(N.Y×百合)スケッチブック越しの距離
南條 綾
(N.Y×百合)スケッチブック越しの距離
マンハッタンの地下鉄、Qラインの車内はいつものように息苦しかった。朝のラッシュがようやく落ち着いた午前十時過ぎ、座席に座れたのは奇跡に近い。向かいの席にいた女の子が、膝の上でスケッチブックを開いて鉛筆を走らせている。黒い髪を無造作に後ろで束ね、耳にかけた前髪が少し乱れている。白いシャツの袖をまくり上げた腕が細くて、でも指先はしっかり力が入っていて、線が迷いなく引かれていく。
私は何気なく視線を落とした。描かれているのは、窓の外を流れるブルックリンブリッジのシルエットだった。鉄骨の影が水面に伸びて、まるで誰かの指が街を掴んでいるみたいに。
「…きれい」
思わず声に出ていた。彼女が顔を上げて、私を見た。瞳が少し驚いたように丸くなる。
「ありがとう。でも、まだ途中だから」
柔らかい笑顔。英語が少し訛っている。アジア系かな、と思ったけど、すぐにそれ以上考えなかった。
「毎日ここ通ってるのに、こんな風に見たことなかった」
「視点を変えるだけで、世界が変わるよね」
彼女はそう言って、また鉛筆を動かし始めた。私はなぜか席を立つことができなくて、そのまま彼女の横顔を眺めていた。
名前は知らない。知らないまま、二週間が過ぎた。
同じ時間、同じ車両。彼女はいつもスケッチブックを抱えて乗ってくる。ある日はタイムズスクエアのネオンを、ある日はイーストビレッジの路地を、ある日はハドソン川沿いの夕焼けを。描く対象はいつも街だった。でも、時々、私の方をちらりと見ては小さく微笑むようになった。
三度目の週の金曜日。彼女が隣の席に座ってきた。
「いつも見ててくれてるよね」
心臓が跳ねた。
「…バレてた?」
「うん。最初は気になってたけど、今は嬉しい」
彼女はスケッチブックを私の方に少し傾けた。そこには、私が描かれていた。窓辺に寄りかかって、外を見ている横顔。髪が少し乱れて、唇が半開きで、どこかぼんやりした表情。
「私、こんな顔してる?」
「してるよ。すごくきれい」
ストレートすぎて、顔が熱くなった。
「名前、教えてくれる?」
「ミア。ミア・チェン」
「私は綾」
「アヤ……いい名前」
ミアはそう呟いて、私の指先に自分の指をそっと重ねた。冷たいのに、温かかった。
それから、私たちは一緒に街を歩くようになった。
セントラルパークのベンチでコーヒーを飲みながら、ミアは自分のことを少しずつ話してくれた。中国系アメリカ人で、両親はチャイナタウンで小さなレストランをやっている。美術学校に通っていて、卒業制作のテーマは「ニューヨークの孤独」。でも最近は、孤独じゃなくなってきた、って笑う。
私はただ、うなずくことしかできなかった。自分の人生が急に色づき始めたみたいで、言葉が出てこなかった。
ある雨の夜。ブルックリンのアパートまで送ってくれたミアが、玄関先で立ち止まった。
「入ってく?」
「……いいの?」
「うん。濡れてるし」
部屋は狭くて、キャンバスと絵の具の匂いが充満していた。壁にはミアの絵が何枚も貼ってあって、その中に私の姿が何度もあった。笑ってる私、考え込んでる私、眠そうな私。
「ずっと描いてたんだ」
「うん。アヤに出会ってから、街の見え方が変わったから」
ミアが近づいてきて、私の濡れた髪を指で梳いた。水滴が落ちて、床に小さな音を立てる。
「好きだよ、アヤ」
突然の告白に、息が止まった。
「私も……ミアのこと、好き」
言葉にした瞬間、涙が出た。嬉しくて、怖くて、全部が混ざって。
ミアは優しく抱きしめてくれた。細い体なのに、すごく力強くて。私はその腕の中で、初めてニューヨークが自分の居場所になった気がした。
翌朝、目が覚めるとミアがキッチンでトーストを焼いていた。窓から差し込む朝日が、彼女の背中を金色に染めている。
「昨日、夢みたいだった」
「夢じゃないよ。これから毎日、こうしていよう」
ミアが振り返って笑った。頰に小麦粉がついていて、私は思わず指で拭った。
それから、私たちの日常は少しずつ重なっていった。
週末はイーストビレッジの古本屋を巡ったり、ソーホーのギャラリーを回ったり。ミアが新しい絵を描き始めると、私は隣で本を読んで待つ。時々、ミアが私の膝に頭を乗せてくるから、髪を撫でながらページをめくる。
冬が来て、マンハッタンがイルミネーションで輝き始めた頃。ロックフェラーセンターのツリーを見に行った。
人混みの中で、ミアが私の手を強く握った。
「寒い?」
「ううん。アヤがいるから、暖かい」
その言葉に、胸が締め付けられるくらい幸せだった。
でも、幸せって脆いものだ。
年が明けてすぐ、ミアの卒業制作の締め切りが迫ってきた。彼女は夜遅くまでアトリエに籠もるようになった。連絡が減って、会う時間も減って。私は不安で、でもそれを口に出せなかった。
