第2話 冒険者の街へ

「まずは、人がいる場所に行こう」


異世界で一番怖いのは、魔王でも魔物でもなく、情報がないことだ。

会社で鍛えられた直感がそう言っている。


周囲を見回す。

草原の向こうに、踏み固められた道が一本伸びていた。

街道、というやつだろうか。人の通った痕跡がある。


「道があるなら、街もある」


心の中でそう整理して、歩き出す。

 

 

しばらく歩くと、遠くから車輪の音が聞こえた。

ガタン、ゴトン、と規則的な揺れ。


馬のいななき。人の声。


「……来た」


一瞬、喉が緊張する。


異世界の人間に話しかける。

言葉は通じるのか。ここはどこの国で、私は誰だと説明すればいいのか。


不安が押し寄せるより早く、道の先から馬車が現れた。


木製の荷馬車。

引いているのは二頭の馬。

御者台には、茶色の外套を羽織った中年の男が座っている。


馬車の荷台には布で覆われた樽や箱。

商人、だろうか。


リリアは深呼吸して、道の端に立った。

怪しく見えないように、手をゆっくり挙げる。


ふと、自分の格好を意識する。


白に近い淡い色のチュニックに、青いショートマント。動きやすい旅装だが、汚れ一つなく整いすぎている気もする。

腰の革ベルトも、靴も、どこか既製品のように完璧だった。


……これ、浮いてないよね?


「すみません!」


声が、自分でも驚くほどはっきり出た。

馬車の男がこちらを見た。


一瞬、目を見開いたように見えたのは、気のせいだろうか。


「……おいおい、こんなとこに嬢ちゃん一人か?」


馬車が速度を落とす。

男は手綱を握ったまま、警戒するように視線を走らせた。


「はい。えっと……道に迷ってしまって」


嘘ではない。

迷っているのは地理だけじゃなく、人生そのものだけど。


「ここは……どこですか?」


男は少し黙ってから答えた。


「ここはクラウゼン街道だ。南の方に行けば、駆け出し冒険者が集まる街……エルドリスに着く」


「エルドリス……」


街の名前を繰り返す。

音の響きが新鮮で、胸が高鳴る。


「そこまで、どれくらいですか?」


「半日ってとこだな。歩きならな」


半日。

ちょうどいい。


一話で到着まで行ける距離感――なんて、心のどこかで作家みたいな思考がよぎって、慌てて打ち消した。


「ありがとうございます。助かります」


「……嬢ちゃん、身分証は? 金は?」


「……」


身分証。

この世界の常識を何も知らないのが、いきなりバレそうだ。


「……ありません。えっと、目が覚めたら……ここに」


言い訳としては弱い。

でも、正直に近い。


男は眉をひそめ、しばらくリリアを見た。

視線が、顔に。髪に。マントの留め具に。


そしてすぐに、少しだけ目を逸らした。


「……事情ありか。ま、ここらじゃ珍しくない」


言い方は優しい。

でも距離がある。

親切にしてくれているのに、踏み込まない壁がある。


リリアはその壁に触れないように、丁寧に言った。


「エルドリスに行けば、まず何をすればいいですか?」


男は少しだけ顔を緩めた。


「駆け出しなら、冒険者ギルドだ。登録して、仕事を貰って、飯と宿を確保する。あそこは人が多い。情報も集まる」


人が多い。情報が集まる。

そして、リリアの頭の中では別の言葉に変換される。


――出会いも多い。


「……なるほど」


胸の奥が、期待で少し膨らむ。


「魔物が出るって聞いたんですけど、この道は危ないんですか?」


男の表情が少し硬くなる。


「本来はな。森が近い。油断すれば出る。特に一人歩きは……」


そこまで言って、男は言葉を切った。

視線が一瞬、リリアの足元に落ちて、すぐに戻る。


「……いや、嬢ちゃんは……大丈夫、か」


「え?」


「いや、なんでもない」


なんでもない、が不自然だった。

でも問い詰める空気でもない。


「とにかく、日が暮れる前に街に入れ。門が閉まる」


「はい。ありがとうございます」


「……道を外れるなよ」


男はそう言って、手綱を軽く振った。

馬車がまた走り出し、車輪の音が遠ざかっていく。

 

 

一人になった街道で、リリアは立ち尽くした。

親切だった。


必要な情報はくれた。

危険も教えてくれた。


なのに。


「……なんか、距離あったな」


言葉にすると、自分が面倒くさい女みたいで嫌になる。


でも、確かに一瞬、男は怯えたように見えた。


――気のせい、だよね?


