第6話 Y-S01w アスラ

 一九八二年、一月。

 熱帯のケダにも、冬は残酷な爪痕を残していた。

 降り続く雨はスコールのような激しさを失い、底冷えのする湿った冷気へと変わり、第48収容所のバラックに停滞する死の臭いをいっそう濃くしていた。


「ミナ……! 目を開けてくれ、ミナ! しっかりしろ!」


 カイの叫びが、雨音に混じって薄暗い部屋に虚しく響く。

 藁を敷いただけの寝床に横たわるミナの顔面は、血の気を失って雪のように白く、それとは対照的に、不潔な布が巻かれた右脚の付け根は毒々しい紫黒色に腫れ上がっていた。

 布の隙間からは、腐敗した肉を求めてウジが這い出し、鼻を突く壊疽の異臭が狭い部屋に充満している。

 傷口から回った毒が、確実に、そして冷酷に彼女の命を根元から蝕んでいた。


「くそっ、この、……離れろ! ミナから離れろッ!」

 隣でジョセフが、泥だらけの布を震える手で動かし、必死にウジを払い落としていた。

 だが、拭っても拭っても、傷口からは濁った膿が溢れ出す。

 もはや素人の手当でどうにかなる段階は、とうに過ぎていた。

「もう、一ヶ月だぞ!日和極東連邦は!大東亜経済広域圏は!オレ達を見捨てたのかよ!」

 ジョセフの大きな心の叫びは、他の収容者たちの涙を連鎖的に誘う役目しか果たしていない。


「……あ、……ぁ……カ……イ……」


 ミナの琥珀色の瞳は、いまや熱に浮かされて白濁し、焦点はどこにも合っていない。

 彼女の体は、冷たい風に吹かれる枯れ葉のように小さく震え、今にもその命の灯火が消え入りそうだった。


 カイは耐えきれず、泥濘が広がる屋外へと飛び出した。

「大佐ッ! ヴォルフ・アシュラフ大佐ッ!! どこだ、見ているんだろッ!!」


 降りしきる雨の中、カイは泥の中に膝をつき、監視カメラの冷徹なレンズに向かって、あるいは灰色の空に向かって、喉が裂けるほどの悲鳴を上げた。

「助けてくれ……ミナを助けてくれ! 何でもする、あんたの言う通りにする! 頼みます!お願いですから。 だから、彼女を……ミナを死なせないでくれッ!!」


 かつて「神の指先」と称えられ、一個大隊を屠ったその指を、いまや無様に泥に染めながら、カイはただの無力な一人の男として、憎むべき仇敵に命乞いをした。

 額を泥に擦りつけ、尊厳の全てを投げ打って叫ぶ。

 その光景を、アシュラフ大佐は司令室のモニター越しに、琥珀色の瞳を細めて眺めていた。彼は満足げに、手にした高級な万年筆を机に置いた。 「……良い。極限の絶望こそが、人間から最高の出力を引き出す燃料になる」

「君たちも覚えておくと良い。人の心の手折り方をね」

 アシュラフ大佐は満足げにモニターを見続けていました。


 その日の午後。

 ケダの海岸線に近い、帝国軍シュテルツァー演習場。

 そこには、上陸戦の地獄が嘘のような、整然とした鉄と油の世界が広がっていた。


 試験搭乗を終えたばかりの漆黒の先行試作機『Y-S01w アスラ』が、巨体を揺らしながら駐機場へと膝をつく。

 高圧の蒸気が排熱スリットから勢いよく噴き出し、周囲の雨を瞬時に霧へと変えた。


 ハッチが開き、中から這い出してきたカイは、立っていることすらままならない様子だった。

 全身が異常な発汗で濡れ、あまりにも過敏なアスラの操縦系に神経を削られたせいで、瞳孔は開き、指先はピアノ線の振動のように細かく震え続けている。


 タラップを降りたカイの前に、軽く興奮をしている様子のアシュラフ大佐が歩み寄った。

 彼は白い手袋を脱ぎ、迷うことなく右手を差し出した。


「素晴らしい! 素晴らしいぞ、カイくん! 期待以上だ」

 大佐の声は、音楽を鑑賞した後のような法悦に満ちていた。

「断言しよう。このアスラをこれほどまで完璧に御せるのは、世界広しといえど君しかいない。光栄に思うがいい、この機体こそは世界最強のシュテルツァーだ。三世代、いや四世代先の未来から現れたシュテルツァーであっても、このアスラの前では木偶(でく)に過ぎないことを私が約束しよう」


 カイは大佐の手を見つめた。

 この男が今朝、医療班をバラックへ送り込み、ミナを清潔なベッドへと移させた。

 同時に、この男が自分に『アスラ』という名の呪いをかけたのだ。


カイは震える右手を伸ばし、大佐の手を握り返した。

 その手には、まだ自分を折らんとした「懐柔」の感覚が残っている。


「これからよろしく頼むよ、カイくん。……いや、訂正しよう。帝国軍技術技研部所属、特務カイ・イサギ少佐」


 大佐の穏やかな、しかし逃げ場のない微笑みがカイを射抜く。

 カイは何も答えなかった。

 背後のコンテナからは、形の異なる帝国軍シュテルツァーが重々しく移動していくのが見えた。

 

 カイは今日、人間であることをやめ、「帝国の少佐」という名の裏切り者になった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る