彼の手の上

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彼の手の上

昔、好きだったひとがいた。離れて以降の彼のことは知らないが、当時の彼のことは今でも好きだ。


大学で、理系だったこともあって、やたら追われたレポートを肩を並べて仕上げた。毎回、大学を出るのはとうに暗くなったあとだった。


お疲れ、と渡してくれた自販機のホットコーヒーが、普段の苦さが嘘みたいに甘くて美味しくて、ああ、私はこのひとのことが好きなんだ、と気づいた。


彼は左利きだった。渡してくれたその左手に、どうにも見覚えがあって、見比べたら手の甲の見える血管も含めて私の左手にそっくりだった。ふたりで驚いて、それから、その手が私に触れかたで触れてくるまで時間はかからなかった。


彼は卒業後、海外の大学院に進学することになり、私はこちらで職を得た。迎えに来られるか約束できない、と言われて、待つと言ったのに、彼のほうから離れられてしまった。


彼の親が、私の家族のことを調べて難癖をつけて、このままでは私を生涯苦しめてしまう、と彼が言っていたと知ったのは、離れて数年経ち、傷より思い出と呼べるようになった頃だった。


久々にテレビで見た彼は、帰国したうえで、隣の県で観光名所になっていた。巨大化していたのである。


太って、ではない。特撮のヒーローのように、等身が変わらないまま、闘う相手もいないのに、大きくなってしまっていたのだ。


悪趣味なロボットかと少しは思ったが、これは彼だと脳が叫ぶ。今は30階建てのビルと同じ大きさである。まだ日に日に大きくなっているそうだ。長引いた成長期にしてもやり過ぎだろう。


テレビに映る、私と同じ形の左手。思わず見比べてしまった。やはりそっくりだ。


彼は、人権的な配慮か、それとも観光名所となるうえで取引をしたのか、昔のギリシャ人のように巨大な布を纏っていた。私が心配したのは排泄だったが、そんなものを公共の電波では流すまい。


どうしても気になり、その週の週末に電車に揺られて彼を見に行った。彼からすれば蟻のようなものである。そもそも気づかれるかわからなかったが、念のためマスクをつけた。


他の観光客に紛れて、草原に座る彼を見る。彼が動くと潰される可能性があるからか、近づける距離は定められていた。


やはり本人だった。こんなところにあるんだ、と、あのころ見つけた耳の後ろのほくろがそのままだった。


彼は、ゆっくりとこちらを向いた。目が合ったような気がした。気づかれないだろうと思ったが、彼は目を見開き、涙をこぼした。


物理的に拭いてやることもできないが、大きく手を振る。彼も手を振った。


彼の方ばかりを見ていたので、私を撮っているひとがいたことも、それをSNSにアップされたことも、それがバズったことも、メディアが家に突撃してくるまで気づかなかった。


もちろん、過去の関係も、一緒に映っている写真も、全部公になってしまった。


私の精神は一般市民である。それだけでも耐えられなかったが、連日の突撃にはメディアだけでなく最低限のマナーもない民間人まで混ざってくるようになった。


匿名でやっていたSNSのアカウントまで特定されて、見るに堪えないDMやリプライや引用が舞い込み続け、アカウントは消した。


職場にまで影響があり、休職を余儀なくされた。帰り道、涙が止まらなくなった。


もうだめ、もうだめ、と呟きながら、日が暮れた帰り道に顔を手で覆って座り込む。生きる元気も死ぬ気力もなくて、立ち上がることもできない。


ふわり、とあたたかい何かに包まれた。


揺られているが、目を開き確認する気力もなくて、そのまま身を委ねる。すごく安心できる温度だった。


目を開けて、と聞こえた気がした。


重い瞼を上げると、そこは彼の左手の上だった。顔を上げると、彼はとても哀しそうな顔をしている。彼まで哀しむことはないのに。見に来てしまった私のせいなのに。


でももう、何もしたくない。何も考えたくない。立ち上がり、指に抱きつく。この指が触れてくる感触が好きだった。


このひとのことがどれだけ好きでも、もう何もできないのに、まだ好きで、もうそれしか残っていない。


彼は横たわり、私を胸のうえに乗せる。さらに、私の隣に一般的なサイズのリュックを摘んで置いた。


指さすのでリュックを開けると、人間からしたら大きく、彼からしたらとても小さい赤と青のカプセルと、カードが入っていた。


『迷惑をかけてごめん。まだ僕のことを好きでいてくれるなら赤、そうでないなら青のカプセルを僕に飲ませて』


そうして、リュックを手にした私を口元に運ぶ。私は、大きな口に唇を寄せてから、赤いカプセルを押し込んだ。


彼は私を地面に下ろしてから、カプセルを飲み込んだ。彼は見る間に縮み、纏っていた巨大な布のなかに隠れてしまった。


リュック持ってきて!と聞こえたので、駆け寄ると、布から顔だけ出した彼が手招きする。彼はリュックの中から人間サイズの服を取り出し、いそいそと着て出てきた。


「ありがとう。全裸で再会は嫌だったし助かった」

「青いカプセルだとどうなっていたの」

「さらに大きくなってこの街は潰れていたかな」

「私ごと?」


赤を選んでくれてよかった、といって、彼は笑顔になり、私を抱きしめた。


「ずっとこうしたかった」

「それは私もそうだけど」


彼の身体は以前と変わらずあたたかい。


あれだけ世界中に拡散されて、もう彼以外とは、この腕のなか以外には居られなくなってしまっている。


私をそうしたのは彼なのに、この温度から離れることができなかった。





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