ひと夏の風

@DESAIR

本編

「大学一年生の夏休み。

僕はお金が無くて親の元まで帰れず仕方なく、祖父母の古い家に転がり込んだ。

2週間だけ、と自分に言い聞かせて。


田舎の空気は濃くて重く、

草いきれが肌にまとわりつく。


2週間とはいったものの田舎ですることはなく、スマホをいじって時間を潰すだけだった。

部屋は扇風機の風が弱々しく回るだけで、じわじわと熱気がこもる。


「なぁ、クーラーつけようよ」


祖母は台所から顔を出し、笑いながら首を振った。

「真昼間からつけるかいな。若いんだから家にこもってないで、川でもいって涼んできんしゃい。昔はよく遊んでおったろう」


「ガキやないんだから」


と口では言い返したけど、やる事は何もない。

仕方なく、外へ出ることにした。


周りは緑だらけで、

蝉の声がうるさく鳴り響く。


途中で、木の幹にでかい虫が止まってるのを見て、

「キモい……」

と顔をしかめた。

東京じゃこんなデカい虫、見ないのに。


田舎って、虫だらけやんか。

僕は虫が苦手で、

袖を払いながら歩いた。


川に近づくにつれ、

空気がひんやり変わる。

水音が聞こえてきた。


川は昔と変わらず、

浅い流れが陽光を弾いてキラキラと眩しかった。

僕は石を拾い、なんとなく水切りをする。

ぴょん、ぴょん、ぴょん……七回跳ねた。

「僕は変わったな、最高記録だ」

と小さく呟いた瞬間、


背後から、ひんやりとした風と一緒に声が降ってきた。


「うまいね、それ」


振り返ると木陰に白いワンピースの女の子が立っていた。

ショートヘアで、麦わら帽子のつばが少し傾いていて、

その隙間から覗く瞳が、夏の光を全部吸い込んでるみたいに澄んでいた。


「……見ない顔だね」


僕は少しドギマギしながら答えた。

「祖父母の家に居候しててさ。2週間だけ」


女の子は小さく笑って、

「私、ひかる。この村に住んでる」

とだけ言って、

「大学生?」

と訊いた。


「大学一年生。東京の大学。」


「ふーん……私、大学行ってないの。

 2年生の年なんだけどね」


言い方が妙に遠くを眺めるようで、

でもすぐに笑顔に戻った。


「しんぺい、よろしくね」


それから僕たちはどうでもいい話でなぜか途切れずに笑い続けた。

最後は水切り対決。


ひかるは軽く振りかぶって、

石が水面を八回跳ねた。

僕は完敗。


「明日も来る?」


僕が訊くと、

ひかるは麦わら帽子をちょっと押さえて、

小さく、でも確かに頷いた。


「ここなら、会えるよ」


ひかると別れたあと。

 川を離れて歩きながら、今日あった出来事が頭の中で何度も再生された。

 来たくもない村で、渋々向かった川で、あんな不思議で綺麗な子に出会って、

 気づけばずいぶん長く遊んでいた。


 家に戻ると、玄関の引き戸がきしり、

 夕飯の匂いと一緒におばあちゃんの声が迎えてくれた。


「随分と長く遊んでたんやのぅ。

 あんた、川なんて渋々行ったくせに」


「……まぁ、ちょっとね」


 嘘ではない。

 ただ、ちょっとどころじゃなかった。


 食卓につくと、おじいちゃんが湯呑みを置きながら言う。


「ほう。ここの村の子と会って一緒に遊んだんかい?」


「うん。ひかるって子」


 すると、おじいちゃんは眉をひそめた。


「ひかる?

