嘘つきと約束

霜月このは

嘘つきと約束

 彼は今日も病棟内を歩いている。いや、正確には進んでいる、というべきなのかな。徒歩のスピードに合わせて車椅子で移動することをうまく言い表す言葉を、わたしは知らない。


 狭い病棟の廊下を、一日のうちに何度も行ったり来たりの往復運動。

 でも隣を歩いているのは、わたしじゃない。わたしよりも5歳も若い、ピュアで可愛らしい女の子。


 時折彼の後ろにまわって車椅子を押しながら、話題は尽きないようで。通りすぎるたびに、賑やかな話し声が聞こえる。彼らが何度も何度もそこを通るたびに、密かに目で追うことを、わたしはやめられずにいた。


 別にそれ自体に何を感じているわけでもない。少なくとも、自分ではそう思っていた。


「なるべく人間関係は、深入り、しないでね。ここには遊びで来ているわけじゃないんだから。……連絡先なんか、絶対交換しちゃダメですからね」


 主治医の言うことはもっともで。完全に正しくて。

 だからわたしはその言いつけを破る気なんて始めからなかった。


 ……それなのに、どうして、こんなことになってしまっているんだろう。


 *



 ほんの数日前のことだった。


 壊れたスマホの端末を買おうか迷っている彼に、わたしはお節介を焼いた。


 病院から一番近い電器屋さんに、端末だけ売っているお店があるのかどうか、自分の用事のついでに軽く調べるだけのつもりが、気づけば3軒ものお店をまわり、店員に話を聞いて。


 それから道の段差や、店のエレベーターの場所、スロープの角度までチェックして。


 きっと行き過ぎたお節介だったのだと思う。


 それでも、車椅子で移動しなければならない彼が、少しでも安全に目的を果たせるように、わたしは無意識に気にかけていた。


 両の足を使って歩けるわたしには大したことのない段差でも、彼にとっては命に関わることになるかもしれない。そう考えたら、心配してし過ぎることなんてない。少なくともわたしはそう思っていた。


 門限に間に合うように急いで帰っている途中で、道の真ん中でタバコを吸っている彼に会って、それで今日の調査結果を話したら、喜んでくれて。


「もしよかったら、今度一緒に行ってみる? 結構距離あったから、もし疲れたら帰りはわたしが押して歩くからさ」

「ほんと? ありがとう」


 確か、そんな会話をした。


 だけど、その後から、彼はわたしのことを避けるようになった。


 廊下ですれ違うときも、食堂でわたしが何か作業をしているときも、以前は話しかけてくれたのに、今では軽く挨拶してスルーされるようになっていた。


 どうしたのか、一体なぜなのか、聞く勇気は出なかった。


 相変わらず、彼は例の彼女とばかり話しながら廊下を行ったり来たりして、わたしには目もくれなくて。


 当然のように、電器屋に一緒に行く約束も、なかったことになってしまっていた。


 それから数日後、わたしは初めて、病棟の門限を破った。

 16時ギリギリにタバコを吸いに出てくる彼に、どうしても会いたくなくて。


 あの子とフラフラ廊下を歩く彼の姿を、どうしても見たくなくて。


 適当なカフェで時間を潰して、帰ったのは夕食の時間のとっくに終わった18時過ぎ。


 すでに病院食は、ほとんど喉を通らなくなっていた。

 わたしは現在の状況を主治医に正直に話して、頓服の薬を出してもらった。


「きっと退院すれば、大丈夫になりますよ。あと少し、がんばりましょう」


 主治医はそう言った。


 薬はよく効いて、わたしはたくさん眠ることができた。


 だけどなぜだか出てくる涙は、止まることがなかった。


  

