第1話 欠落の庭園
第一話 欠落の庭園
残酷なゲーム開始から、数時間前……
十月の陽光は、透き通った蜂蜜のように街を濡らしていた。
窓を開ければ、どこからか金木犀の甘く重い香りが紛れ込み、舗道には銀杏の葉が影を落とす。
行き交う自転車のベルの音、遠くで響く工事の喧騒、そしてどこにでもある住宅街から漏れ聞こえるテレビの音。
それらすべてが、精巧に編み上げられたレースのように、完璧な「日常」という調和を保っていた。
舞台となる大学の構内もまた、活気に満ちた、しかしひどく平穏な昼下がりの中にある。
噴水の周りでは、手持ち無沙汰な学生たちが学食のパンを齧りながら、明日の予定や、来週のレポートの愚痴を交わしている。
サークル棟からは、軽音部が奏でる不揃いなドラムの音が漏れ、テニスコートには乾いた打球音が規則正しく響く。
校舎の影、図書館の静寂、並木道を吹き抜ける乾いた風。
そこには、暴力の気配などどこにもなかった。
世界は、これからも永遠にこの緩やかな退屈を反復し続ける――誰もがそう信じて疑わない、無防備なほどの平穏。
見上げる空は、吸い込まれるような蒼さで、雲ひとつない。
その完璧なまでの青が、まるでこの後に訪れる凄惨な出来事をあざ笑うかのように、静かに、ただ静かに広がっていた。
この時、この場所に集う数千人の若者たちは、まだ誰も知らなかった。
自分たちが踏み締めているこの穏やかな大地が、数時間後には「
時計の針が、非情な速度で「その時」へと向かって刻まれていく。
それが、崩壊前の最後の一時であることを告げるように。
その眩しすぎる青空を、一人の平凡な男子学生は学食の湿った空気の中から見上げていた。
喧騒は、彼にとって水槽の底で聞く雑音のようだった。
サークルの連中が囲む長机の端、彼はトレイに載った冷えかけのうどんを割り箸で弄ぶ。
「……でさ、今度の合コン、人数足りないんだけどワダツミも来れるっしょ?」
同期のサークル生。
大学内で飽きるほど鼻を突かれた香水の匂いが漂い、金髪に染められた髪の毛が視界へ強引に入り込む。
「あ、えっと……その日はちょっと」
「あはは、またかよ。お前、ほんと付き合い悪いなー」
悪気のない笑い声。
だが、それは凌之助の耳を素通りしては、胸の奥底に澱のような重苦しさだけを沈殿させていく。
彼は自分の名前を呪った。
凌之助。
この無駄に立派な名前の通りに、堂々と、あるいは鮮やかに生きる方法を彼はまだ知らない。
中学時代の、あの湿り気を帯びた執拗な悪意がまだ背中の皮一枚下にへばりついている気がして、彼は不意にスマホへ逃げ込んだ。
画面の中にだけある、誰とも繋がっていない、しかし誰も自分を拒絶しない世界。
誰かに必要とされ、この透明な孤独から掬い上げてほしい。
「はぁ……」
その切実な願望を、彼は安いうどんの、出汁の効きすぎた汁と一緒に無理やり飲み込んだ。
同じ頃、薬学部の自習室には、薬品の匂いと張り詰めた静寂が満ちていた。
白のTシャツに、穿き込まれたデニム。
機能性を重視したその装いは、彼女の飾り気のない、しかし強固な意志をそのまま形にしたかのようだった。
「……よし。次は公衆衛生学」
独りごちてペンを置く。
彼女の背筋は、座っていてもなお、道場の畳の上にいる時のように凛として揺るがない。
彼女の目標は明確だった。
警察官になり、弱きを守る盾となること。
幼い頃から武道で鍛えられたその身体は、正義という言葉の重みに耐えうるだけの芯を備えている。
しかし、強制されたエリートへの道。周りの羨望と期待が、その目標を阻害していた。
警察官という夢を捨てきれないまま、彼女は薬学部に、生真面目さだけを武器に踏み入った。
