この小さな花があの海へ届きますように

富田 来蔵

プロローグ 白嫁菜(しろよめな)の丘

本作はフィクションであり、登場する人物、部隊、出来事は架空です。

実在の艦名・航空機名は物語の舞台設定として使用しています。


「この小さな花があの海に届きますように」



空はすっきり晴れて、白く焼けた岩場の向こうで海がきらきらしていた。


「いっくぞー!」


声と同時に、村上仁が飛び出す。


「うおおおっ!」


ばっしゃーん! 派手な水柱が上がり、仁が水面から手を振った。


「冷てぇ! でも最高だぞ!」


岩の上で、俺と響は下を見下ろす。


「……ほんとに大丈夫か、ここ」


響は怖がっているというより、水までの距離を慎重に測っている。


「平気」


俺は一歩、前に出る。


「水に入るとさ――」


少し間を置いて言う。


「俺、魚になるんだ」


「は?」


「見本な」


そう言って岩の先端に立つと、迷いなく体が前に動く。

光が弾け、冷たい水が全身を包む。考える間もなく泳ぎ出した。


(これだ)


しばらく水の中を楽しみ、浮かび上がると仁が寄ってくる。


「やっぱ化け物だわお前、潜水スゴイな!」


俺は笑って声をかける。


「足から入れって、頭怪我するぞ」


岩の上には響がまだ立っている。少しだけ体を前に乗り出して――


「……魚ってさ」


一瞬考えてから言う。


「いきなり大物は無理だよな」


「――小魚でいいや」


返す間もなく、響は息を吸って岩を蹴った。


「うわあああ!」


どっぱぁん!

水面に顔を出した響は、一瞬きょとんとして――


「冷たっ!」

それから目を輝かせる。


「……なんだこれ」

「だろ?」

「……ちょっと、楽しいかも」


仁が腹を抱えて笑う。


「お前ら、ほんと似てんな!」

「ちげーし!」「ちがう!」


二人同時に叫び、そのまま笑った。


「――それじゃ岬までレースだ! 泳ぐぞー!」


俺――谷口航が声を張ると、仁が手を振る。


「ちょっと待て。全員同じスタートは不公平だろ」


「は?」


「航はここから。俺と響は途中の岩場からな」


仁は沖の潮の流れが変わるあたりを指す。


「半分くらいだ。これなら文句ねぇだろ?」

「いや、それでも俺が有利だろ」

「去年も同じこと言ってたくせに」

響が口を挟む。


「で、結果どうだったっけ」


嫌な予感がした。


「……」

「途中でさ、仁が魚つかんでさ」


響は指で小さく跳ねる真似をする。


「そのまま、わたるの海パンに入れたよね」

「あれ、偶然とか言ってたくせに!」

「偶然だ。たまたま捕まえちゃっただけ」


仁が肩をすくめる。


「まあまあ。今年はちゃんとスタート分けるし。平和だろ」


俺は納得いかないまま、水に体を沈める。


「ゴールはあの丘だ」


「よーい……」


仁が沖へ向かって泳ぎ出し、響もその横をすいっと進む。


「……どん!」


三人同時に水を蹴った。最初から飛ばせるのは俺だけだ。


(悪くない)


水に入ると体が軽くなる。呼吸も腕も、考える前に整う。

仁と響はまだ遠い。半分地点までは、完全に俺の海だ。


泳いでいる間だけ、世界が静かになる。

音も重さも全部置いていける。


やがて前方に岬の影が見え始めた。

灯台の陰に二つの影が浮かぶ。


(……来た)


