探偵は静かに語る……。Lady

てきてき@tekiteki

第1話

 まだ、人が科学に支配されすぎていない時代。

 そう、人が人としての“心”を、ギリギリ胸の内に残していた頃の話だ。


 昼間の街は、光化学スモッグの霧に覆われている。人々は皆、ガスマスクを被って歩いているのが当たり前だ。

 最近では、そのガスマスクのカートリッジに新しいフレーバーが追加されたらしい。金木犀の香り、だとさ。


 聞こえはいい。

 だが、当の金木犀はとっくの昔に絶滅している。どこぞの企業が、古びた香料のレシピを引っ張り出してきただけだろう。

 無知というのは、時に幸福で……そして時に、とびきり残酷だ。


 そもそも、本物の香りなんて誰も知らない。

 レモンだろうが、林檎だろうが、合成香料が“本物に近い”かどうかなんて、この街の連中には嗅ぎ分けられるはずもない。


 そういうわけで、街で素顔を晒している奴はいない。

 ――“街の中”では、な。


 一歩裏手に入れば、そこは旧世代の風景だ。

 身を持ち崩した人間たちが、どこの博物館から引っ張ってきたのか分からない簡易ガスマスクで、どうにか生き延びている。


 不規則に建てられたビル群。

 日照権なんて、昔の教科書の端に載っていた夢物語だ。


 濁った暗闇の中、何が入っているのか想像もつかない黒いビニール袋が、そこら中に山積みになっている。

 パンパンに膨れ上がり、裂けた小さな穴からは、“体に悪い”なんて生優しい言葉じゃ追いつかないガスが吹き出している。


 この街の風は、いつだって腐っている。

 だが、私は嫌いじゃない。

 汚れた空気のほうが、本音は吐きやすい。


 私は探偵だ。

 この街で息をしている限り、一番危ないのは私じゃない。相手の方だ。


 この町じゃ、“女”ってだけで価値が上がるらしい。

 なぜか、なんて野暮なことは言わない。そんな理由、この街で暮らしていりゃ嫌でも見えてくる。


 ただ……あたしの身長じゃ、そもそも女だと思う奴なんてほとんどいない。

 それでいい。むしろ助かっているくらいだ。


 長い髪? 今じゃ珍しくもない。

 ガスマスクのオプションで、好きな色をいくらでも付け足せる時代だ。本物の髪かどうかなんて、誰にも判別できやしない。


 体型はどうかって?