窓から差し込む秋の陽光が、彼女の少し日焼けした肌を健康的に照らしていたが、その表情は真剣そのものだった。
正義を象徴する職につき、弱きを助け、悪しきを挫く。そんな憧れ。
だが、その正しさが、やがて来る「暴力が唯一の正解」となる不条理にどう立ち向かうべきか。
まだ、彼女の正義は、本物の血の匂いを知らなかった。
「やっべ、急がなきゃ……」
時計をちらりと見て、慌てて駆けだす。
揺れるショートヘアが、廊下の奥へと消えて行った。
図書館のテラス席。
九条・エリザ・リエルヴィクトリアは、ダークパープルのサテンシャツに黒のスラックスという、学生街には不釣り合いなほど鋭利なモードを纏って座っていた。
夜間制に在籍している彼女には、慌てて講義に走る学生など蚊帳の外の出来事だ。
彼女はクォーター特有の透明感ある髪を指で遊びながら、優雅に、静謐に腰掛けている。
膝に置かれた最新のファッション誌を捲る指先には、計算された輝きを放つリングが嵌められていた。
彼女はときおり、スムージーのストローを噛みながら、キャンパスを行き交う学生たちを「観察」していた。
「………………。」
彼女だけは、空の青さがわずかに「淀んでいる」ことに気づいていた。
最近の気象異常。
電波障害。
そして、背筋を撫でる不吉な予感。
彼女にとって流行の服は、自分という猛毒を隠すための、最も美しいカモフラージュに過ぎなかった。
彼女はスムージーを一口啜り、あまりの甘さに眉を顰めた。
本物の日常は、いつだって彼女には甘すぎた。
校舎の屋上、剥き出しのコンクリートの上に、彼は座っていた。
フェンスに背を預けたその姿は、賑やかなキャンパスの風景から切り取られ、そこだけ色彩が抜け落ちているかのような錯覚を抱かせる。
身に纏っているのは、一切の装飾を排した黒のタートルネック・ニットと、脚のラインに完璧に沿った同色のスキニーパンツ。その黒は、十月の陽光を吸い込み、跳ね返すことさえ拒んでいる。
目を引くのは、そのあまりに中性的な肢体の曲線だった。
男にしては肩のラインが華奢すぎ、女にしては胸元から腰にかけての凹凸が皆無に近い。
厚みのない身体を包むタイトな布地は、贅肉を削ぎ落とした彫刻のようなしなやかさを描き出しているが、そこには生物としての生々しい「性」の気配が欠落している。
風が吹き抜け、漆黒色の淫靡な髪が陶器のように白い頬を撫でた。
長く、密度のある睫毛に縁取られた瞳は、ただ一点、何もない空を反射している。
瞬きは極端に少なく、呼吸の気配さえ希薄だ。
その横顔を通りがかりの誰かが見れば、誰もが息を呑み、そして次の瞬間には正体不明の寒気を覚えるだろう。
美しすぎる。
だが、その美しさは生命を讃えるためのものではなく、どこか完成された無機物に近い。
整いすぎた鼻梁、薄い唇、細い指先。そのパーツのすべてが、人間という種が持つ「揺らぎ」を一切許さず、静謐な沈黙の中に収束している。
感情の読み取れないその眼差しは、ただ、透明な虚空を眺め続けている。
賑やかな階下の喧騒も、秋の穏やかな光も、その瞳を通り抜けて消えていく。
そこに座っているのは、ひとりの大学生というよりも、間違えて人間の群れの中に置かれてしまった、正体不明の「美しい何か」だった。
「…………………………。」
二
「あぁ……、そういえば」
莉瑠蘭は、弾かれたように立ち上がったわけではなかった。
ただ、そこに置いてあった人形が、ぜんまいを巻かれたかのように、淀みのない動作で重力に従い、歩き出した。
――……面倒だなぁ。
それだけのことだった。
屋上から大講義棟へと続く階段を下り、メインストリートへ足を踏み入れる。
そこは、十月の陽光を浴びて弾けるような若さと、色彩に溢れていた。
