第二東京ログイン

こもり

プロローグ


はるか昔、人がまだ星を神と呼んでいた頃。

世界は一つの輪によって保たれていたと語られている。


それは名を持たず、姿もなく、ただ“在り続ける”ための理だった。

星は巡り、時は積み重なり、命は生まれては還る。

その循環が崩れぬよう、輪は世界の裏側で静かに働き続けていた。


やがて人は、それを物語として語るようになる。

世界は見える面と、見えない面から成り立っているのだと。

そして見えない面で起きた歪みは、

決して表の世界に触れてはならないのだと。


だが、完全な輪など存在しない。

どれほど精緻に編まれた理であっても、

処理しきれない“余白”は生まれる。


語られぬまま、捨て置かれたもの。

名を与えられぬまま、残されたもの。


それらは、いつしか輪の外側で蠢き始めた。


神話は、そこで途切れている。



東京都内某所。

高層ビルに囲まれた、無機質な庁舎の前で、彼女、樫巳谷環かしみや たまきは立ち止まっていた。


「都市環境保全機構」


入口の上に掲げられた文字を、もう一度だけ見上げる。

拍子抜けするほど、普通の名前だった。

看板も、警備員も、行き交う職員たちの雰囲気も、すべてが日常の延長線にある。


ここが、自分の配属先。

それ以上でも、それ以下でもない。


胸の内にあるのは高揚でも使命感でもなく、

ただ「私のこれからが始まる」という、曖昧な実感だけだった。


受付を通され、案内された講堂には、同じような年齢の人間が並んでいる。

誰もが少し緊張し、少しだけ期待している顔をしていた。


壇上に立った上官は、淡々とした口調で言った。


「本日より諸君は、ERCA《エルカ》の一員となる。

 我々の任務は、都市環境の維持と保全だ」


説明はそれだけだった。

具体的な業務内容は曖昧で、

“想定外の事象に備える”という言葉が、何度か繰り返されただけ。


違和感は、確かにあった。

だが、誰も口にしない。

それが組織というものだと、環は思った。


その後、装備の支給が始まった。


防護服、通信端末、個人認証具。

そして最後に、名前を呼ばれた者から順に、無言で渡される“それ”。


細長い形状。

武器には見えず、工具にも見えない。

ただ、やけに手に馴染んだ。


「……これ、何ですか?」


思わず漏れた声に、担当官は視線だけを向ける。


「デバイスだ。

 使い方は、後で教える」


それ以上の説明はなかった。


訓練初日。

環は指定された地点に立ち、デバイスを握っていた。


「これから位相移行を行う」


上官の声が、妙に遠く聞こえる。


「体調に異変を感じた場合でも、動くな。

 世界は、すぐに戻る」


――戻る?


疑問を抱いた瞬間、空気が歪んだ。


視界が一瞬、ノイズに覆われる。

音が遠ざかり、輪郭が滲む。

足元の感覚だけが、妙に重い。


そして。


同じはずの東京が、違って見えた。


建物はそこにある。

道路も、標識も、空も変わらない。

だが、世界の“厚み”が増している。


空はわずかに暗く、

影は不自然に濃く、

遠くで何かが蠢く気配がした。


「――ここが、第二東京だ」


誰かの声が聞こえた。


環はまだ知らない。

自分が握っているものの意味も。

ここが、東京の裏側であることも。

そして、自分が――。


ただ一つ確かなのは。


世界は、彼女が思っていたよりも、ずっと脆い。


そしてその脆さを、誰かが必死に“保全”しているという事実だけだった。

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