段差

霜月このは

段差


 路上喫煙なんかする習慣、なかった。この病院に来るまでは。


 わたしの単独での外出許可が下りた頃のことだった。


 彼は「タバコ吸ってくる」って、いつものように車椅子を器用に操作して、ナースステーションに入る。


 看護師さんから、預けていたライターとタバコを受け取って、閉鎖病棟を出ていく。


 羨ましくて、つい後を追いかけてしまったのがいけなかった。


 わたしは一応喫煙者だけど、入院中までタバコを吸いたいほどの依存者ではない。だから本来、吸わなくても全然平気なはずだったんだけど。


「一本、あげようか」


 所定の喫煙場所とは全然違うところで吸っている彼をうっかり発見してしまったのが運の尽き。


 それ以来わたしも、その場所でタバコを吸うようになってしまった。


 所定の喫煙場所は病院の敷地からは少し遠くて、しかも彼のような車椅子ユーザーにとっては、途中の道路ががでこぼこしていて、あまり優しい道じゃない。


 それを聞いて、だからいつもここで吸っていたのか、と納得した。


 それからというもの、わたしはついつい、歩く道のでこぼこや傾斜具合を無意識のうちに気にするようになっていた。


 年明けに1人で初詣に行った時なんかは、こんなに階段ばかりつくって、神仏なんて言っても車椅子一つ通してくれないなんて狭量な、なんて不届きな怒りさえ抱いてしまうほど。


 そして相変わらず彼とは、同じタイミングで外出をして、道の途中で白い煙を吐いていた。


 ある時の帰り道に、ふと彼がぽつり、と話しだした。


「前の彼女が言ってたんだ。俺、こうだからさ、手を繋いで歩けないのが少し寂しい、って。……それが結構辛かった」


 胸が、締め付けられた。


 だけど、なるべく明るく返したかった。


 だから。


「手なんてさ、こうすれば良いんじゃない?」


 横に並んだ彼の肩に、そっと手を置く。


 ほんの一瞬、だけだけど。


 触れた肩は温かくて、ほんの少しだけ震えているような気もした。


 話しながら歩いて、そのうち病院に着いた。


 実はこの病院の敷地にも、優しくない段差がある。


 彼ひとりではその段差をうまく上がれないから、いつも不自由な足を無理やり地面につけて引き摺るようにして車輪を引っ張って上がっているのだという。


 車椅子の操作なんて、あまりしたことがないわたしだったけど、少し思うところがあって提案してみた。


「ねえ、少しだけ、試してみても良い?」


 あまり押し付けがましくならないようにだけ、気を遣った。


 彼の後ろにまわり、車椅子のハンドルを握る。


「こわくないと、良いんだけど……いくよ」


 きゅ、と力を入れてタイヤの前部分を段差の上に上げ、続いて後ろ部分も上げてやる。


 なんということはない。成人男性の重さがあったって、人のちょっとの助けさえあればこんな段差、大したことないのだ。


 だけど。


「ありがとうね」


 そう小さくお礼を言う彼の声を聞いて、わたしはまた考えた。


 一体彼は、今までいくつの段差をひとりきりで乗り越えようとしてきたのだろう。


 それから、この先、いったい幾つの段差を見て、それを越えるのを諦めてしまうのだろう。


 また胸が、きゅっとなった。


 これがどんな気持ちなのか、わたしにはまだわからない。


 それが、まだわたしたちの前にもある大きな段差。


 一体いつになれば越えられるだろう。そもそも越えることなんてできるんだろうか。


 次の日も、タバコの帰りに段差のところでだけ車椅子を押した。


 あと一歩の勇気があれば。


 だけどわたしにもまだ、その段差を越える勇気がないのだった。

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段差 霜月このは @konoha_nov

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