 *



 いろいろと話し合いを重ねた結果、わたしの退院は予定通りの1週間後になった。


 わたしが門限を破ったのはあれ以来一度もなくて、だけどなるべく彼と顔を合わせないために、わたしは外出ばかりしていた。


 だけど、退院が2日後に迫った、その日のことだった。


 1日外出のあとで、病棟に戻る途中、エレベーター待ちをする彼と偶然出くわしてしまった。


「あ」

「おっ」


 不意打ちの遭遇に、お互い驚いて声が重なった。


「今日もずっと出かけてたの?」

「うん。そっちはタバコ?」

「いや、俺も今日はずっと外出てた」


 久しぶりの会話にしては、普通に話せたと思う。

 すると彼は、意外なことを言った。


「電器屋行ってきたんだ。あれ、こないだ教えてくれたとこ」

「行ったんだ? どうだった?」

「どうしようか迷ったんだけどさ、結局買うのやめた」


 ひとりで、行ったんだろうか。そればかりが気になってしまったけれど。


「道は平気だった?」

「あれくらいなら1人でも余裕。心配しすぎ」

「それならいいけどさ」


 それから、しばらくの沈黙の後に、彼は呟くように言った。


「退院、決まったんだってね」

「うん」

「おめでとう」

「……ありがと」

「なんでそんな顔すんだよ。めでたいことじゃん」

「そうだよね」


 そう言って、無理やり笑顔を作るのだけど。


「……わかんない、もんかぁ」


 病室に帰った後で、わたしはひっそりとため息をつく。


 彼は気づいているのか、気づいていないのか。

 わたしが最近ずっと外出ばかりしていることに。そしてその理由に。



 その日の夜は、頓服を飲んでもうまく眠ることができなかった。


 午前2時。眠れないから、消灯後の真っ暗な食堂でこっそりとお湯を飲んでいた。2杯目のお湯を注ぎに行こうと立ち上がった、そのときだった。


「あ」

「おっ」


 ウォーターサーバーの前で再び、声が重なった。思わずまわりを見渡したけれど、他の人に気づかれた様子はなさそうだった。


「眠れないの?」

「うん」

「俺も」


 彼は、いつも食事をするときの定位置に着く。

 離れて座るのも不自然だったから、わたしも横に並んで座る。


 いつもは、あの子が座っているその場所に。


 だけど、しばらくは沈黙が続いた。


「あのさ」


 沈黙を破ったのは、彼のほうだった。


「約束、守れなくてごめん。……スマホ、一緒に買いに行くって言ってくれたのに」


 ……なんだ、そのことか。


「ううん、いいよ。1人で行けたなら、良かったじゃん」


 心からそう思う。


「でも、悪いと思ってるなら、その代わり……」


 そんなことを思いついてしまうわたしは、きっといけない患者なのだと思う。


「わたしの言うこと、ひとつだけ聞いてくれる?」


 ダメもとで、そんなことを言う。


「いいよ」


 彼は何も考えていないのか、そう即答する。


「一つだけ、試させて。……人体実験」

「え、なにそれ。怖いんだけど」


 彼は笑いながらそう答える。


 空調が切れているのか、食堂の中の空気は冷たくて。どこまでも指先を冷やす。


 誰も来る気配はなかったから、するなら今がチャンスだった。


 わたしは、彼の頬に顔を寄せる。


 まるで口付けでもするみたいな距離にまで。


 反射的に、なのか。目を閉じる彼。


 だけどわたしは、そこをぎりぎりでかわして、耳元で囁いた。


「XXX」


 すると彼は目を見開いてこちらを見る。


「えっ……」


 その顔を見ただけで、わたしはもう満足だった。


 よかった。これできっと安心して退院できる。


「嘘だよ。引っかかった?」


 とびきりの笑顔で。そのつもりで。


「なんだよそれー」


 彼は悔しそうにこちらを見るけれど、わたしの目の端からこぼれたものは、幸いにして気づかれていなさそうだった。


 ここが暗くて、本当によかった。


 なのに、彼はポケットから光るものを取り出す。


「今のが本当だったら、教えてやろうと思ったのに」


 それは彼が今日買ってきたに違いない、新品のスマホだった。


「嘘つき」


 わたしはそう言う。もうその言葉だけで満足だった。


「いつか行きたいんだよね、御苑とかさ」


 新宿に自宅のある彼はそう言う。

 わたしがいつぞや、公園が好きだと言ったことを覚えてくれていたようだった。


「うん。行けるといいね」


 わたしは何にも気づかないふりをして、そう返した。


 『いつか』なんて約束は、もう要らないから。

 

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