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@nkishuppan

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一章

救急外来の自動ドアが開くたび、消毒液の匂いが一段濃くなる気がした。夜勤の終わりが近いはずなのに、空気の重さだけが増していく。隆一はカルテの束を指で揃え、白衣の袖口を引いた。袖の内側に、乾ききらない汗が残っている。




「次、咬傷です。野犬に噛まれたって」




看護師が言う「咬傷」は、季節の挨拶みたいなものだ。転倒、転落、交通外傷、そして噛まれた。街の端の河川敷や空き地で、犬に追われた子どもが来ることもある。隆一は顔を上げずに頷いた。診察室に入る前に、頭の中で手順を並べる。破傷風の確認、洗浄、感染症のリスク評価、必要なら抗菌薬。狂犬病は国内では稀だが、稀という言葉は「起きない」ではない。




「本人、ちょっと変です。怒鳴ってる」




隆一は一瞬だけペン先を止めた。怒鳴る患者は珍しくない。痛い、怖い、待たされた、金がない。理由はいくらでもある。だが「変です」と言うとき、看護師はたいてい別の何かを見ている。




診察室の扉を開けると、男の声が壁にぶつかって跳ね返ってきた。




「だから、俺は噛まれただけだって言ってんだろ。何が感染だよ。こっちは痛いんだよ」




四十代に見える。作業着の上着の袖がまくり上げられ、前腕にガーゼが巻かれている。血が滲んで、白が暗赤色に変わっていた。目は見開かれている。焦点が合っていない、というより、合っているのに固定されない。視線が落ち着かず、隆一の顔を掠めては壁を舐める。




「お名前と、生年月日を確認します」




隆一がいつもの声で言うと、男は一拍遅れて鼻を鳴らした。




「高橋だ。昭和…いや、そんなの今いるか?」




「必要です。確認できないと処置が進められません」




言い方が硬いのは、癖でもあるし、鎧でもあった。隆一は椅子に座らせることを優先し、男の前腕を覗いた。歯形が深い。犬の咬傷は裂ける。皮膚が剥がれ、筋肉の浅いところが覗く。洗浄しなければ壊死する。だがそれより、隆一の目に引っかかったのは、男の首筋の汗だった。冷房の効いた診察室で、汗が玉になっている。


「噛まれたのはいつですか」




「今日の夕方。河川敷。仕事帰りだ。あいつがいきらり…」




男は言いかけて、舌がもつれる。自分でそれに気づいたのか、口元を歪めた。




「酒は?」




「飲んでねえ。…飲んでねえって」




隆一は、男の声の反復に、妙な違和感を覚えた。確認のためではなく、言葉を自分に貼り付けるみたいに繰り返す。




「犬は飼い犬ですか。野犬ですか」




「野犬だよ。首輪もねえ。毛が汚くて、目が…目が、妙に光ってた」




「捕獲は?」




「知らねえよ。逃げた。追ってねえ」




隆一は心の中で線を引いた。野犬。捕獲できていない。狂犬病は否定できない。だが国内で狂犬病の報告は長らくない。そういう「前提」に寄りかかる医療は、結局、患者を死なせるときにだけ前提の薄さが露呈する。




男が突然、椅子から立ち上がった。




「おい、いつまで待たせるんだよ。さっさと縫えよ」




距離が詰まる。隆一は反射的に椅子を半歩引いた。武器を持っていない相手に対して、体がそう動く自分を嫌悪する。医師は怖がってはいけない、という理想は知っている。だが診察室で襲われるのは、理想では防げない。




「座ってください」




声の圧を少しだけ強くする。命令に近い。男の肩がぴくりと震え、次の瞬間、口が笑う形になった。




「偉そうに。医者ってのは…」




その言葉の途中で、男の表情が変わった。笑いが引っかかる。頬が赤くなる。唇が乾いたまま震える。怒りが、頭の中で段階を踏まずに噴き出すような変化だった。




「医者ってのは、何だよ。何様だよ。お前、俺の腕見てんのか? 見てるだけか?」




男はガーゼの上から自分の腕を叩いた。血が一筋、肘側に流れた。隆一は、男の目を見た。瞳孔が開いている。息が荒い。水を飲んだような唾液の溜まり方をしている。狂犬病の教科書的な所見が、いくつか頭をかすめては消える。だが目の前の男は、言葉が通じる。質問に答えている。怒鳴っている。