 知らんなぁ。この村の子供は全員知っとると思ってたが」


 おばあちゃんが横から笑って肩をすくめた。


「おじいちゃんももう歳ですから。

 忘れてるだけですよ」


「いやいや、ワシはそんなにボケとらんぞ」


 二人のやり取りはいつも通りの温かさがあったが、

 僕はその会話の半分ほどしか耳に入らず心はもう明日の川辺に向かっていた。


翌朝。

 目が覚めて最初に思ったのは、**「いつ川に行けばいいんだっけ」**ということだった。

 連絡先が無いというのは、こんなにも不便で、こんなにも落ち着かないものなのか。

 ひかるが今日も来ると信じているのに、それを確かめる手段がない。


 とりあえず午前中はスマホをいじり、ごまかすようにゲームを進めた。

 だけど集中できず、主人公のHPが削られるたびに自分の落ち着きのなさを見せつけられているようで、ため息ばかりが出る。


 昼は昨日と同じ時間に食べた。

 昨日のあの時間に川に向かった。

 今日も同じ時間に行けば、会えるような気がした。


 川へ向かう足取りは、昨日とは違って驚くほど軽かった。

 セミの鳴き声も、道を横切る虫も、もう気にならない。

 ただ、ひかるに会えるかどうか――その一点だけが頭の中で脈打っていた。


 だが、川に着いても、ひかるの姿はない。


 少し肩が落ちる。

 風がゆっくり流れて、水面が揺れた。


 仕方ない。待とう。

 水切りでもしながら。


 川辺にしゃがみ、平たい石を探して指先で感触を確かめていると――


「――また会えたね」


 唐突に背後から声がして、心臓が跳ね上がった。

 振り向くと、昨日と同じ白いワンピース。


「うわっ、びっくりした。足音しなかったぞ」


「体軽いから、かな。ふふっ」


 冗談めかすように笑うひかる。

 その笑顔を見て、胸の奥の張りつめていたものが少しゆるむ。


 勢いに任せて、いきなり言ってしまう。


「連絡先、交換しない?」


 ひかるは少し驚いたように目を丸くした後、困ったように微笑んだ。


「携帯持ってないの。田舎では使わないものだから、ね」


「え……でも」


「またここで会えるよ。ちゃんと来るから」


 その「大丈夫」という笑顔がやけに綺麗で、逆に不安になった。


 もっと一緒にいて話したい。

 もっと知りたい。

 そんな気持ちが溢れ、勇気を振り絞って言う。


「海……とか、行けたらいいのにな。遠出とか」


 ひかるは視線を少し伏せて、申し訳なさそうに笑う。


「厳しい家なの。あまり遠くへ行っちゃいけないって言われててね。ごめん」


 その瞬間、肩がわずかに落ちる。

 行けない理由を説明する彼女の声音が、どこか現実味がなかった。


「ねぇ、東京の話もっと聞かせてよ」


 そう言って川辺に腰を下ろしたひかるに誘われ、

 自分の住んでいる場所、街の喧騒、深夜のコンビニ、電車の音、

 全部、あふれるままに話した。


 ひかるは目を丸くしたり、ふっと笑ったり、驚いたり、

 その反応がいちいち愛おしい。


 太陽が傾いてきた頃、ひかるがこちらを見る。


「また……明日も来てくれる?」


 聞くまでもないのに、でも聞きたかったような声音だった。


「もちろん。来るよ」


 そう答えると、ひかるは安心したように小さく微笑んだ。


 今日もまた、風が川面を撫でていった。


3日目

 