献血の参加募集に声を張り上げる学生、笑いながら突つき合いをするカップル、コンビニの袋を提げて歩く二人組。
その極彩色の群れの中を、莉瑠蘭は一筋の影のように通り抜けていく。
「……っ」
すれ違う学生たちの肩が、微かに揺れる。
ある者は歩みを止め、ある者は友人の腕を掴んで耳打ちした。
「ねえ、あの子……」
「モデル? どこの大学の人……?」
「ヤバくねぇ?」
性別を問わず投げかけられる、驚嘆と羨望を孕んだ視線の矢。
それらは莉瑠蘭の陶器のような肌を滑り落ち、彼女の意識に届くことはない。
黒のタートルネックに包まれた細い首筋、歩くたびにしなやかに動くスキニーパンツに包まれた脚。
その完璧なシルエットは、周囲の学生たちの着る「カジュアルな大学生ファッション」を、一瞬にして色褪せた舞台衣装のように変えてしまう。
本人は、ただ億劫だった。
「休講になんないかなぁ……」
欠席可能回数が残り1回に差し掛かった講義。それを消化するためだけに、彼――または彼女――は重い身体を運んでいる。
自分を包囲するその視線も、囁き声も、彼女にとっては遠い異国の雨音と同じ、無意味なノイズだった。
「あ、リルラ! おはよー、今日来るなんて珍しいじゃん」
大講義棟の入り口近くで、聞き覚えのある声がした。
退屈しのぎに顔を出している文化系サークルの友人たちが、数人、手を振りながら駆け寄ってくる。
「あ……うん。おはよ」
莉瑠蘭は、いつものように穏やかだが、極端に抑揚の低い声で応じた。
「昨日の課題やった?」
「この後の飲み、リルラも来るでしょ?」
友人たちが、莉瑠蘭を日常の側へと引き戻そうと、賑やかに、無邪気に言葉を投げかける。
一人が親愛の情を込めて莉瑠蘭の細い腕に触れた
人付き合いは決して悪くない。
誘われれば頷き、振られた話題には静かに答える。
だが、その内側には、誰の手も届かない透明な壁が聳え立っている。
友人たちと並んで歩きながらも、莉瑠蘭の瞳は彼女らの顔を見てはいなかった。
不意に、莉瑠蘭が立ち止まった。
「……? リルラ、どうしたの?」
友人の問いかけに答えず、彼はわずかに顎を上げた。
スンスンと、何かの匂いを探るように、薄い鼻翼を小さく揺らす。
学生たちがまとう安っぽい香水、学食から漂う油の匂い、切り取られたばかりの芝の香り。
そのどれでもない、もっと鋭利で、ひどく懐かしい「鉄」の匂いが、風の隙間に混じっていた。
「……あは」
彼女の唇が、薄く、しかし明確に弧を描く。
"この国に来て"から一度も見せたことのない、感情の芯が通った笑み。
周囲の学生たちが一瞬、そのあまりの美しさに呼吸を忘れるほどの、瑞々しいまでの狂気。
「なんか……楽しくなりそうな予感」
呟きは、隣を歩く友人たちの耳には届かなかった。
彼女の瞳には、平和なキャンパスの風景ではなく、その向こう側に広がる赤黒い世界の胎動が映っていた。
講義開始数分前。
莉瑠蘭は友人らと一緒に講義室の長テーブルへと腰掛けた。
いつから座っていたのかと僻みたくなるほど、後ろ側の席は学生らで埋め尽くされていた。
「まじかよー、やっぱ早めにくるべきだったわ」
友人の一人である、男子学生が後頭部を掻きながら呟いた。
「えー、スマホ触れるかなぁ」
隣の女子学生も口を曲げてボヤく。
「ぴ逃げしなーい?」
薄い金髪に染めた髪を撫でながら、後ろにいる女子学生が声を上げる。
「けど中間試験近くなかったけ? 絶対説明されるってぇ」
ボブヘアの女子学生が他友人を見ながら言った。
そんな愚痴を他所に、莉瑠蘭は静かに財布から学生証を取り出し、入口近くの出席を取る読取機に学生証を翳した。
ぴこん。
そんな軽快な音がなり、画面には「歴史学Ⅱ 蓮倉 莉瑠蘭 出席」の青文字が表示される。