「落ち着いてください。腕の処置をします。まず洗います」




「洗う? 何でだよ。縫えばいいだろ。早くしろよ」




隆一は、怒りの波が異様に速いことを記憶に留めた。急性のせん妄。薬物。アルコール。低血糖。脳血管。いくつかの可能性。そこに、噛傷という事実が重なる。だが「未知」という言葉を口にした途端、医療は宗教に近づく。




「看護師さん、抑制具を準備して」




抑制具という単語を出すと、男は瞬間的に静かになった。静かになったが、落ち着いたのではなく、音が吸い込まれたみたいに、怒りが内側に沈む。




「おい。何する気だ」




「暴れて怪我が悪化します。安全のためです」




「安全? 誰のだよ」




男の視線が隆一の喉元に落ちた。犬の歯形と同じような想像が、頭の中を横切る。噛まれる。病院で。救急外来で。笑い話にならない想像なのに、あり得ないとも言い切れない。




その瞬間、男は自分の腕に顔を近づけ、ガーゼの端を歯で引きちぎろうとした。まるで、自分の傷口を確かめるのではなく、噛むという行為そのものを思い出すみたいに。




看護師が二人、素早く距離を詰めた。隆一も手を伸ばす。抑え込む動きは訓練の範囲内だ。押さえつけるのではなく、支える。だが男の力は異様に強かった。肩甲骨の奥がきしむ。腕の筋が浮き、皮膚が紅潮していく。




「やめろ、離せ、てめえら…」




言葉が崩れ、唾が飛んだ。唾が白く糸を引く。狂犬病という単語が、もう一度、頭の中で鳴った。隆一は唾が飛んだ位置を無意識に避けていた。




ようやく男が椅子に押さえ込まれたとき、急に、男の表情が抜けた。怒りの筋肉だけが疲労で緩む。目の焦点が揃い、口元が人間の困惑に戻る。




「…すみません」




弱い声だった。さっきの声と同じ器から出てきたとは思えない。




「俺、何してた?」




隆一は返答を一瞬躊躇った。正直に言うべきか。だが目の前の男は、今この瞬間は「普通」に見えた。恐怖に揺れている普通の人間だ。危険な獣ではない。




「暴れていました。腕が痛くて、不安だったんだと思います」




男の目に涙が溜まった。羞恥と恐怖が混じった涙だ。




「俺、噛んでないですよね。人を。噛んでないですよね」




その問いは、噛まれた側の問いではなかった。噛む側の問いに見えた。隆一はその違和感を胸の奥に押し込め、淡々と処置を進めた。洗浄の水音が診察室に響く。男は歯を食いしばり、痛みに耐えた。耐えている姿は、どこにも異常がない。




隆一は、カルテに「突発的興奮」「一過性の意識混濁」と書いた。これだけでは、後から読んだ誰もが「よくある」ケースとして処理するだろう。だが、自分の指先が、ほんの少しだけ震えていることに気づいた。




処置が終わり、男を観察室に回す手配をした後、隆一は廊下に出た。救急外来の蛍光灯が、目に刺さる。看護師が低い声で言った。




「先生、あの人、怖いですね」




「怖いで済ませると、診れなくなる」




隆一はそう言ってしまった。言い過ぎた、と思ったが取り消さなかった。医療は、怖いものを怖いと言い続ける仕事ではない。怖いものを分類し、手順に落とし込み、誰がやっても同じように処理できる形にする仕事だ。そのために人間を見ないふりをする瞬間がある。




それでも、胸の奥の違和感は消えなかった。言葉が通じる時間と、通じない時間。落差。突然の衝動。そして「噛んでないですよね」という問い。




隆一は休憩室でコーヒーを淹れた。紙コップの縁から湯気が立つ。スマートフォンを開くと、妻の理沙からメッセージが来ていた。




「今日は何時? 凪沙がパパと一緒に散歩行きたいって。犬も待ってるよ」




隆一は、画面を見つめる時間が少し長くなった。犬、という単語が、診察室の唾の糸と結びつきそうになったからだ。頭の中で勝手に結びついているだけなのに、嫌な気配がする。




「夜勤で遅い。先に寝てて」




送信してから、隆一は付け足しそうになった。「散歩は明日」。だが明日という言葉が、何かを軽くする気がして、消した。


―――――――――――


数日後の午前中、病院の会議室にメディアが入った。市内で「噛みつき事件」が起きたというニュースが流れ始めていた。電車の車内で、男が突然隣の乗客の腕に噛みついた。駅員が取り押さえたが、男は暴れ、数人が負傷。動画がSNSに上がり、見開かれた目と赤い顔、意味のない怒鳴り声が「ゾンビみたいだ」と拡散された。

