
そう、強く思った。
それからほんの数カ月の間に、今まで成長が止まっていたのが嘘のように身体が年相応のものに変化を始める。
まだぎりぎり父の興味が自分に向いているうちにやらなければいけない。
その日は学校帰りで、帰宅すれば親戚たちが遊びに来ていた。普段静かな家がなんだか賑やかで、弟妹も嬉しそうだった。僕を見た親 戚たちは驚いた顔をしたあと、「まぁ、大きくなって」と嬉しそうに笑った。
僕はそんな親戚たちに笑みを返して挨拶をし、まずは仏壇を拝んでくると言い、父が眠る二階の仏間へと向かう。
急勾配な階段。階段の板の軋む音。壁のザリザリとした感触。
廊下の脇の磨りガラスの引き戸の向こうに父が眠っている。ガラガラと音を立てて引き戸を開けても父は目を閉じたままだった。
僕は随分前から通学鞄の中に入れていた包丁を取り出した。それは寝る前に歯を磨くとか、玄関で靴を脱ぐとか、そういう日常の所作と何ら変わらない自然さに思えた。
父は僕の頬を左右かわるがわる何度も打ったことを思い出す。右、左、右、左。だから僕も、機械的に、上、下、上、下。
けれど、命が絶える感触は、ぞっとするほど生々しかった。
殺し終えたところで、なかなか降りてこない僕を心配してか、母がやってきた。
母は驚いた顔一つ見せずに僕の横に正座すると、胸に刺さっていた包丁を引き抜いて、それを使って父の死体をめちゃくちゃにした。
作業を終えた母は、しどく冷たい掌で僕の手を引いて一階へと降りていく。
母は親戚たちのいる居間の引き戸に手をかける。ガラリと戸の開く音にそこにいた皆が振り向いた。
血のついた母の姿を見て親戚たちが驚くと、母は僕から手を離して、突然感情を取り戻したようにその場に崩れるように座り込んだ。そして、金切り声を上げる。気の狂ったように悲鳴を上げる。
そしてひどく混乱した様子のまま親戚たちに言う。「夫が死んでいた。この子は横で呆然としていた。何者かに殺された父を見て放心していたのだろう。まだ息があるかもと助け起こしたが、め、目玉も、舌もくり抜かれてすでに死んでいた!」
僕から見てもそれは演技には見えなかった。親戚たちもそれをまるごと信じた。普段の外側から見た僕達家族の中で、殺し合いが起こるとは考えられない。
戦後の混乱の残る時代だ。警察もまともに調べもせずに「賊が押し入って、金品でも奪おうと思って忍び込んだのに、そこに父が寝ていたことに驚いて殺したのだろう」と外部による殺人として適当に処理された。
「あぁ、良かった。これでもう、僕の弟や妹たちは大丈夫だ」
『僕』が、そう安心したところで私は目を覚ました。
順番 日晴よる @hibari_yoru
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