僕らは暁美ほむらなのかもしれない

今福シノ

エッセイ

 僕らは暁美あけみほむらなのかもしれない。こんなことを最近考えるようになった。


 ここでいう「僕ら」とは、自身も含めて日夜執筆という名の創作に打ち込んでいる人のことだ。主語がでかすぎる、と言いたい人もいるだろうが、これは評論や論文ではなくエッセイ。ただの感想文なのでご容赦願いたい。


 さて、冒頭の話に戻る。


 暁美ほむらとは、二〇一一年に放送されたテレビアニメ「魔法少女まどか☆マギカ」に登場するキャラクターだ。「まどマギ」の愛称で放送当時は社会現象と呼ばれるほどに話題となっていたのを、筆者もよく覚えている。もちろん今でも根強い人気を誇る作品である。そんな「まどマギ」で暁美ほむらは、主人公である鹿目かなめまどかの前に謎めいた少女として現れる。


 最初は敵かとも思われていたが、物語が進むにつれて彼女の本当の目的が明らかになっていく。暁美ほむらは、鹿目まどかが魔法少女となる未来を阻止するべく、同じ時間を何度もくり返していたのだ。

「主人公が魔法少女にならないように邪魔しているのなら、やっぱり敵じゃないのか?」と首を傾げる人もいるかもしれないが(ここまで読んでくれた読者諸兄姉はおそらく「まどマギ」を見たことがある人かと思うので、そんな人はいないかもしれないが)、話はそうシンプルでなく奥深さがある。ゆえに人気があるともいえるのだろう。


 魔法少女には本人たちも知らない秘密があった。それは、魔法少女がやがて魔女――不幸を振りまく化け物に、魔法少女が戦い、そしてたおす存在へと変貌してしまう運命を背負っているということだった。

 そのことを知った暁美ほむらは友達である鹿目まどかを非情な運命に巻き込まないよう、奔走していたのである。何度も何度も、同じ時を刻みなおして。どれだけ失敗しても、やり直して。すべては自身が抱いた願いを、叶えるために。


 こうしてあらためて書いていると、初めて視聴した際の記憶がよみがえってくる。あの時見たオープニングの映像は、歌詞は、今でも胸に刺さったまま抜けることはない。もし視聴したことがないという人がいたら、今からでも遅くないのでぜひ観てほしい。今年の二月には完全新作も劇場版が公開されるので。


「まどマギ」がいい作品なのはわかったけど、じゃあ暁美ほむらと僕ら――創作に明け暮れる人種がどう関係しているのか。このままでは筆者が「まどマギ」を熱く語っただけで終わってしまう。


 といっても簡単だ。

 早い話が、両者は似た存在なんじゃないだろうか。

 もちろん容姿の話ではない。心の中に少女が住んでいる人は大勢いるだろうが(勝手な推測)、そういうことではない。


 僕らの多くは何かしらの目標をもって文字を書いて、作品を生み出している。受賞したい、書籍化したい、あるいは売れっ子作家になりたい。そんな願いを胸に、作品を書いては応募し、企画を提出しをくり返している。何度も何度も。

 ほら、似ていないだろうか。


 筆者も書籍化を目指して日々創作に励んでいる。作品だってコンテストに応募している。だけど選考通過作品の一覧に掲載されていないことは何回も見て落胆したし、意気込んでWEBサイトに公開した新作はPVが伸びずにひたすら更新ボタンを押した。日を追うごとに下がっていくランキングに肩を落とした。このエッセイだってきっと、公開してもひっそりと他の作品に埋もれていく未来が待っているのかもしれない。


 似ていると思った理由はそれだけじゃない。

 暁美ほむらは自身も魔法少女であるため、己の願いを諦めることは魔女になってしまうことと同義だった。ゆえに、彼女はそれだけ可能性が低かろうと諦めずにくり返し続けなければならない。

 僕らもまた同じだ。受賞、書籍化、専業。掲げた目標がたとえ砂浜で砂金を見つけるくらいに望みがなくても、書く手を止めることはできない。


 なぜなら、夢に向かって多くの時を費やしたことを誰よりもよく理解しているから。


 作品をつくるというのは時間がかかる。どんなものを書くか、キャラはどうするか、起承転結はどうするか。それを考えた上で筆をとる。一朝一夕には到底できない。それが長編小説となればなおさら。


 僕らは毎日のうち、決して少なくない時間を創作にてている。時間はみな平等の二十四時間。しかし年を重ね、働くようになったりするほど、己の生活をそぎ落とす必要が出てくる。目に見えない何かを削って、持っていたものを手放して、創作時間を捻出ねんしゅつする。

 そんな日々を過ごしてやっとの思いで作品を生み出したとしても、願いを手にできるとは限らない。落選。★0。増えないPV。埋もれていくランキング。僕らの足元には、日の目を見なかった作品しかばねと費やされた時間むくろが散らばっている。

 ひとつ、またひとつと増えていくそれらを見ると、ふと考えてしまうことがある。


 もしここで諦めてしまったら、今までの努力はどうなるんだ?

 ただただ浪費してしまっただけになってしまうのではないか?

 創作のためと切り捨てたものたちは、もう戻ってはこないのに。


 ソウルジェムが濁り、魔女へと姿を変えてしまうには十分な絶望ではないだろうか。


 そう考えると、作家というのはなんて絶望的で、果てなき因果の渦に飲み込まれてしまった存在なのだろうか。

 鹿目まどかのためにと願ってしまった結果、ゴールのないループをくり返すこととなってしまった暁美ほむらのように。


 だけど。それでも。

 僕らは暁美ほむらに似ていても、まったく同じじゃないと。そうも思う。


 こうしている今も、たくさんの人が筆をとり、作品を生み出し続けている。終わりのない因果の渦中にいる。僕もまた、いつまで書くのか、書くのをやめるのかという思考が頭をよぎりながらも、朝が来れば次の作品のことを考えていたりする。僕の考えた傑作が、また産声をあげる。


 それは単に、夢を諦めきれないからだけではないのだと思う。

 そこにはきっと、夢を追うという気持ち以外のものがあるからだ。


 それはたとえば、書くこと自体に価値を見出していたり。

 あるいは、書くことそのものを楽しみに感じていたり。

 自分が一から作り出す作品に、世界に、胸の高鳴りを覚えるのだ。


 そうでなければ、夜更けにこんな益体もないエッセイを書きはじめたりはしないのだ。


 書いたって報われないかもしれない、いい結果が出るとは限らない。そう思っていても、気がつけば僕らの手には筆がある。キーボードがある。今じゃ音声でだって書ける。


 現に今、僕がこのエッセイを書いている隣の画面には、まだ何も書かれていない真っ白なワードファイルが開かれていたりする。


 ただの一文字も刻まれていない場所。しかしだからこそ、雪原のように無垢なその場所にこそ、僕らが飛び込む先がある。マルチディスプレイの片側に表示されたそれは、記念すべき一文字目が、誰かの胸の届くかもしれない一文目が刻まれるのを、今か今かと待ち望んでいる。


「まどマギ」の、暁美ほむらの言葉を借りるとするならば、その荒野とも大海原とも星空ともいえる場所を、こう呼んであげるべきなのかもしれない。


 ――最後に残った道しるべ、と。

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