この拡散に乗じるかのように、「似た感じの人を見た」「人に噛まれた」「噛まれそうになった」という投稿が相次いだ。



ネットの拡散力は凄まじいもので、数日のうちに「怒り、紅潮した顔、見開いた目、噛みつき」という症状は伝染する病ではないかという世論が広まった。SNS上の「有識者」もその意見を支持しており、この話題はまたたく間に世間の注目の的となった。




会見の席に隆一が呼ばれたのは、第一例と思われる患者を診たからだった。病院側は慎重な言い方を用意していた。「原因は調査中」「冷静な対応を」。だが、記者は冷静を求めていない。恐怖の形を言葉にして欲しがっている。




インタビューのライトが眩しい。隆一はカメラの前で、医師としての言葉を選んだ。だが選ぶほど、どこかで自分の本音に近づいていくのを感じた。




「現時点で感染症であると断定はできません。感染経路があるとすれば、体液を介するもの。具体的には咬傷、接触、あるいは性交渉などが疑われます。過去の感染症の経験から、過度なパニックは避けるべきです」




記者が食い下がる。




「先生、感染者とされる人たちをどう扱うべきだと思いますか。隔離は人権侵害だという声もあります」


「感染者」。世間では新たな感染症として既に認知が進んでいるということだ。


隆一の口が勝手に動きそうになった。人権。侵害。声。言葉の順番がうるさい。目の前には、噛まれた腕の裂け目がある。噛みつかれた駅員の皮膚がある。守るべき対象がある。理沙と、凪沙と、翔と、家で尻尾を振る犬がいる。




「感染症対策は、個人の自由より優先される局面があります」




隆一は、言い切った自分に驚かなかった。驚く余地がないくらい、その結論は胸の内で固まっていた。




「必要な隔離は実施すべきです。危険性が高い場合、医療的観点からは、本人の苦痛を最小化する選択肢も検討されるべきだと考えます」




誰かが息を呑む音がした。記者の目が光った。言質が取れた、という光だ。隆一はその光を、見ないふりをした。現実は言葉より重い。自分が守りたいものは、言葉では守れない。だからこそ、言葉で先に柵を作る必要がある。




会見が終わると、廊下で同僚の医師が肩を叩いた。




「言い過ぎだぞ。安楽死って」




「言い過ぎでも、遅いよりはいい」




隆一は即答した。胸の奥の違和感が、別の形に変わっているのを感じた。違和感ではなく、確信に近いもの。これが広がれば、社会は必ず割れる。割れたとき、家族は守れる側に置かれなければならない。




その日の夜、帰宅すると、玄関に犬用の小さな口輪が置かれていた。凪沙が、何かの動画で見たらしい。プラスチックの白いものが、玩具みたいに軽い。




「パパ、これね、犬が噛まないようにするやつだって。みんなつけるようになるのかな?」




凪沙は笑いながら言った。笑いながら、隆一の顔を見上げている。隆一はその目線を受け止めながら、心のどこかで冷たい計算をしていた。


人が噛まないためのものが流行る社会。犬に付けるものが、人に付く社会。




「そうかもしれないな」




返事は、父親として正しい。だが胸の奥で、別の声が小さく囁いていた。正しさが、人を救うとは限らない。正しさが、人を殺すこともある。




凪沙がふいに言った。




「パパ、最近、ちょっと怖いよ」




理沙がすぐに笑って打ち消す。




「仕事が忙しいのよ。パパは疲れてるだけ」




隆一は笑うタイミングを計った。笑えないほどではない。だが笑ってしまうと、凪沙の言葉が嘘になる気がした。

あの患者の叫ぶ声や、顎をつたう唾液が頭から離れない。そして、正気に戻ったあとの涙も。もし伝染する病気だとしたら?


凪沙はまだ何も知らない。だが何かを感じ取っている。感じ取ってしまう家族を守るために、隆一は何を切れるのか。




その夜、スマートフォンの画面には「スリップ」という言葉が流れていた。誰かが作った俗称だ。「突然キレて噛むやつ」「スリップしたら終わり」。軽い言葉で重いものを扱う。そうして恐怖を飼い慣らすのが人間だ。




隆一は画面を閉じ、暗いリビングに座った。犬が足元に顎を乗せ、眠そうに瞬きをした。隆一は犬の頭を撫でようとして、指先を止めた。自分があの日診た男の汗の匂いが、まだ指に残っている気がしたからだ。




違う。そんなはずはない。洗った。手は洗った。消毒した。何度も。




それでも、何か滞りのようなものが胸の内に残っている。




隆一はリビングの時計を見た。秒針が正確に回っている。その正確さだけが、少し怖かった。

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