岩沿いの流れが一瞬速くなる。迷わず体を傾け、

水を深くつかみ、一息、強く――


視界の端で仁の肩がずれる。


「っ――!」

一気に前へ出る。


崩れかけた灯台をかすめ、そのまま砂浜へ――


「よし、今日は絶対ビリじゃねぇ」


背後から声が飛ぶ。


「はいざんねん、う・し・ろ! 先行くねー」

「先いくーぞー!」

「うお、くそ……ギリギリやられた!」


坂の途中の竹藪を抜けたとき、鼻先をくすぐる柔らかい香りがした。

視界の先には、白いつぼみが一面にふくらんでいる。

まるで地面が白い息をしているみたいだ。


最後の力で砂浜を蹴り、丘へ駆け上がると――


足元の気配に気づく。

もう仁は立っていた。少し離れたところで、先についた響が見当たらない。


「……え?」

遅れて、理解する。


「うそだろ」


背後から“たこ”が容赦なく半袖のラッシュガードに突っ込まれる。


「うわっ!? ちょ、なに入れた!!」

「はいわたる今到着ー」

響の声は軽い。

「途中でいた。つかみやすかった」

「つかみやすいとかじゃねぇ!」


背中でもぞもぞ動く感触に、俺は情けない声を上げる。


「こんなもん、つかまえてくるなー!!」


仁が腹を抱えて笑う。


「いや、ギリギリだったぞ。航、最後まで海だったのに、結局ビリ」

「お前ら、足がはやいんだよ……」

「えー、航って陸に上がると足遅いんだもん」


響は首をかしげ、ニコニコして言う。


「ゴールは丘だろ?」


ぐうの音も出ない。


白いつぼみが風に揺れ、三人分の影が重なる。

笑い声が丘に広がる。


「まー、それを“インガホウオウ”って言うんだ」

「因果応報じゃないの。微妙に意味違うし」

「必殺技みたい。印牙鳳凰拳! なんか手から弾出そう」

「いや違……」

「体育の先生目指してるんだろ? だいじょぶか?」


俺がニヤつくと仁は真っ赤になる。


「だ、だいじょぶだし! 今のはボケだし!」

俺と響が同時に首をかしげる。

「ふーん?」「へぇー?」

「くっそ! 今日マジ覚えとけよ!!」


白い蕾が風に揺れ、三人の笑い声が丘に溶けていく。


風に揺れる白いつぼみを見ながら、俺はぽつりと言った。


「そういや、このつぼみ……今年、ちょっと早くないか?」

「確かに」

仁が屈んで、つんつん触る。

「咲くと、真っ白なじゅうたんになるよな」


響は目を細める。


「うん。朝早く来ると、霧に光が当たって……雪みたいなんだよ」

そっと蕾を避けながら言う。


「白嫁菜って言うんだって。おばあちゃんが教えてくれた」

「野菊じゃなかったのか?」

「野菊ってね、いろんな花の集まりで、その中に白嫁菜ってのがある」


説明するときだけ、響の声は少し丁寧になる。

仁が感心してうなずく。


「へぇ、詳しいな」

響は照れたように肩をすくめた。

「おばあちゃんが好きなんだ、この花。だから……ぼく……私も覚えた」


風が吹き、蕾がいっせいに揺れる。

響はそれを見つめながら静かに言う。


「“響”ってね……おばあちゃんの名前、響乃から一字もらったんだ」

「へぇ、そうだったのか」


胸の奥がひやっとした。

俺、たぶん――知らずに響を傷つけてた。


昔、俺が言った言葉。


「ひびきって、かっけぇ名前。きみ男の子?」


響は笑っていた。気にしてないと思っていた。

でも――ふっと話を切った。俺の顔色から、全部悟ったみたいに。


「そういうの、ぼく、すごいと思うんだよ。だから……

“化け物”って言うなら、航のほうだってば」


仁がぱしっと俺の頭を叩く。


「な、なんだよ!」

「やっぱいい感じじゃねーか。付き合っちまえ!」

「ちげーし!」

「なんでだよ!」


仁はゲラゲラ笑う。


「てか航、“メダル取って有名人なる!”って昔言ってたの、

俺覚えてるからな。海でカニ追いかけながら」

「やめろ!! 忘れろ!!」

響まで笑う。

「“俺は水泳王者だ!”って、胸張ってたよね」

「やめろぉぉぉ!!」


笑い声が丘に溶けていく。

白嫁菜の蕾が、また風に揺れた。


「……なあ。今年も、全部咲くかな」

響がぽつりと聞く。


「咲くだろ。毎年咲くし」

俺が言うと、仁もうなずいた。


「満開になったら、また来ようぜ。……三人で」


それは、あまりにも当たり前だと思っていた約束だった。

海の音。潮の匂い。日差しの温度。全部、変わらないままだと思っていた。


響が笑って手を振る。


「よし、帰ろ! 航の鼻、へし折ったし」

「おい響! 魚介類はもうやめろよ!?

このたこ食わないなら、海戻しとくからな」


三人は、いつもの道を、いつものように駆け出す。


このときの俺たちは、まだ知らない。

白い花の名前に込められた願いも、失うものも、手にするものも。


ただ、風の中で揺れる蕾だけが、

この物語の始まりを静かに見守っていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る