そのまま、莉瑠蘭はスタスタと歩き出した。
「え、待ってよぉ」
そう言って女子学生らが追いかける。
講義室やや中央の右端にある長テーブルへと腰を下ろす。
「おっ、良い感じの位置じゃん。さすがリルラ」
「ありがとう」
ロングコートを畳みながら、最低限のお礼を口にする。
「座んないの?」
頭を傾け、横に立ったまま座ろうとしない男子学生二人を眺める。その抑揚のない言葉は誘いのセリフではなく、単純な疑問だった。
「い、いや……。オレは後で座るわ……。あ、山中おまえ先座っていいぞ」
「なんで俺なんだよっ。おれは端っこが良いんだけど」
必死に平静を装い、演技をして誤魔化している。
先程から莉瑠蘭にかける声や目線はたどたどしく、毎度のこと赤く染った頬と動揺心を隠すような仕草は、未熟な男子大学生独特の臭さが漂い、なんとなく見心地が悪い。
「だめ、リルラの隣は私〜」
すかさず、金髪の女子学生が隣に座り笑みを浮かべる。
「ずるぅ、じゃアタシ反対側の隣りー」
ボブヘアの女子学生は莉瑠蘭の左側に腰を掛けた。
急かすようにチャイムが鳴り、残りの学生も慌てて席に着いた。
莉瑠蘭は早速スマホを取り出し、暇つぶしとして画面を眺める。
「ねぇ、佐山」
目線はスマホのまま、一方の男子学生に声を掛けた。
「え?」
そう言って莉瑠蘭の方を向くも、顔を上げ目線を合わせた瞬間、視線はそらされた。
「この講義、だるい?」
顔の向きはこちらに向いているが、視線は取り繕うようにしているものの合う事はない。
「佐山ってたしか全部出てるよね。僕初めてなもんで」
「おい、エグお前。この授業四単位だぞ……。
別にダルくはないかな、普通って感じ」
言い終える前に、教壇に立った教授がマイク越しに
「はい、では講義を始めたいと思いますー」
と淡白に述べた。
「そっか。じゃあいいや」
莉瑠蘭はそう呟きを残して、視線をスマホに戻す。
ボーッと画面を眺めながら、教授の声を聞き流していく。
――『キャンパスライフ』か。…………なんか違うんだよなぁ。ま、いっか。ちょっと楽しいし。
そんな事を考えながら、鼻で溜め息をする。
口を曲げ、不満を顕にした表情は、テーブルの光沢に吸われていった。
三
「そんなんじゃ大学生活損するぜ?」
またもや、悪気のない笑い声が響く。
「……あはは、そうっすね。すんません」
適当に合わせた相槌が、空気に馴染まず虚白く霧散する。
居心地が悪い。
それなのに、彼はこの席を立つことができない。
一度この場を離れれば、二度と自分を繋ぎ止める居場所がなくなるのではないかという恐怖。
透明な孤独に完全に飲み込まれてしまうことへの焦燥。
サークルにしがみついているのではない。
サークルという名の「普通の人間のふり」に、必死に指をかけているだけだった。
それ以外で、友人を作れるコミュニティは無い。大学で人と関わる機会はほぼ無い。
そんな焦燥感と、大学への憧れを後悔するように、凌之助は一つの希望を抱くようにこの「飲みサー」にへばりついていた。
しかし、そんな命綱は皮肉にも、彼の首を絞めている。
もう、何処に向かえばいいのか、どうすれば良いのか分からなくなり始めていた。
いたたまれなくなり、飲みきれなかった汁を残して席を立つ。
「すんません……。次授業あるんで、これで……」
作った愛想笑いを貼り付けて、近くの学生へと声をかける。
「え? あー、おう」
数人は視線を送るものの、返事を返したのは近くの二人だけ。その返事も適当に聞こえ、相手にされていない雰囲気が刺さる。
そんな細かい要素に目が行く程に、凌之助は滅入っていた。
トレイを返却し、出口へと向かうスロープで、前方から歩いてくる規則正しい足音に凌之助は顔を上げた。