ある夜、ブルックリンブリッジを歩きながら、ミアがぽつりと言った。
「アヤ、ごめん。最近、冷たくしてたよね」
「……ううん、大丈夫。忙しいのはわかってるから」
「嘘だね。顔に出てる」
ミアは立ち止まって、私を正面から見た。
「卒業したら、パリに留学しようと思う。奨学金が決まったの」
頭が真っ白になった。
「…いつ?」
「来月の終わり」
二ヶ月もない。
「私も、ついて行っていい?」
言葉が勝手に出た。ミアの目が揺れた。
「アヤには、ここにいたいものがあるでしょ。仕事も、友達も……」
「一番大事なのはミアなのに」
涙が溢れて、止まらなかった。
ミアは私を抱きしめて、耳元で囁いた。
「待っててくれる?」
「……うん」
「絶対、戻ってくるから」
その約束を信じて、私は頷いた。
別れの日は、雪が降っていた。JFKエアポートの出発ロビーで、ミアは私の頰にキスをした。
「愛してる、アヤ」
「私も。ずっと」
ミアの背中がゲートに消えるまで、私は立ち尽くしていた。
それから四年。
私は毎朝、Qラインに乗る。同じ車両、同じ時間。ミアのいた席は空いたままで、でも私はそこに座らない。代わりに、窓の外を見て、ミアが描いていた街を思い出す。
ある日、いつものように座っていると、 隣に座った。
ゆっくり顔を上げると、そこにミアがいた。
髪が肩を越えて長くなっていて、黒いコートの下に白いセーター。首に巻いたスカーフが少しずれていて、頬が赤かった。
「……ミア?」
声が震えた。夢かと思った。
ミアは静かに微笑んで、私の手を握った。指が冷たいのに、すぐに温かさが伝わってくる。
「ただいま、アヤ」
四年ぶりの声。四年ぶりの温もり。
私は言葉が出なくて、ただミアを抱きしめた。車内が揺れて、みんなの視線が集まるけど、そんなのどうでもよかった。ミアの匂い。絵の具と、少し甘い香水の混ざった匂い。変わっていなかった。
「ごめんね。長くなった」
ミアが耳元で囁く。
「パリのプログラム、最初は二年って聞いてたのに……結局、修士課程終わってからもアシスタントやって、個展やって、ギャラリーの仕事も入って……止まらなくなっちゃった」
「いいよ。帰ってきてくれたんだから」
「うん。もう、離れない」
電車がマンハッタンブリッジを渡る。窓の外にブルックリンブリッジが見えて、朝日が水面を金色に染めている。ミアが私の肩に頭を預けてきた。
「アヤ、この四年、何してた?」
「待ってた」
「それだけ?」
「それだけ……かな。仕事もして、友達も増えて、でも一番はミアのこと考えてた」
ミアが小さく笑う。
「私も、アヤのことばっかり描いてたよ。パリの街並みに、アヤの横顔を重ねて。誰も気づかないけど、私の卒業制作の半分はアヤだった」
「見せて」
「うん。今夜、アパートで全部見せる。荷物、まだ空港に預けてあるけど……今日はもう、離さない」
私はミアの髪を撫でた。四年分の寂しさが、触れる指先から溶けていくみたいだった。
その日の夜。ブルックリンのアパートに戻ると、ミアは私の部屋を懐かしそうに見回した。壁に貼ってあるのは、ミアが昔描いてくれた私の肖像画。埃をかぶってたけど、ミアは優しく指で拭いた。
「まだここにあったんだ」
「当たり前でしょ。捨てられるわけない」
ミアがキャンバスをいくつか広げ始めた。パリの風景の中に、私がいる絵。セーヌ川のベンチに座ってる私、エッフェル塔の下で笑ってる私、ルーブルの中庭で本を読んでる私。
「これ、全部アヤ」
「私、こんなにたくさんいたんだ」
「うん。毎日、会いたくて。描くしかできなかった」
ミアが私の頰に手を当てて、そっとキスをした。柔らかくて、懐かしくて、でも少し大人びたキス。
「これからは、毎日一緒にいよう」
「うん」
ベッドに倒れ込んで、互いの体温を確かめ合う。四年分の空白を埋めるみたいに、何度も名前を呼び合って、何度も肌を重ねた。ミアの指が私の背中をなぞるたび、涙が出そうになった。嬉しくて、愛しくて。
朝が来て、窓から差し込む光で目が覚めた。ミアが隣で眠ってる。睫毛が長くて、唇が少し開いてて、無防備で。
私はそっとミアの髪に触れた。
「愛してる、ミア」
寝息の中で、ミアが小さく呟いた。
「私も……ずっと」
ニューヨークは今日も忙しない。でも、私たちの時間は、もう止まらない。
これから先、何年経っても、毎朝一緒にQラインに乗って、同じ景色を見て、手を繋いで歩こう。
四年待った分、これからはずっと、二人で。
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(N.Y×百合)スケッチブック越しの距離 南條 綾 @Aya_Nanjo
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