第13話 ログ:永遠の未完了

 指が選んだのは、赤い「YES」ではなかった。

 僕は、スマートフォンの画面を指で強く弾き、ブラウザのタブごと、その選択肢を『閉じた』。


「……選ばない。リセットもしないし、共有も止めない」


 柚月の目が、わずかに見開かれる。


「この地獄が、僕たちの犯した罪の結果なら。……僕は、この薄汚れた真実の中で、泥を啜りながら生きていく」


 その瞬間、街中のノイズが悲鳴のような高音を発して収束していった。

 空を覆っていた黒いグリッドが、剥がれ落ちるように霧散していく。


「……面白いね、航平くん。システムは、君が『逃げる』ことを前提に設計されていた。でも、君はバグを受け入れることを選んだ。……それは、プログラムには決して書けないコードだよ」


 柚月が立ち上がり、ゆっくりと僕から離れていく。その輪郭が、夕闇に溶けるように透け始めていた。


「さよなら、航平くん。……これからは、自分の足で『消せない記録』の上を歩いていって」



 エピローグ:共有された冬


 季節は巡り、街には乾いた冬の風が吹き抜けていた。

 あの日解き放たれた『真実』は、霧散することなく、この街のOSとして完全に定着した。


 電車に乗れば、向かいに座る老紳士のデバイスから「かつての不倫相手への執着」が、電子的な体臭のように漏れ出している。コンビニの列に並べば、前の主婦の端末が「育児放棄の検索履歴」を無機質に点滅させている。

 誰もが他人の汚濁を知り、同時に自分の醜悪さを晒している。人々は互いに目を合わせることを止め、ただ画面の中の『公開された地獄』を黙々と咀嚼して生きるようになった。


 僕は、大学の講義と深夜のバイトを繰り返す、ひどく平板な日常を送っている。  世界が壊れたあとも、皮肉なことに社会の歯車は回り続けていた。ただ一点、決定的に違うのは、僕の周囲から「期待」や「信頼」といった実体のない飾りが、跡形もなく削ぎ落とされたことだ。


 ある日の夕暮れ、バイト帰りの駅のホームで、僕は一人の男とすれ違った。

 深く被ったフードの隙間から、無精髭に覆われた頬が見える。……大輝だった。


 かつての自信に満ちた面影はない。彼は僕に気づくと、一瞬だけ足を止めた。  その目は、何かを許してほしいとも、恨んでいるとも言っていなかった。ただ、深い泥の中に沈んだ者同士が持つ、淀んだ光を宿している。


「……まだ、消えてないんだな」


 嗄れた声で、大輝が呟いた。


「ああ。消えなかったよ。僕も、あいつも、お前も」


 和解の言葉も、謝罪も出なかった。そんなものは、今のこの『透明な街』では何の価値も持たない。

 大輝は何も言わずに歩き出し、僕は逆方向の電車に乗り込んだ。僕たちはもう親友ではない。ただ、同じ地獄のログを共有する「ユーザー」に過ぎない。


 アパートの自室に戻り、僕はコートのポケットからスマートフォンを取り出した。  その感触は、冬の冷気のせいか、それとも中身のせいか、以前よりもずっと重く、冷たく感じられた。

 指先が画面に触れる。電源を切っているはずなのに、本体の奥底から微かな熱が伝わってくる。まるで、小さな生き物の心臓が脈打っているかのような、不気味な生々しさ。


 震える指で電源を入れ、僕は数ヶ月間、一度も起動しなかった「共有ドライブ」のアイコンをタップした。


 中身は、空だ。

 湊の記録も、颯太のメッセージも、もうどこにもない。

 だが。


 ドライブの最下部。ストレージの使用容量を示すグラフの端に、決して消えることのない微かな数字が刻まれていた。


『使用中:21グラム』


 それは、一人の人間の魂の重さだと言われている数字。

 ポケットの中で感じていたあの重みは、気のせいではなかった。


 僕は、スマートフォンの電源を落とした。

 カチッ、という物理的なスイッチの音とともに、部屋に完全な沈黙が訪れる。


 背後に視線を感じて振り返る。

 そこには誰もいない。

 ただ、窓の外で揺れる街灯が、デジタルのノイズのようにザワザワと影を伸ばしていた。


 僕たちは、まだ、削除されていない。


(完)

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デリートされた親友 ―親友を殺したのは、僕たちの想像力だった― ソラ @Jasnon

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