短編:「凪」

無邪気な棘


夏休みの初日、悟は叔父夫婦の家に挨拶に来て、夕方の海岸を歩いていた。 


潮の匂いが濃くなる時間帯で、風はまだ昼の暑さを残している。


砂浜の端に、白いワンピースの女性が立っていた。


波打ち際に影が溶けるようで、足跡は寄せては消える泡にすぐ隠れた。 


「こんばんは」


声をかけると、彼女は少し驚いた顔で振り向き、考えるように間を置いてから微笑んだ。


「こんばんは。……あなた、ここは初めて?」


悟が頷くと、彼女は海の向こうを見た。

遠くの島が、夕焼けに薄くなる。


「この時間が好き。誰も急がないから」


名前を尋ねると、彼女は波の音を数えるようにしてから答えた。 


「汐里」


それから、当たり前のように並んで歩いた。 


水の冷たさ、貝殻の形、この浜に来ると胸が軽くなる理由。


話題はとりとめもなかった。


翌日も、悟は同じ時間に浜へ行った。


汐里は、同じ場所にいた。 


三日目も、四日目も。 


気になって、悟は叔父に聞いてみた。


「この辺に、汐里って人、いますか」


叔父は首をかしげた。 


「聞いたことないな。親戚にも、近所にも」 


商店の人にも、港の老人にも尋ねた。


誰も知らなかった。


白いワンピースの女性のこと自体を。


四日目の夕方、悟は少しだけ怖くなって聞いた。 


「……汐里さん、ここに住んでるんですか」


彼女は砂に小さな円を描いた。


「住んでた、が近いかな。いまは……通ってる」


「どこから?」


「向こう」 


指さした先は、海だった。


それ以上の説明はなく、波の音が言葉を埋めた。 


別れ際、彼女は言った。 


「名前を呼んでくれて、ありがとう。ここでは、それがいちばん、あたたかい」 


盆の朝、悟は叔父に連れられて、先祖代々の墓へ向かった。


山の影がまだ長く残る時間で、蝉の声も控えめだった。 


墓の前には、一人の老婆がいた。


背は小さく、腰は深く曲がっているが、手を合わせる姿勢は不思議とまっすぐだった。


悟が挨拶すると、老婆は顔を上げ、にこりと笑った。


とても高齢とは思えないほど、目に迷いがなかった。


「ご家族の墓参りですか?」 


「えぇ、そうだよ。私の姉さまなのよ」


姉さま、という言い方がやさしかった。


「病気でねぇ。若くして亡くなってしまって」


「昭和二十一年。結核だったんよ」


悟は足を止めた。  


終戦の翌年。物も薬も足りなかった時代が、頭に浮かんだ。 


「……長く、ここに通っていらっしゃるんですか」 


「そうだねぇ。ずっと、待ってたから」


「誰を、待ってたんですか?」


老婆は空を見て、はっきりと言った。


「小野田昭一さんという人だよ。姉さまの、婚約者だったんよ」 


「戦争に行ってね。帰ってくるって、言ってた」


「姉さまは、それを信じて、最後まで」


風が吹き、線香の煙が細く揺れた。


「姉さまは先に逝ってしまってね」


「それでも、待つのをやめなかった。……私が、代わりに待つことにしたんだよ」


悟は、待つ、という言葉の静かな強さに胸を打たれた。


「名前を呼ばれたものは、どこにも行かないからね」 


その言葉が、悟の中に残った。


気になって、悟は街の外れにある小さな記念館を訪ねた。 


「戦争の記憶を忘れないために」と書かれた看板は、少し色あせていた。


壁に並ぶ、出征した人々の名。


悟は、ゆっくりと指でなぞるように名前を追い、立ち止まった。


小野田昭一少尉


確かに、そこにあった。


胸の奥から、熱いものがこみ上げた。


「……帰って来るだなんて……」


説明板には簡潔な記録があった。


昭和二十年八月一日、出撃。 


特攻隊だ。


終戦の、ほんの少し前。


「これじゃあ……無理だ……」 


館を出ると、外は明るかった。 


蝉が鳴き、子どもたちの声が遠くに聞こえた。


その夕方、悟は海岸へ行った。


汐里は、いつもの場所にいた。  


「分かった」  


悟は、並んで立ちながら言った。


「待ってた人、帰れなかったんだね」 


汐里は否定せず、静かに頷いた。


「それでもね。名前を呼ばれているうちは、完全には消えないの」


悟は思った。 


汐里がここにいるのは、誰かを待っているからではなく、誰かが、まだ覚えているからなのだ、と。


翌日、悟は墓へ行った。


しかし、千鶴子さんはいなかった。 


海岸にも行った。


汐里はいなかった。 


夏の雲が、ただ静かに、凪の上を彷徨っていた。


おしまい

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短編:「凪」 無邪気な棘 @mujakinatoge

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