今日は僕が着くより先に、ひかるはもうそこに立っていた。

 白いワンピースの裾が風に揺れて、いつもより少し大人びて見える。

「ごめん、待たせた?」

 そう聞くと、ひかるはふるふると首を振って、いつもの笑みを浮かべた。

「全然。私が早く来ちゃっただけだから」


 なんだか恋人みたいなやり取りで、胸が少し弾んだ。

 ふと見ると、今日もワンピースだ。

「あれ?またワンピース?」

 言った瞬間、しまったと思った。デリカシーなかった。

 けどひかるは笑って、少し恥ずかしそうに言った。

「うん。これ気に入ってて……同じの、何着か持ってるの」


 その答えが可愛くて、安心して、また心が近づいた気がした。


 今日もたくさん話をした。

 僕の東京の話なんて飽きてもおかしくないのに、ひかるは毎回ちゃんとリアクションして笑ってくれる。

 2、3本は映画が見られるくらいの時間を一緒に過ごし、気づいたら夕方になっていた。

 そんな一瞬みたいな数時間だった。


 帰る時間が近づくと、胸の奥が急にざわついた。

 このままひかるが消えてしまいそうで、言葉じゃどうにもできなくて。

 でも衝動だけは抑えられなかった。


「ひかる、ハイチーズ」


 そう言って、スマホを向けてシャッターを切った。

 この瞬間を残しておきたかった。


「ちょっ……急に撮らないでよ」


 画面を見ると、ひかるがぼやけていた。

 まるで本当に消えてしまうみたいに、輪郭が曖昧だった。


「虫がいたから動いちゃった。……もう一回、ちゃんと撮ろ?」


 ひかるが言って、もう一度寄り添う。

 今度の写真では、二人ともはっきり写っていた。

 自分がこんな笑顔になるんだって驚くほどで、

 その一枚は、胸の奥にそっとしまえるような宝物になった。


 不思議と、お別れの寂しさも少し薄れた。

 歩き出そうとしたとき、僕が言おうとした言葉を、ひかるが先に言った。


「また明日も、来てくれる?」


 夕焼けの光の中で、その声はやさしく溶けていった。


4日目


 今日は朝から雨が降っていた。

 ぽつぽつと規則的な音が窓ガラスを叩き、

 そのたびに胸の奥まで湿っていくような気がした。


「今日は川は止めておきなさい。

 ぬかるんで危ないじゃろ」


 祖母がそう言うと、

 僕の心はどんどん曇っていった。


 ――ひかるに会えないかもしれない。


 でも午後、雨が止んだ。

 空はまだ灰色で、地面は濡れているのに、

 家の中にじっとしていられなかった。


 すぐに外へ出た。

 川へ向かって歩く間ずっと胸が高鳴っていた。


 川に着くと、ひかるはすでにそこにいた。


「遅いよ、しんぺー」


「ごめんごめん笑」


雨が上がってすぐ来たのになひかるはもうここにいた。家が近いんだろうか。


「今日来ないかと思ったよ」


 その一言だけで、胸を掴まれたように苦しくなった。


そしていつもの雑談。


いつもの、何てことのない時間。

でも、その“当たり前”がどこか心地よかった。


「本当だって、こんなに大きい魚いてさ」

「絶対嘘だよそれ〜」

「ほんとほんと。こんくらいだったかも」


手を広げて見せた瞬間、

僕の指先がひかるの手に触れた。


「あ、ごめん。ひかる手、冷たいね」


「冷え性なんだよね。今日は天気悪かったし」


確かに夏なのに天気が悪いと川の近くは寒いくらい。


知らないことばかりだ。


そんな時、大きな虫が突然飛んできて、

僕は情けなく後ずさった。


「うわっ!ちょ、無理!」


ひかるは声を上げて笑う。


「ビビりすぎだって〜。しんぺいって本当にビビり笑

 2日目のときも声かけたら、びくっってしてたよ?」


「ちが……虫が嫌いなだけ!ひかるは平気なの?」


「私は平気だよ。虫、あんまり寄ってこないしね」


そのとき、ぽつ、ぽつ、と

雨粒がまた落ちてきた。


「今日はもう帰ろっか」


「うん。また明日ね」


当たり前みたいに言うその言葉が、

胸の奥をじんわりと温かくした。


明日も会える。

それだけで歩く足取りが少し軽かった。


5日目


今日は午前中、祖父母と村で唯一のスーパーへ買い物に出かけた。


“ひかるいないかな”