迷いのない、アスファルトを確信を持って叩く音。
「あ、和田毅くん。お疲れ様。次の講義?」
「えっ、あ、うん。お疲れ、竜胆川さん」
すれ違いざま、凛咲が立ち止まらずに軽く手を挙げた。
白のTシャツに、穿き込まれたデニム。秋風に揺れるショートヘアが、彼女の清潔な横顔を際立たせている。
高校時代から変わらない、真っ直ぐな、太陽のような快活さ。
凌之助は、彼女の背中を数秒だけ見送った。
「……見習いたいよな、ほんと」
呟きは風にかき消された。
自分とは対極にいる「正義」と、揺るぎない「個」。
彼女の背中を見るたびに、自分の卑屈さが浮き彫りになるようで胸がチクリと痛む。
彼女のように、自分の足で、自分の意志で、この世界を歩いてみたい。
だが、今の自分にあるのは、誰かの顔色を窺って削り取られた、輪郭のぼやけた自分だけだ。
ぼんやりと歩きながら、彼は不意に、参加したサークルの飲み会の夜を思い出していた。
――……そういえば、あの人も。
ふと思い浮かんだのは、凛咲のように、見習いたくなる程の強かさと「個」を持った、一人の人物。
中性的な顔と体つき。
しかし圧倒的な美貌。
――…………蓮倉 莉瑠蘭さん、か。
あの時出会った瞬間は、今も鮮明に思い出せる。
きっかけは、サークルの先輩たちの下卑た騒ぎようだった。
「おい聞いたか、文化系サークルにマジでえっぐい美少女がいるらしいぞ」
「ハーフか何か?」
「今日、無理言って連れてきてもらうからな」
そんな期待に膨れ上がった居酒屋の座敷に、莉瑠蘭は現れた。
友人に腕を引かれ、嵐に巻き込まれた迷子のような足取り。けれど、その瞳には困惑も高揚もなく、ただ「そこに連れてこられたからいる」という圧倒的な無関心だけが宿っていた。
「蓮倉 莉瑠蘭です。よろしくお願いします」
まるで興味の無いような、抑揚の皆無な自己紹介。
「リルラさんでーす! ほら、ガチで可愛くない?!」
隣の女子学生か、莉瑠蘭の肩を掴み掲げるかのように声を上げた。
ざわめく学生らと、投げかけられる声には関心を示さないように、目線は居酒屋のメニューとカウンター奥に置かれたお酒のみ向いているように見えた。
――り、リルラ……?
なんとも珍しい名前。
自分の名前が霞む程に、聞いた事のない名前だった。
座布団に腰を下ろした今でも、「名前、もっかいきいていい?」などの声が掛けられている。
聞きなれないゆえ、これまででも恐らく毎回聞き返されていたのだろう。
――……すっごいな。
高嶺の花。
凌之助は尻目で莉瑠蘭の事を伺っていた。
すかさず、幹事の学生が乾杯の挨拶をする。
宴が始まれば、そこは凌之助の最も嫌悪する空間へと変貌した。
「俺、別に顔で選ぶタイプじゃないからさ」
とクールを装いつつ、隙あらば莉瑠蘭の隣を狙う男。
「イッキしまーす」
「おいやめとけって! ギャハハ」
酒の強さを誇示するように一気飲みを繰り返す、赤ら顔の連中。それを字句の上だけで制止し煽る者。
そして、その狂乱の矛先は、端の方で大人しくしていた凌之助にも向けられた。
「あ、そうだ。こいつ、一年で一番名前がイカつい和田毅! ……なんだっけ? リョウノスケ!」
「そうそう、ワダツミってオレら呼んでるわ!」
先輩が凌之助の肩を乱暴に抱き寄せ、莉瑠蘭に向かってニヤニヤと笑う。
「すごくね? 令和に『凌之助』だぜ。戦国武将かよ。ワダツ・リョウノスケ! ほら、なんか面白いこと言って自己紹介しろよ」
周囲からドッと下品な笑いが起きる。
凌之助は、顔が熱くなるのを感じた。
羞恥と、それを愛想笑いで誤魔化さなければならない自分への嫌悪。
