最後に残る、ぬくもり

実験的ツジハシ

『最後に残る、ぬくもり』

大切な人の顔というものは、月日とともに、おぼろげな陽炎のように透き通っていく。


祖母の穏やかな目尻の皺も、何度もなぞったはずのその面影も、写真という「記録」を見返すうちに、いつの間にかどこかの誰かの顔へと置き換わってしまう。耳の奥に響いていたはずの声も、風が吹くたびに少しずつ削られ、今ではもう、正確に思い出すことは難しい。記憶の景色から、色が抜け、音が消えていく。


それなのに。

手のひらに残った感触だけは、消えない残り火のように、ずっとそこに宿っている。

ふとした瞬間に、それは目覚める。

冬の朝、吐息でかじかんだ指先を温めようとしたとき。

冷たい雨を避けて、無意識に掌を握りしめたとき。

そのたびに、もう二度と会えない人たちが、懐かしい足音を立てて僕のところへ帰ってくる。


祖母の手は、冬の陽だまりで乾いた、古い和紙のような質感をしていた。

少しざらついていて、子どもの僕には少しだけくすぐったい。繋がれるのが照れくさくて、僕はわざと指をすり抜けようとしていた。


「しわしわだね」


僕が小さく呟くと、ぎゅっと握り返した祖母は慈しむような眼差しで笑った。


「生きてる証拠だよ。あんたがどこかで迷わないように、神様がくれた『お守り』なんだよ」


その優しい声の響きは、もう思い出せない。でも、僕の小さな手を包み込んだ、あの穏やかな圧(あつ)だけは、今も肌が覚えている。

それは、どこかへ迷い込んでしまいそうな僕を、静かに、けれど確かにこの世界へ繋ぎ止めてくれる「ぬくもり」だった。

あのざらついたぬくもりこそが、僕にとっての最初の「安心」という場所だったのだ。


対照的に、初恋の人の手は、陶器のようだった。なめらかで、壊れそうなほど柔らかい。

映画のワンシーンのように、強く、頼もしく包まれるものだと信じていた。けれど、勇気を出して初めて触れたその手は、驚くほど細く、そして小さく震えていた。


その瞬間、僕は知ったのだ。

手をつなぐということは、相手の「心」に触れることなのだと。

掌から伝わってきたのは、温もりよりも先に、壊れそうなほどの、愛おしい不安だった。

駅の雑踏に溶けていったさよならの言葉も、揺れていた髪の色も、もう霧の中だ。

それでも、あの時、指先から流れ込んできた震えの残響だけが、今も僕の掌を優しく揺さぶっている。


だから僕は、いつからか誰かと手を繋ぐことが、少しだけ怖くなった。

別れのたび、掌の記憶はいくつもの層になって重なっていく。

忘れたいと思っても、指先はあまりに正直で、去っていった人たちの体温をいつまでも大切に抱え込んでしまうから。


この「ぬくもりの記憶」が増えるたび、僕はまた一つ、失うのが怖くなる。

その臆病さが、僕の掌を、ずっとポケットの中に閉じ込めていた。


そんな僕の前に、その女の子はいた。

駅前のベンチ。赤いマフラーを巻いた小さな肩を震わせて、膝に顔を埋めて泣いている。夕暮れの街を行き交う人々は、その小さな孤独に気づかないふりをして、足早に過ぎ去っていく。


僕もまた、その一人になろうとした。

手を差し伸べればいい。ただ、そうすればいいだけなのに。

ポケットの中で、僕の指先は頑な(かたくな)に閉じられたままだった。

新しいぬくもりを知れば、またいつか、この手を離す痛みに耐えなければならない。

その「いつか」を想像して、足が竦(すく)んでいた。


それでも。

女の子がふと顔を上げ、涙の粒がこぼれる瞳で僕を見つめたとき。

僕の右手に、心の戸惑いを置き去りにして、残り火がともっていた。


「……大丈夫?」


自分でも驚くほど、柔らかな声が出る。

彼女の肩が、小さく震えた。


僕は、ゆっくりとポケットから手を引き抜く。

冷たい風にさらされた指先が、一瞬、頼りなく宙を探る。


それはかつての彼女が僕に預けた、「震え」を持っていた。


女の子は、迷うような心で、それでも確かに僕の指をぎゅっと握りしめた。

その瞬間、僕の中に静かに眠っていた過去の記憶たちが、優しく溶け合っていくのがわかった。ふいに、祖母のあの和紙のような質感が、今の自分の掌に蘇る。

かつて僕をこの世界に繋ぎ止めてくれたあの「ぬくもり」が、今、僕の手を通じて、この子へと手渡されていく。


冷え切った、小さな小さな指先。

でも、その中には、灯火(ともしび)のような命の熱が、確かに宿っている。

ああ、そうか。


人は、いつか訪れる別れの日にも、その人が独りじゃないように、ぬくもりという名の「お守り」を分け合うんだ。


この感触も、いつか彼女の中で、名前も知らない誰かの淡い記憶になるだろう。

それでも、今日ここで分かち合ったぬくもりは、彼女がいつか凍えそうな夜、そっと彼女の心を包み込む「見えないお守り」になるはずだ。


交番へ続く夕景の中、僕の手は、女の子の体温と分け合うようにして、少しずつ暖かさを取り戻していった。


「お兄ちゃん、あったかいね」

「君の手も、あたたかいよ」


何気ない言葉が、冬の空に白く溶けていく。

やがて迎えに来た母親の胸に飛び込む彼女の手を僕は離した。

掌に残った「離れた瞬間の冷たさ」は、これまではただの寂しさだった。

けれど今は、誰かへ何かを届けられたという、静かな充足感に満ちていた。


帰り道、僕はポケットに手を入れなかった。

夜風に吹かれる指先を、慈しむように動かしてみる。

僕の記憶は、すでにあの子の顔を忘れ始めている。だけど、掌にはまだ、あの子が僕に預けてくれた、小さな命の余韻が鮮烈に残っている。


人は一生のうちに、どれほど多くの手を握り、どれほど多くのぬくもりを、誰かの中に残していくのだろう。

それは言葉よりも密やかで、写真よりも色鮮やかに、誰かの心の奥底に降り積もっていく。


いつか自分がいなくなった後も、誰かの指先がふと熱を帯びたなら。

それが、僕がこの世界にいた、何よりの証明になるのかもしれない。


僕は立ち止まり、夜空の下で自分の両手をそっとこすり合わせた。

かつて祖母が言った言葉。


今なら、その本当の優しさがわかる。

それは、鼓動を刻むことだけでなく、誰かの温もりを汲み取り、また誰かへと繋いでいく、大きな流れの中にいるということ。


鼻の奥をくすぐる冷たい空気。

指先をこすり合わせるたび、手に小さな火が灯る。


僕の掌には、もう、たくさんの大切な人たちの記憶が眠っている。

それは僕を縛る重荷ではなく、僕をこの世界に繋ぎ止め、迷わせないための錨。

冬の風に吹かれながら、僕はまた一歩、踏み出す。

ポケットから出したままの手が、夜風に少し冷えるのを感じながら、その掌に、確かなぬくもりを携えて。


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