そんな期待が自然と湧いて、店内を見回したけれど姿はなかった。

でも、花柄の綺麗な髪飾りが目に留まった。

——ひかるに似合いそう。

気づけば手に取っていた。


昨日はあまり話せなかったから、どうしても会いたくて、

スーパーの帰りにコンビニや駄菓子屋までふらふらと寄り道して探したけど、それでも会えなかった。


昼飯を済ませ、いつもの時間に川へ向かう。

4日間も続けて会えたのに、今日は会えないんじゃないかって、

理由もなく不安が胸に居座っていた。


「しんぺー」


その声が聞こえた瞬間、胸の奥の不安が全部ほどけた。

ひかるは変わらない笑顔でそこに立っていた。


午前中に巡った場所の話をすると、ひかるは東京の話を聞くときと同じように楽しそうに耳を傾けてくれた。


「ひかるも行くでしょ?スーパーとかさ」


「まあね。でもさ、しんぺいが私の村を見て話してくれるの嬉しいの。

まさか駄菓子屋まで行くとは思わんかったけど。子ども〜」


「うるさいな、一個しか変わらんやん」


「なんか五つ下くらいに見えるけどね、しんぺいは」


「からかうなよ〜。あ、そうだ、これ」


スーパーで見つけた髪飾りを渡すと、

ひかるは目を丸くして、それからふわっと笑った。


「…嬉しい。ありがとう」


本当に嬉しそうで、目の端が少し潤んでいた。

渡してよかった、と心から思った。


「また明日ね」


それはもう、自然に口から出る言葉になっていた。


6日目

川に着くと、

ひかるは昨日僕があげた髪飾りをつけていた。


光の反射で花のモチーフがきらっと揺れる。

予想通り似合う。

いや、何をつけても可愛いのかもしれない。


「しんぺー、写真撮ってよ」


「え、いや……僕、写真撮るの下手だし」


そう口では言ったけど、胸の奥が一瞬だけ痛んだ。


──写真家を目指していた頃のこと。

“売れる写真”“映える写真”ばかり意識して、

いつの間にか「好き」で始めたはずの写真が苦しくなった。

カメラを構えるたびに、

何かに試されている気がしてシャッターが重くなって諦めたんだった。



「なにそれ」

ひかるが笑った。

川の音に紛れても、よく通る声。


「写真はね、好きが映るかどうかだよ」


一瞬、心が止まった。

ひかるの言葉はいつも、

核心だけを優しく突いてくる。


「……好き、か」


ゆっくり息を吸って、スマホを構える。

画面越しのひかるは、

ちょっと恥ずかしそうに笑っていて、

その表情に僕の指が自然と動いた。


画面を確認して、思わず息が漏れた。


「……上手く撮れた」


「でしょ?」


「いや……被写体が良いだけかもしれないけど」


「そうかもね」

ひかるがふっと笑った。

その横顔が、写真以上に胸に焼きついた。


7日目


たくさん話して、たくさん写真を撮った。

僕たちの距離は、もう「夏だけの知り合い」じゃなくなっていた。


「今日はあっついな。川、入ろうぜ」


「い、いや……私は」


ためらうひかるの手首を軽くつかんで、水面へと引き寄せる。


「つめたー! ほら、きなよ!」


「……そうね、もう。しょうがないんだから」


足元から冷えが駆け上がり、ふたりの笑い声が川面に散った。

水切りを競ったり、背中に水を掛け合ったり。

ただそれだけなのに、胸の奥に溜まっていた東京での澱のようなものが、

透明な川の流れに洗い流されていく気がした。


――これが、青春なのかもしれない。


そう思った瞬間だった。


「……っ、は……っ」


ひかるの呼吸がおかしい。肩が大きく上下し、目が泳いでいる。


「ひかる!? おい、大丈夫か!」


反射的に抱え上げて、川辺へ運び出す。

細い体が驚くほど軽くて、逆にそれが不安を煽った。


「……ごめんね。昔のトラウマで……でも、もう大丈夫」


「ひかる、すげぇ軽いな」


「ん、スタイル良いからね。ふふ」


いつものひかるの笑顔が戻って、ようやく息がつけた。


そのあとは、川から上がって他愛ない話をした。

湿った髪を指先でいじりながら、ひかるはふっと笑う。


「それじゃ、またね」


「ああ」


軽く手を振って別れた

8日目


今日はひかるより先に川へ着いた。

どうせまた、足音も立てず急に現れる。

そう思っていた。


けれど、川の水面はいつもより静かで、

その静けさがどこか不穏に思えた。


そして、いつまで経ってもひかるは来なかった。


胸の奥に、小さな棘みたいな不安が刺さる。

連絡先なんて交換していない。

そもそも、ひかるは携帯を持っていない。

だから僕にできるのは “待つ” ことだけだった。


川風がいつもより少し生ぬるい。

その風に吹かれながら、昨日、過呼吸になったひかるの肩の震えを思い出す。


――大丈夫、って言ってたよな。


笑っていたはずなのに、どこか泣きそうで。

あれが、僕の知らない“ひかるの奥”だったのかもしれない。


気づけば川辺には、僕の影だけが長く伸びていた。

昨日までの七日間が、まるで幻だったかのように、静かに水の底へ沈んでいく。

9日目


今日は朝から、村中を探し回った。

ひかるは遠くまで行かない。

だったら──全部回れば、必ずどこかで会えるはずだ。


スーパー、コンビニ、駄菓子屋……

全部探した。

どこにもいない。


駄菓子屋のおじいちゃんに尋ねても、

「そんな子は来とらんよ」

と首を振られた。


胸の奥が、きゅっと縮まった。

焦りが汗に混ざって、呼吸が浅くなる。


無我夢中で探し続けていたら、

いつもの時間になっていた。

昼飯なんて食べていなかった。

気づけば足は、川へ向かっていた。


川は静かだった。

水音だけが、やけに遠く聞こえた。


案の定、ひかるは来なかった。


(怒らせたのかな……)

無理に川へ引き入れたのが悪かった?

それとも──また過呼吸みたいになって、どこかで倒れている?


嫌な想像ばかりが浮かんでは消える。


風がひとつ、僕の頬を撫でた。

その感触にさえ、不吉な予感が混じる。


今日ひかるが来なかっただけなのに、

胸の奥では、

「もう会えない」

そんな最悪の未来が、静かに形を作り始めていた。


10日目


昨夜はほとんど眠れなかった。

気づけば外は白み始めていて、そのまま布団を蹴って家を出た。


今日も、まずは村中を歩いた。

昨日探した場所をもう一度。

何も変わっていないはずなのに、

ひかるが突然現れそうな気がして。


でも、結局どこにもいなかった。


足が勝手に川へ向かう。

昨日と同じ時間、同じ風、同じ胸のざわつき。


(今日もいないんじゃないか)

