「雪」(1話完結・短編)
ナカメグミ
「雪」(1話完結・短編)
細かい雪が、強く横なぐりに降る。冬。雪。寒さ。北の地の避けられない現実。
1年間の3分の1弱。地面を覆う白。それにしても今晩のこれは、ひどい。
バスターミナルの天井から吊り下げられた、乗車口案内の看板が風で揺れる。
強度は大丈夫なのか。見上げながら、心配する。
デジタルの時刻表示を見る。バスも遅延気味だ。ターミナルの建物の中には、遅れたバスを待つ困惑気味の人たちが座る。
****
午後6時過ぎ。乗るバスの発車時刻が迫った。列に並ぶ。
いつも先頭に並ぶ、母親らしき女性。その傍らに4、5歳の男児。
母親。スーツ姿にトレンチコート。肩に黒のトートバッグ。おそらくキャリア女性。年齢は30代半ばほどか。
男児。母親のまわりを歩き回る。母親を絶えず見上げる。話をしたそう。
母親。スマホから目を離さない。
バスが来た。乗る。母親。左列の前方。スマホを操作している。
通路を挟んで右列の、最前席に男児が1人。その後ろに私。単に荷物が置きやすい席だからだ。男児、吹雪で白い窓の外を見ている。
「坊や。おばちゃん、今、暇だから。あなたの話、ききたいな。
今日、幼稚園で、なにした?」
窓の外を見る小さな頭に、話しかけたい誘惑。ぐっとこらえる。
今、これをしてしまったら、不審者として通報案件だ。
映画「ジョーカー」の主人公。バスの中で、前の席に座って振り向いた男児を、滑稽な顔をして笑わせようとする。だがその母親に、咎められていた。
ただ今、目の前にいる自分より弱き者を、自分の力で笑顔にしてあげたい。
私は主人公の気持ちがわかる。ような気がする。
****
バスが自宅近くのバス停に着いた。小銭を支払い口に入れる。
ノートパソコンとモバイルWi-Fiが入ったリュックを背に、野菜や肉、魚、酒が入ったエコバッグを左肩に持つ。昔は軽々と持てた重さ。今はずしりと肩にこたえる。
バス停横の、ガードレールのポールの上。赤い毛糸の帽子が、かけられていた。
白く細かい雪で、半分覆われている。きっと落とし物。通りかかった方が、持ち主が見つけやすいように、かけてくれたのだろう。
小さい。おそらく幼児のもの。昔、子供の1人がかぶっていたものと似ていた。
耐え難い誘惑。白菜がのぞくエコバッグの1番上に、載せた。
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玄関灯が点いていない。雪あかりを頼りに、自宅の鍵を開ける。
だれもいない暗闇。かつてここで、死を意識した。
向こう側へ行こうとすることは、行けなかった場合、自分の中に、そして家族の中に、途方もないトラウマを残すことと同義だった。
昨年の夏。視野が狭くなっていた私は、その事実に気がつかなかった。
半年を経ても、じわじわと浸透してくる毒のように、あの夏の光景が蘇る。
未だに救急車のサイレンが怖い。向き合わなければいけない己の愚かさ、浅はかさ。そして罪悪感。
暖房をつける。暖かな空気が部屋を満たしていく。台所に立つ。冷蔵庫を開ける。買ってきたものを入れる。
エコバッグの上の帽子。赤い。頭頂部にぼんぼりつき。やはり幼児のもの。毛糸に、細く短い髪の毛がついている。男の子のものか?
ついた雪が解けて、濡れたそれ。タオルでざっと拭う。洗濯物干しスタンドの隅に、かける。スタンドを暖房の近くに移して、乾かす。
夫が帰ってきた。夕飯を一緒に食べる。ニュースを見る。寝る。
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翌朝。雪が20センチ近く積もっていた。ダウンを着て手袋をはく。防寒靴を履く。
玄関のドアを開ける。玄関灯の横。いつも立てかけてある、雪かき用のスコップを手に取る。振り向いた。道路に面した右前方の雪山の横。男の子が立っていた。
グレーのスキーウェアを着ている。つなぎだ。赤い手袋。茶色い帽子。頭のてっぺんに毛糸のぼんぼり。帽子は耳を覆い隠し、あごの下で紐を結ぶタイプのものだ。
足元は小さな防寒靴。雪が靴の中に入らないように、青いスノーカバーをつけている。
「迷子?。お父さんや、お母さんは?」
何も言わない。無垢な2つの目。こちらをじっと見る。
真っ赤なほっぺ。微笑みかけた。するとわずかに微笑んだ。
家の中に入れた。
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彼の帽子の雪を、玄関先に常に置くタオルではらう。スキーウェアを脱がせる。
手袋は、脱げても落とさないように、右と左が紐で繋がれていた。
スキーウェアをハンガーにかける。
「寒いね」。
暖房の風がよく当たる黒いソファに座らせた。車の絵がついたグレーのトレーナー。紺色のズボン。靴下には、機関車トーマスの模様。小さな靴下。
ソファに深く座ると、足が伸びて床につかない。かつてよく見た、懐かしい光景。
ソファに置くセント・バーナードのぬいぐるみが気に入ったようだ。
小さな両手で抱き上げている。
彼の正面にかがむ。澄んだ両の目。小さな鼻。小さな口。
真っ赤な頬を両手で包んだ。やわらかく、冷たい。しばし、その頬をあたためる。