「……あは、は。いや、親がちょっと、古風なものが好きで……。たどたどしくて、自分でも名前負けしてるって思ってるんですけど」
自虐を混ぜた、無様な苦笑。
それがこの場を切り抜けるための、いつもの「正解」だった。
だが、その笑いを遮るように、静かな声が響いた。
「……和風で、良いじゃん」
声の主は、莉瑠蘭だった。
彼女は、目の前の騒がしい男たちには一度も向けなかった視線を、尻目で凌之助へと注いでいた。
「……え?」
「かっこいいと思うけど。……凌之助。僕も、そんな名前が良かったなぁ」
莉瑠蘭は、箸で皿の隅の枝豆を弄びながら、淡々と言葉を継いだ。
「強そう。君に、似合ってるじゃん」
その場が一瞬、静まり返った。
ナンパの機会を伺っていた男たちが呆気に取られる中、凌之助の心臓だけが、それまでとは違う理由で大きく跳ねた。
彼女の瞳には、何の裏もなかった。
誰かを励まそうという慈愛も、場を凍らせようという悪意もない。
ただ、目の前の料理の盛り付けを褒めるのと同じ温度で、彼女は凌之助の名前を肯定した。
実際、莉瑠蘭にしてみれば、それは深い考えに基づいた言葉ではなかっただろう。
脳死状態で、ただ口をついて出ただけの感想。
数分後には言ったことさえ忘れてしまうような、気まぐれな一言に過ぎない。
けれど、凌之助にとっては違った。
周囲に馴染もうと必死で自分を削り、名前さえも笑いのネタとして差し出していた自分を、彼女の無機質な言葉が、鋭く、優しく貫いた。
――俺の名前、かっこいいって、言ってたな……。
莉瑠蘭がその後、誰の誘いにも乗らず、死んだ魚のような目でウォッカトニックを啜り続けていたことも。
最後には、
「皆潰れてるし、眠いから帰るね」と、空気を読まずに一人で立ち去ったことも。
そのすべてが、凌之助の目には、この醜悪な飲み会の中で唯一「本物」であるように見えた。
親からもらった、自分でも持て余していたその名前を、初めて「肯定」された瞬間。
凌之助は、自分がこの世界の片隅に、確かに一つの「個」としてピン留めされたような奇妙な感覚を覚えたのだ。
――莉瑠蘭さん……。あの人、今日大学来てるのかな。
思い浮かんだ、あの無機質なまでに美しい横顔。
凛咲のような太陽の光ではなく、夜の湖のような静かな肯定。
凌之助は、ポケットの中でスマホを握りしめた。
その掌の中で、まだ誰も知らない「崩壊」の予兆が、微かな熱を帯び始めていることにも気づかずに。
四
教授の淡々とした素早い喋りが、講義室の隅々に響き渡っていた。
まるで生徒を気にしていないかのように、黒板に羅列されては消される数式や専門用語、重要と言いながらもスピードを落とさない化学式の解説。
凛咲は、分厚い資料集のページに噛みつくような視線を注いでいる。
――……ここで落としたら、次はもうない。
彼女は今、学業において崖っぷちに立っていた。
名門の進学校を卒業し、現役で薬学部へ。
周囲からは「優秀なエリート」と見なされていたが、実態は違った。
もともと要領が良いタイプではない彼女は、人一倍の睡眠時間を削り、文字通り「気合い」だけでこの過酷なカリキュラムにしがみついている。
ふと、ノートの余白に目を落とすと、無意識に描いた「桜の代紋」のような図形があった。
彼女は小さく吐息をつき、それを黒く塗り潰す。
本当は、警察官になりたかった。
悪を挫き、困っている誰かに手を差し伸べる。
そんな古風で真っ直ぐな憧れは、厳格な両親の「これからは資格の時代だ」「家系に見合った安定を」という言葉に、音を立てて押し潰された。
催促されるがままに進学校へ入り、言われるがままに薬学部を選んだ。
彼女の持つ「正義」は、今や行き場を失い、処方箋の知識と化学式の中に閉じ込められている。
講義があっという間に終わり、薬学部棟を後にする。