そんな弱気が、歩くたびに膨らんでいく。


川に着いた瞬間、

胸がぎゅっとしぼんだ。


やっぱり、いない——。


そう思って視線を落としたとき。


「しんぺー」


ふっと、風みたいに声がした。


顔を上げると、そこにひかるがいた。

いつもと同じ笑顔で、

まるで何事もなかったかのように。


心臓が跳ねた。

安心と戸惑いが同時に押し寄せて、

しばらく言葉が出なかった。


「……来なかったから、心配した」


そう言うと、

ひかるはほんの少しだけ視線をそらした。


「ごめんね。家の用事で、ね? 笑」


自然に聞こえるのに、

どこか“触れちゃいけない場所”を隠しているように見えた。


それでも、ひかるが目の前にいるだけで十分だった。


僕らはいつものように川辺で話した。

距離は近いのに、

何かひとつだけ届かないものがぼんやり残ったまま。


「もう夏も終わるね」


ひかるが小さく言った。


「まだまだ暑いけどな」


そう返すと、ひかるは少し微笑んだ。


「明日と明後日、花火大会があるんだ。

 明日は向こうの村、明後日はこの村で」


「どっちも行こうよ!」


「明日のはここからでも見えるから、ここで見よ?」


「そっか……」


「明後日の、この村の花火は一緒に見に行こ?」


「うん!」


「じゃあ、明日は花火の時間に集合ね?」


「分かったよ」


「また明日ね」


その一言で、

胸の奥に残っていた不安がすこしだけ溶けた。

11日目


この日は花火の時間に待ち合わせた。

夕焼けが川面をゆっくり染めていて、眩しいほどだった。


「しんぺー」


夕焼けが沈むと、代わりにひかるが現れた。


「もうすぐ始まるよ」


川は静かで、遠くの花火の“音”だけが先に届く。


ビル街の奥がぽうっと明るくなった。


「あれ? あの光ってるのが花火か

あちゃー、あのビル街で見えないや」


「去年は見えたのにぃ……」


ひかるの悲しそうな顔を見たら慌てて口走る


「明日のこの村の花火はちゃんと見れるからさ!」


「……そうだよね!」


ひかるはぱっと笑った。

その笑顔で、僕も救われた気がした。


「明日は浴衣で来てくれない?」


「え、それは……うーん。できたらね、笑」


ひかるは少し照れたように視線を落とし、


「じゃあ、また明日」


家に帰ると、祖母が夜ご飯の準備をして待っていてくれた。

味噌汁の湯気がふわっと立ちのぼり、外の空気で冷えた身体が少しだけゆるむ。


祖母

「花火は見れたかい?」


「いや、ビル街のせいで全然。去年は見えたって話だけどね」


祖父が新聞を畳みながら顔を上げる。


祖父

「ビル街? あれは……そうだな、五、六年前から建ち始めてただろうに」


「え、そんな前なんだ?」


軽い驚きはあったけど、

明日のひかるとの約束で胸がいっぱいで、深く考える気にはならなかった。


夕飯をすませ、風呂に入り、布団に潜り込む。

なのに、まぶたの裏にひかるの笑顔が何度も浮かんで、

眠りはずるずる遠ざかっていった。


12日目


花火大会当日。

川沿いには屋台の明かりが揺れて、浴衣の人たちが行き交っていた。


「しんぺい、お待たせ」


ひかるは薄い水色の浴衣だった。

プレゼントした花柄の髪留めにまとめられた髪が揺れうっすら光に照らされた横顔が、なんだかいつもより大人に見えた。


