エレシュキガル

無邪気な棘

第1話 地中の悪夢

エレシュキガル


古代メソポタミア神話に登場する冥界、或いは、地底世界「イルカルラ」の女王。


死者を閉じ込め、疫病・飢饉・死の拡散を支配する冷酷な存在である。


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東アジアの果てに浮かぶ島国、海東民国。


首都・碧江(アオエ)を流れる川は、その名の通り美しく澄んでいたが、人々の暮らしは停滞の中にあった。


一人当たりGDPは約220米ドル程度。


それは、干し魚と粥が「贅沢」になる程の額だった。


人口約2,000万人のこの島の民は、大地と海、農と漁で命を繋いでいた。


それ以外は存在しない典型的な最貧国だ。


農林漁業省の主任、本貞寛(ほんていかん)は、碧江の美しい川の水で顔を洗うと、今日も書斎の錆びついた机で、農民たちに配分するわずかな補助金の計算に追われていた。


「お父さん、今日のご飯は?」


12歳の息子、貞安が尋ねる。


妻の沙里が申し訳なさそうに、干した魚と粥を並べる。


「いつか、この国も豊かになるさ」


貞寛はそう答えるしかなかった。


彼は、高級車で省庁に乗り付ける上層部たちの汚職を知っている。


だが、一役人に何ができるだろうか。


ため息をつきながら、彼は出勤の準備をする。


今日から農村部へ出張である。


上司からの話によると、専門家がやって来て地質調査をするらしい。


若きエリート地質学者、礼来楽(れいらいらく)がハーバード大学から帰国した。


「祖国の山々には、まだ誰も知らない力が眠っている」


礼来楽の調査に同行した貞寛は、山間部の農民、江間角(こうかんかく)の家に身を寄せた。


江間角は七人の子を抱える極貧の男だったが、その笑顔は太陽のように明るかった。


「学者先生、俺たちの土地に何かあるのかい?」


礼来楽のハンマーが岩を叩く。


数ヶ月後、彼が震える手で掲げたデータは、この国の運命を決定づけた。


島の地下には、世界を塗り替えるほどの莫大なレアアースと石油が眠っていたのだ。


江間角の家では、今夜も七人の子供たちの笑い声が響いていた。


「ほら、今日は学者先生が来てるんだ。行儀よくしろよ!」


江間角が豪快に笑いながら、末っ子を膝に乗せる。


食卓に並ぶのは、泥のついた芋と、薄い塩味の粥だけだ。


しかし、江間角の妻が甲斐甲斐しく立ち働くその空間には、確かな体温があった。


地質学者の礼と役人の本は、その温かさに気圧されていた。


「間角さん、こんなに大勢の子供を育てるのは大変でしょう」


貞寛の問いに、間角は白い歯を見せて答えた。


「大変さ。でもね、役人さん。この子たちが笑ってりゃ、腹なんて減らねえもんです。国にゃ何も期待しちゃいねえが、この土と家族さえあれば、俺は世界一の幸せ者だよ」


礼来楽はその言葉を胸に刻みながら、翌朝、ついに「国家を揺るがす岩石」を掘り当てることになる。


しかし、彼は同時に知っていた。


このデータを国家に渡した瞬間、地中のものは彼の手を離れ、呪いが解き放たれる危険性もある事を…。


それは、人々に富を齎すが、扱い方を誤れば、災いと死をもたらす、まさに地中に眠る「悪夢」であった。

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