 あはは……夏でも脱げない“特殊外套”が、あたしのスリーサイズを綺麗に隠してくれている。

 この外套のおかげで、女扱いどころか“種別不明”ってところだ。


 それに、ガスマスクには濃いスモークシールドがかかっている。

 誰の素顔も、目つきも、頬の動きすら読み取れない。

 嘘も本音も、そのスモークの奥に沈んでいく。


 ここじゃ全員が仮面のまま生きている。

 素顔を晒すのは、恋人の前か――あるいは、死体袋に入ったときくらいだ。


 さて。

 依頼人は、この腐った裏路地のさらに奥。約束の店で待っているはずだ。

 女がひとり歩くには治安の悪すぎる夜だが、心配はいらない。


 看板のネオンはほとんど死んでいた。

 店名を示す文字列なんて、ここじゃもう意味を成さない。“どこの、何屋”って曖昧に言えば、大体は伝わる。


 それ以上の説明がいらないほど、この街の治安は悪い。

 店を経営するってのは簡単な話じゃない。特にこういう、常識が通じない場所ではな。

 店舗数が少ないのも当然だ。続かないからだ。


 いつの時代にも、どこの街にも“黒い噂”ってのは尽きない。

 この店が、そのどれに属しているのか……それすら分かっちゃいない。

 まぁ、そんなものに興味はない。探偵は、裏社会のどの勢力にも肩入れしない。

 どれも、情報源のひとつでしかないからだ。


 この裏路地の飲食店には、一応、軽食のメニュー表なんてものが置かれている。

 だが、注文したものが本当に出てくるとは限らない。

 いや……メニュー通りのものが出てきたら、それは奇跡だ。


 その“奇跡待ち”を笑って許せる奴だけが、この街の裏側で食べ物にありつける。

 食材については、詳しく聞かないことだ。飯が不味くなる。


 飛行船型広告も、巨大ビルのホログラムCMの光も、この裏通りには届かない。

 そもそも、ここに住む連中が広告の商品を買えるわけがない。

 そんな連中に広告費を払う企業なんて……あるはずもない。


 代わりに灯っているのは、店先の提灯だ。

 アナクロな光だが、それなりに情緒がある。

 そこに群がる虫たちを見ていると、こいつらの方が、この街の大半の人間よりよほど素直に生きている気がする。


 依頼人は、この奥の席だ。

 呼び出されたってことは、相当急いでいるか……あるいは、他人に知られちゃまずい話か。


 どちらにしろ、ロクな仕事じゃない。

 ……だが、それが一番稼げる。


 鉄格子のないドアなんて、今どき珍しい。

 裏の街でこれだ。つまり、よっぽどの“自信”があるってことだ。


 カメラも、センサーもない。

 監視網が張り巡らされたこの街じゃ、逆に不自然なくらいだ。

 だからこそ分かる。この店のオーナーは“やばい側の頂点”にいる。


 敵対勢力など相手にならない。

 縄張り争いも、とっくに片がついている。

 この通りで誰もこの店に手を出さない理由は、それだけだ。


 店内は暗い。照明が壊れているわけじゃない。

 “意図的に”つけていないのだ。


 昼間だというのに、ビルの隙間から届く光はわずか。

 もやしみたいな新芽じゃ、芽を出した瞬間に干からびちまう。


 ドアに近づいた瞬間、「チリン」と鈴が鳴った。

 ドアが開く前に、音だけが先に落ちてくる。


 センサーの前に手をかざすと、自動ドアが耳を突くような不快な音を立てて開いた。

 まるで訪問を歓迎する怪鳥の鳴き声――いや、あたしを試すような軽い響きだ。


 奥の闇の中で、人影がひとつ動いた。

 スモッグ越しの街より静かで、裏路地よりよほど危険な気配。


 依頼人、か。

 それとも……別の何かか。


 旧型アンドロイドの店主が、昭和のマニュアル本から抜け出してきたみたいに頭を下げた。

 合成音声のくぐもった響きが、この薄闇によく似合っている。


「どのテーブルが空いているのかしら」


「99番テーブルにご案内します。後についてきてくださいませ」


「……99番?」


 どう見ても、テーブルは二十もない。

 カウンターを含めても三十が限界だ。

 それなのに、99番。


 まぁ、この街じゃ数字に意味があるとは限らない。

 むしろ“意味がない数字”ほど、裏ではよく使われる。


 案内用アンドロイドは、律儀に、だが妙に速い足取りで進んでいく。

 そのまま厨房へ一直線だ。


「この店、客が自分で料理するスタイルなのかしら?」


 ……冗談を言ってる場合じゃない。


 厨房に一歩足を踏み入れた瞬間、鼻の奥が拒否反応を起こすような臭いがまとわりついた。

 腐臭でも、薬品臭でもない。

 空気清浄機のフィルターを何年も交換していない――そんな匂いだ。


 本来、この店の空調は外気を直接入れないはずだ。

 どんなに粗末な店でも、飲食店としての最低限は守る。

 それに、ここで食べるならガスマスクは外すのが前提だ。


 つまり、この臭いは……意図的に“漏らされている”。


「99番テーブルは、こちらでございます」


 指し示されたのは、厨房の奥。

 壁と冷却倉庫の隙間にぽつんと置かれた、テーブルとも呼べない鉄の台。


 ……なるほど。99番ってそういう意味か。

 普通の客は通さない場所。

 裏口の、さらに裏。


 依頼人は、こちらの腹を探りやすい場所に陣取っている。


 さて……ガスマスクを外すべきか、どうするべきか。

 この空気じゃ、どっちに転んでもロクなことにならない。


 まぁ、相手の出方次第だ。


 さて。

 店の奥からは、どんな怪物が出てくるのやら。

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