滑った軌道の中心で君が笑った

円藤リリカ

第1話 すべる

 放課後の廊下は、まだ春の匂いが残っていた。校庭で部活の掛け声が跳ねる音が、窓を震わせる。

 無関係なボクは靴を履き替えながら、今日も特に何も起きなかったなと、いつもの結論を出しかけていた。


 そのときだった。

 昇降口の外、アスファルトの一部に黄色が見えた。しかも輪郭がやけにくっきりしている。近づく前に気づけば回避できたのだが、思考よりも先に足が動いていた。


 ――ツルウゥゥッ!!!!!


 世界は妙に青くなり、次に暗くなり、最後に薄墨色になった。

 顔面に柔らかい何かがぶつかり、紙の破れる音が耳のすぐ横で弾けた。

「ちょっっっ!」

 か細い当惑の声より先に、ボクはアスファルトに寝そべったまま状況を確認した。どうやらスケッチブックにダイブしたらしい。ページの中央に、ボクの顔の形をしたしわが、堂々と刻まれていた。

「終わった……いや、終わったかどうかは、ちょっと保留……。」

 声の主は、見るからに力無い手でスケッチブックにそっと触れた。見上げると、セミロングヘアで、どこか眠たそうな目の女子がしゃがんでいた。

 同学年だったはずだが名前は知らない。いつもカーディガンを羽織って眼鏡を掛けている以外情報はない。

「ごめん。でも、バナナが。」

 ボクは起き上がり、彼女に弁明した。全て偶然地面に打ち捨てられていたバナナの皮のせいだと。

「うん……見ればわかるよ。しかも完璧な位置だよね、これ。」

 彼女はしゃがんだままスケッチブックのページを開いた。絵は、街の俯瞰図だった。細く不安定な線で道路が描かれ、建物が積み木みたいに積まれている。

 ボクがしわをつけた場所には、やや斜めに折れた裂け目が入っていた。見るからに致命傷だ。

「ほんとごめん。直せなくなって。」

「いや……直すというか、むしろ面白いね。」

 彼女は指でその亀裂をなぞりながら言った。

「道路が、想定外に曲がった感じ。交通計画の失敗……みたいな。」

「そんなジャンルあるんだ?」

「……ある、私の中にね。」

 説明になってるような、なってないような。ただ怒っているわけではなさそうで、それだけで助かった。


「ええと……名前。」

「あ、ボク? 相原 直。」

「私……詩成、美術部。これ、仕上げてから帰りたかったんだけど……。」

「こうなった責任の一端はボクにあるけれど、どうすれば。」

「うーん……じゃ、責任を取って、手伝って。」

 選択肢は他に提示されなかった。怒ってはいないようだけど、意外と強気だな。そう思いながら

ボロボロになったスケッチブックを抱きしめ昇降口を抜けていく詩成に付いていった。

「ほら、職員棟の前……テーブルがある。あそこでやろ。」

 変な勢いに巻き込まれている。美術部ってこういうものなのか、という偏見が少し頭をよぎる。


 バナナの皮は、さっきの場所で反省しているようにしおれていた。


 テーブルの上にスケッチブックが置かれ、詩成はペンケースを広げた。中には色ペンとカラフルなテープと、紙片が詰まっていた。美術というより工作寄りで、門外漢の自分には意外と雑に感じた。

 「まず、しわは伸ばさない。……活かす。」

 「活かすって、生き物みたいに言うね。」

 「生き物だから……絵も、街も。」

 詩成はテープをちぎりながら言う。ボクはよくわからないけど、とりあえず頷いた。

 線を引き直すのかと思ったら、ひび割れをそのまま道路に転用したり、建物の形を変えたりしていく。不安定な詩成の線が描き出すそれは、確かに生きているようだった。

「あ……ちょっとソコ、押さえてて。」

 ほぼ真ん中で裂かれたままのスケッチブックを押さえながらボクは唐突に気になっていた事を質問をした。

「美術部の人ってさ、美大とか行きたいの?」       「……その質問、早くない?」

「ごめん、聞いちゃいけない事だった?」

「……行きたい。けど、親は反対。よくあるやつだよね。そっちは?」

「進路なんか、まだ決めてない。」

「あー……なんか、決めなさそうな顔してる。」

「なんだそれー。」

「……褒めてるのに。あ、色テープとって。」

 褒められた気はしないが、空気は悪くない。

 ペンの走る音がやけに真剣で、静かな時間が研ぎ澄まされてゆく。薄墨色のスケッチブックに切り貼りされた鮮やかな世界が拡がってゆく。響いているはずの運動部の掛け声も、もう聞こえない。

 「……完成!」

 詩成がペンを置いた。街はさっきより歪んでいた。道路が無理な角度で曲がり、建物が変な方向を向いている。

 でも、不思議と心地よかった。

「……バナナの曲線って、案外、いいんだよね。原始的で。」

「ボクの転び方の話?」

「うん……いい転び方だった!!」

 やはり、褒められているのか、茶化されているのか、判断しにくい。

 ただ、笑っているのを見たら、まあいいかと思った。

 スケッチブックを閉じた詩成は、早々にあのごちゃごちゃしたペンケースを鞄にしまいながら帰り支度をした。

「今日は、これで終わり。……また使うかも。」

「また?」

「うん。また転んで。ちゃんと……バナナで!」

「無理だろーそれ。」

「……偶然は、仕込むと、面白いから。」

 そう言って、詩成は手をひらひらさせながら去っていった。気付けば校門が閉まる前のぎりぎりの時間。


 ボクの足元には、つぶれたバナナの皮がまだ残っていた。


 踏み外しのおかげで、少しだけ放課後の軌道が曲がった。それがどこまで行くのかは、まだ全然わからない。

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