「私、まだ何もしてないし」


旅人風の服。青いマント。金髪碧眼。

見た目が目立つのは確かだ。


だから驚かれただけ。そういうことにしておこう。


「よし、エルドリス」


街の名前を口に出すと、現実味が増す。

人が多い。情報が集まる。冒険者ギルド。


そこにはきっと、同世代の男性もいる。いや外見は二十歳だし、範囲は広い。


「……今度こそ恋愛できる」


小さく呟いて、頬が熱くなってしまう。

自分で言って照れるのは、二十九歳でも変わらないらしい。


「……大人の余裕、あるし」


言ってから、ちょっと悲しくなるのも相変わらずだ。

リリアは歩き出した。


街道はまっすぐで、迷う余地はない。

半日――なら、夕方前には着く。

 

 

歩き始めて、しばらく経つ。


静かだ。

風の音と、自分の靴が土を踏む音だけ。

鳥の声が遠くに聞こえる。草が揺れる。


……静かすぎる。


「……魔物、出るって言ってたよね?」


街道の左右には草むらが広がり、ところどころに木立がある。

隠れる場所なんていくらでもある。


なのに、気配がない。


視線を左右に走らせても、何も動かない。

草が揺れるのは風のせいだけ。

獣の鳴き声すら、ほとんど聞こえない。


「……拍子抜け」


異世界って、もっと物騒だと思ってた。

スライムに襲われるとか、盗賊に絡まれるとか、そういう定番があると思ってた。


「ラッキー……なのかな」


でも、どこか引っかかる。

あの旅人の言い方。


「本来は危ない」

「一人歩きは」

そこから急に「嬢ちゃんは大丈夫」になった。


まるで、私の何かを見て判断したみたいに。


「……いやいや」


首を振る。


「考えすぎ。私まだ何も――」


言いかけて、言葉を飲み込む。

そういえば私は、“盛りすぎた”って言われた。

神様が、強くしすぎたって。


その一言で、この転生が素直な救済じゃない気がしてきたのを、思い出す。


「……でも、能力とか、今は分からないし」


ステータス画面みたいなのが出るわけでもない。

スキル一覧が頭に流れ込むわけでもない。


ただ、体が軽い。

目が良い気がする。遠くの景色がはっきり見える。

耳も、風の向きで音が変わるのが分かる。


「これが……転生特典?」


そんな言葉を口に出した瞬間、背中が少し寒くなった。


自分が、自分じゃないみたいな感覚。

整いすぎた顔。軽すぎる体。

そして、魔物が寄り付かない静けさ。


「……うん、気のせい。気のせい」


リリアは歩く速度を少し上げた。

考え出すと止まらなくなるのは、会社員時代からの悪い癖だ。

 

 

半日という時間は、思ったより早かった。

太陽が傾き始めた頃、遠くの地平線に影が見えた。


「……あれ?」


目を細めると、それは壁だった。

高い石の城壁。見張り塔。旗。


街だ。

胸が、どくんと鳴った。


「……エルドリス」


街の外には畑が広がり、行き来する人影が小さく見える。


荷車を引く者。徒歩で歩く者。馬に乗る者。


――人がいる。


その当たり前が、こんなに嬉しいなんて。


「やっと……」


喉が少し熱くなる。

泣きたくなるほどじゃない。でも、ほっとする。


リリアは歩幅を大きくして、街へ向かった。

門へ続く道は、さっきまでの静かな街道と違って、少し賑やかだった。


すれ違う人がいる。

会話が聞こえる。


「……よし」


胸の奥に、小さな火が灯る。


ここから、始まる。

私の第二の人生。

今度こそ、ちゃんと恋愛して、誰かに選ばれて――。


「彼氏作るぞ、異世界で」


小声で言って、少し照れる。

そして、その門がはっきり見えた瞬間――


なぜだろう。

門の前の人だかりが、一瞬だけ、こちらを見た気がした。


視線が、揃う。

空気が、ほんの少しだけ変わる。


「……え?」


足が、止まりかける。

でも、すぐに皆、何事もなかったみたいに視線を逸らして、流れに戻っていく。


ただ、最後に残ったのは――


さっき旅人が見せたのと同じ、あの“距離”だった。


「……気のせい、だよね?」


リリアは自分に言い聞かせるように呟き、

街の門へ向かって歩き出した。

 

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