第2話
くたびれた事務所、くたびれたソファーが、部屋の隅で静かに息をしている。
長年、依頼人と眠気と重力を受け止め続けてきた革張りは、色も艶もとうに擦り切れ、ところどころから白い綿が顔をのぞかせていた。沈みすぎた座面は座る者の腰を容赦なく奪い、立ち上がるときには必ずひとつ、溜息を吸い取っていく。
デスクの上では、写真と請求書が互いの境遇を嘆いている。
写真は黄ばんで波打ち、湿気に負けた角は丸くなっていた。写っているのは笑顔なのか、それとも何かを諦めた顔なのか、もう判別がつかない。隣に積まれた請求書は封も切られぬまま斜めにずり落ち、薄く積もった埃が、この机に最近誰も触れていないことを雄弁に物語っていた。
天井では、サーキュレーター付きのライトが軋みながら回っている。
安物の金属は、長年の湿気とタバコのヤニを吸い込み、鈍くくすんでいた。モーターは機嫌をうかがうように、ときおり回転を早めたり遅らせたりする。
その風は部屋中の紙片をわずかに揺らすだけで、暑さも寒さもほとんど和らげはしない。だが、ないよりはマシだと言わんばかりに、黙々と回り続けていた。
灰皿の縁では、誰にも吸われなかったタバコの灰が、落ちる未来について思案している。
吸いかけのタバコは火を失い、細い灰柱は自分の重さに耐えることを、そろそろ諦めかけていた。
そんな部屋で、暇を持て余した探偵が一人。
俺のことだ。
何も気にすることなく、いつも通り惰眠を貪っていた。まるでこの世の時間すべてが、自分のものだとでも思い込んだように。
今が朝なのか夜なのか、真昼なのか真夜中なのか。
そんな区別はとっくに意味を失い、壁の時計でさえ諦めたように針を止めている。
外のネオンも朝日も、この部屋の薄暗さに吸い込まれ、世界がどんな顔をしているのか、誰にもわからなかった。
俺は靴も脱がず、コートの襟を立てたまま、ソファーに身を沈めている。
夢とも現実ともつかない薄闇の中で、ただ呼吸だけを続けていた。
枕代わりの古いクッションは潰れすぎて、もはや布の塊にしか見えない。
いつの間にか伸びた不精髭。
切れ味の悪いカミソリを無理に使ったせいか、頬や顎には細い切り傷が何本も走っていた。
だが、それらはもう血の匂いも痛みも持たない。
ただの薄い線として、俺の顔に刻まれているだけだ。
いや――これは最近の傷じゃない。
探偵になる前、もっと昔のものかもしれない。
眠る暇もなく“昔の仕事”を走り続けていた頃。
あるいは、何かを失い、それでも自分の人生に意味を見出そうともがいていた時代の名残。
それらの傷は、俺が何をして、何を諦め、どんな夜を越えてきたのかを語りかけてくる。
だが俺は気にすることもなく、静かに寝息を立てていた。
――そのときだ。
ドン、ドン、ドン、ドン。
ドアを叩く音が、死んだような事務所の空気を震わせた。
古い木製風の扉が軋み、壁に立てかけていた古新聞がぱらりと床に落ちる。
強すぎず、弱すぎず。
だが、明らかに急いでいる人間のリズムだった。
「チャイムはとっくに壊れてる。こうするしか、俺を呼ぶ方法はねぇってわけだ」
ソファーに沈み込んだまま、片眉を上げて呟く。
眠気の膜はまだ剥がれきらず、視界の端がぼやけていた。天井で軋むライトの音が、頭の奥で溶け合い、やけに遠い世界の出来事のように聞こえる。
少しだけ身体を起こし、部屋を見渡す。
散らかった写真、黄ばんだ請求書、湿気を吸った書類の山。
どれも「動くな」と囁いてくるようで、見ただけでまた横になりたくなる。
「ドアには電子ロックをかけてある。この商売じゃ、恨みを買うのは水道代より安いからな」
そう言いながら腰を押し上げるが、動きはひどく鈍い。
事務所の空気には、夜とも朝ともつかない冷たさが漂い、タバコの残り香だけが時間の経過を主張していた。
「お願いしたいことがあるんです!」
ドア越しに聞こえたのは、女の声だった。
かすれて弱々しいが、切迫した震えだけははっきりと伝わってくる。寒さか、恐怖か。声の端が細かく揺れていた。
「……女の声、か。必死だな」
眠気が、ほんの少しだけ引く。
脳の奥で、古い警戒心が目を覚ました。
俺は夢と現実の境が曖昧なまま、モニターの前へ歩み寄る。
床に散らばった空き瓶を踏みそうになりながら、点滅する画面の青白い光が、俺の顔に影を落とした。
「一人で来たのかい、お嬢さん」
画面を叩いてノイズを払う。
「最新型じゃない。赤外線センサーも、死んだ魚みたいなもんだ」
モニターは砂嵐を走らせながら、外の冷たさまで伝えてきそうな顔をしている。
横には、俺が蹴飛ばした跡が残っていた。
「解体屋の裏に転がってた代物だ。蹴ったら運よく点いた」
鼻で笑う。
「人生なんて、案外そんなもんさ」
思わぬ場所で拾い物をするのは、何かを必死で求めた人間の特権だ。
そんな経験則が、背中に重く張りついている。
画面の向こうで、女が肩をすくめていた。
コートの襟を握る両手は赤く、指先がかすかに震えている。
「……一人だな。相当、冷えてる」
そう呟いた瞬間、事務所の隙間風が足元を撫でた。
まるで外の寒さが、じわじわと侵食してくるようだった。
小さく溜息をつく。
面倒だ。
だが、放り出せない。
「外は寒いでしょう。中へどうぞ」
俺はゆっくり立ち上がり、ロックを解除しに向かう。
一歩踏み出すたび、床の書類がさらりと音を立てた。邪魔にならない程度に足で寄せ、隅へ追いやる。
背後で、サーキュレーターがまだ、のろのろと回っている。
その軋む音が、なぜか自分の鼓動と重なって聞こえた。
――このときの俺は、まだ知らなかった。
ドアの向こうに立つ女が、あの大事件へと繋がる、最初のピースだということを。
足元に落ちた影が、わずかに長く伸びた気がした。
それはこれから始まる混沌の旅路を、静かに暗示しているかのようだった。
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