耳たぶ、わずかに赤い。その柔らかな耳たぶも、3本の指で包んであたためる。
彼の両の手を重ね合わせ、私の手で包んで、こすり合わせてあたためる。
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台所に行く。ガスレンジでお湯を沸かす。ミルクココアがあったはずだ。
白いカップに粉を入れ、お湯を注ぐ。たちまち部屋を満たす、甘ったるい香り。
かつて私の子供たちも、ミルクココアが好きだった。飲みやすい温度になるまで、しばし冷ます。
黒テーブルに持っていく。ビスケットがあった。3、4歳ならば、食べられるだろう。白い皿に、4枚出す。チョコレート味。そのぷっくりした両の指で持って、食べる。ひざの上に、こぼす。拭く。
わずかに茶色味を帯びた髪。そっと手ですく。小さな頭。
たわむれに、昨日、ガードレールから持ってきた赤い帽子を手に取る。乾いている。
そっと頭に被せてみた。
「似合うね」。
部屋の暖かさで、わずかに頬が紅潮した白い顔。小さな頭をすっぽりと覆うその帽子は、その子にとてもよく似合った。小さな両手でカップを持つ。ココアを飲む。
適温だったようだ。一口、一口、美味しそうに飲む。わずかに立つ湯気。幸せ。
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第1子は独立した。第2子は忙しい。夫と私。実質、この家で過ごすのは2人。
今、この家や家の周りで、2人の幼な子が走り回っていた時が、たまらなく懐かしい。
冬の山。雪をかくと玄関前に、小山ができた。子供らはその小山を、スキーウェアの尻で玄関側に滑って遊んだ。
赤と黄色の小さなバケツ。スコップで雪をパンパンに詰めて、玄関前の床にひっくり返す。「ケーキ」。そう呼んで、たくさん作った。並べた。
郵便受けの前だったから、新聞配達の方はさぞ、新聞を入れにくかったことだろう。
****
「さんぽ」。
初めてその子が口をきいた。
「行きたいの?」
うなずく。ベランダの外をみやる。明るめの曇り空。雪はやんだようだ。
手袋のひもをスキーウェアの袖に通す。肩に手を掴ませ、両足を入れさせる。着せる。赤い帽子を、その小さな頭にかぶせる。靴を履かせる。スノーカバーをつける。
玄関のドアを開けた。
****
小さな手袋の手を引く。ゆっくり、ゆっくりと。
スキーウェアを着た幼児の足は短い。一歩、一歩、足を運ぶ。家の前の坂を下る。除雪車が入った車道は滑りやすい。転んだ。両脇に手を入れて、立たせる。雪をはらう。小さな頬を、手袋の上からつつく。笑った。
坂の下。小さな公園がある。雪の今。遊具はすべて、使えない。公園の先の林。木々に雪がついて、枝も幹も白く染まる。しゃがむ。上を指差す。
「見て」
無垢な目が、頭を上げて木々を見つめた。その黒目に映る美しい木々。
涙がこみあげてきた。
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かつて私の体からは、泉のように無尽蔵に、力が湧き出てきた。
いざとなれば、私の力は出てくる。その自信があった。
今。その自信はひとかけらもない。生きる気力すらも。
右手で1人の子供の手を引く。抱っこひもで、胸に幼い方の子をぶら下げる。左の肩に荷物をかける。バスに乗る。歩く。何気ない日常。子らの命の安全だけを最優先に、送れた日々。
「過ぎれば懐かしい」。そんな、なま易しい言葉だけでは済まなかった現実。
2度と戻れない日々。
****
昨年の夏。しくじった、あのとき。私にはまだ、怒りの感情があった。
「空の巣症候群」。ある人に言われた。
冗談じゃない。私が子育てにかけた熱量は、そんな言葉で片付けられるような半端なものじゃない。
今、赤子を見ても、幼な子を見ても、ランドセルを背負う子供を見ても。
涙が出る。
死を考えたあと、生きる原動力となった怒りの感情が、確実に失われつつある。
自分の中の、その底なしの「無」こそが今、おそろしい。
****
雪の坂道を、ゆっくりと登って帰る。小さな歩幅。必死な歩幅。
合わせて歩く幸せ。
家の前に着いた。鍵を開ける。振り向いた。いなかった。いっちゃったか。
家の中。黒いソファの上。茶色い帽子が残っていた。そのにおいを嗅ぐ。
わずかな汗のにおい。かつて、我が子の頭からもした、ひなたのようなにおい。
胸いっぱいに、においを嗅ぐ。記憶する。幼な子の汗のにおい。
いつかは失われてしまう、汗のにおい。
リビングに漂う甘いにおい。白いカップ。わずかに残る、茶色い液体。食べかけのチョコレートビスケット。
****
外に出る。雪かきに戻る。スコップの木の柄を握る。赤の四角いプラスチックで、雪をかく。はねる。
上の子。ごめんね。甘えさせてあげられなくて。
下の子。ごめんね。
神なんて信じていない。空に願う。あと1年。下の子が成人するまで。私に力を。
さっきの男の子に願う。私のように、からっぽの人のところに、行ってあげて。
雪かきを続ける。雪が見えない。メガネが曇る。
(了)
「雪」(1話完結・短編) ナカメグミ @megu1113
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