「似合ってるね、その浴衣」


「ほんと? ありがとう…」


少し俯き気味に笑うひかる。

胸の奥がざわっとした。


花火が上がり始める。

夜空に色が広がるたび、ひかるは小さく肩を震わせていた。


最後は豪華な連発で締められた。


僕はひかるに想いを伝えた。


「ひかる好きだ。

…僕と付き合ってほしい。」


ひかるは驚いたあと袖で目元をぬぐった。


「ごめんね。ほんとに、ごめん」


「え、」


「気持ちは嬉しい。すごく嬉しいでも付き合えないの」

ひかるの目から涙が溢れる


「そ、そうかそうだよね……でもさ。

明日、東京に帰るんだ。

だから、明日の朝……もう一回だけ、会いたい」


「分かった。また明日ね」


浴衣の裾が揺れながら、

ひかるはゆっくりと人混みの中に消えていった。


残された夜空には、煙だけが漂っていた。

13日目


ここへ来て、ちょうど二週間。

ひかると会えるのも今日が最後だ。

なんなら、おばあちゃんの朝ごはんもこれが最後かもしれない。

味噌汁の湯気すら名残惜しい。


祖母がぽつりと言った。


「花火大会で思い出したんじゃけどねぇ。

 五年前の花火大会の前日、あの川で事故があってね。

 女の子がひとり亡くなったんよ。そのせいで花火大会は中止になってねぇ」


「へぇ…そんなことあったんや」


他人事みたいに返したけど、

胸の奥がざわついた。


祖父が静かに続ける。


「その子、たしか“ひかる”って名前じゃったはずや」


「え?」


祖母が古い新聞を持ってきた。

大きな見出し、“花火大会中止”。

そして、写真付きの記事。


林田ひかる(当時20歳)

川での事故により死亡


ひかる?


手が震えた。

活字が滲む。

写真の子の面影は…あの笑顔に、似ている。


「……嘘だ」


僕は新聞を置き、家を飛び出した。


走りながら何度も頭を振る。


嘘だ。

そんなはずない。

昨日まで一緒にいたじゃないか。

笑ってた。話した。触れた。


川に着くと叫んだ。


「ひかる!!」


返事はなかった。

いつもの足音も、風のような声も。


でもまだ来てないだけだ、と自分に言い聞かせる。

心臓が痛いほど脈打つ。


「ひかるが…五年前に亡くなったなんて、そんなの…!」


ひかるのおかげで、写真を撮る楽しさを知った。

お気に入りのワンピースも、花柄の髪飾りも、笑顔も。

僕の全部にひかるは写っていた。


——そう思っていた。


震える指で写真を開く。


そこにあったのは、

全部、ただの風景だった。


ひかるの笑顔はどこにもなかった。


足の力が抜け、膝から崩れ落ちた。

視界が揺れる。


「ひかる……」


ぽたりと何かが光った。

足元に落ちていたのは、

僕がプレゼントした“花柄の髪飾り”。


ひかるが、僕に返したみたいに、そこにあった。


「……そっか。そうなんだな。ありがとう」


水面が静かに揺れた。

その揺らぎの中に、一瞬、ひかるの笑顔が見えた気がした。


僕はゆっくり立ち上がり、

全てを受け入れるように背を向けた。


その瞬間、ひとつ風が吹いた。

真夏には似つかわしくない、冷たい風。


振り返らなかった。

それがひかるへの最後の優しさだと思ったから。

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