眉間に皺を寄せながら、付箋が貼られたルーズリーフを取り出し、ゆっくりと歩き出す。
「あ、凛咲! またこんなところで根詰めてる」
不意に背後から声をかけられ、凛咲は反射的に背筋を伸ばした。
「あ……お疲れ様。ちょっと、次の小テストが不安で」
「もー、真面目すぎ! たまには息抜きしなよ」
「あ、今日の放課後、駅前にできたパンケーキ屋行かない?」
サークルの友人たちが、屈託のない笑顔で誘ってくる。
「パンケーキ? いいね、行こうかな。その代わり、三十分だけこれ終わらせていい?」
続けて「ゴメン」と短く言って、手を合わせる。
「やった! じゃあ2号館前で待ってるね!」
友人たちが去っていく背中を見送りながら、凛咲の口元に自然と柔らかな笑みが浮かぶ。
彼女の根底にある「人の良さ」は、決して偽善ではなかった。
自分を追い込み、無理をして今の場所にいる彼女にとって、友人たちとの他愛ない時間は、唯一自分が「普通の人」でいられる救いでもあった。
彼女は再び歩みはじめる。
警察官への夢を諦めた自分を、情けないと思う夜もある。
けれど、たとえ望んだ道ではなくても、ここで投げ出すことは自分自身の正義が許さない。
――……警察官にはなれなかった。でも、人を助ける方法は一つじゃないはずだから!
自分に言い聞かせるように、彼女は頭に先程解説された化学式を思い出すように刻み込む。
今やペンを握っているばかりの指先が、武道で鍛えられたために少しだけ硬くなっていることを、彼女は誇りに思っていた。
その強さが、数時間後に訪れる「正解のない地獄」で、彼女をどれほど苦しめ、そして突き動かすことになるのか。
凛咲はまだ、自分が守ろうとしているこの「平和」が、あまりに脆い薄氷の上に成り立っていることを知らずにいた。
五
九条エリザは、衣服を風になびかせ、大講義棟へと続く並木道を悠然と歩いていた。
彼女が歩くたび、腰元のシルバーチェーンが硬質な音を立て、周囲の喧騒を切り裂いていく。
その凛とした佇まいは、まるで獲物を探す雌豹のような、静かな威圧感を放っていた。
「あたし今日バイト夜勤だわ。いやだー」
「朝キツイんだよね。エリザ夜間制だよね? 羨ましいー」
傍らにいる友人らが、愚痴のように呟きを零す。
エリザは「夜間制も大変よ」と静かに返答をする。
ふいに、その正面から、一団の学生たちがやってくる。
中心にいるのは、黒のタートルネックとチャコールグレーのロングコートに身を包んだ莉瑠蘭だった。
友人たちに囲まれ、気だるげに歩くその姿は、周囲の熱狂を吸い込んで無効化してしまうような、圧倒的な「虚」を纏っている。
二人の距離が、数メートルまで近づく。
すれ違う直前、エリザの切れ長の瞳が、莉瑠蘭の顔を真正面から捉えた。
――…………。
エリザの脳内で、警告音が鳴り響く。
人形のような美貌。だが、その瞳の奥には、人間なら誰もが持っているはずの「執着」や「熱」が欠片も見当たらない。
あるのは、ただ底の知れない、透き通った硝子のような深淵だけだ。
一方、莉瑠蘭の鼻が、僅かにピクリと動いた。
エリザが纏う、冷徹な知性と隠しきれない殺意――その、甘く痺れるような「毒」の気配。
そしてナイフのように鋭いその端麗さ。
二人は足を止めない。ただ、互いの吐息が届くほどの至近距離を通り過ぎる。
その瞬間、世界から音が消えたかのような錯覚が、エリザの背筋を駆け抜けた。
エリザはたまらず歩みを止め、鋭く後ろを振り返った。
レザージャケットの裾が翻る。
「……エリザ? どうしたの、急に止まって」
隣を歩く友人が不思議そうに顔を覗き込むが、エリザはその問いに答えない。
遠ざかっていく莉瑠蘭の、細く、しかし異様に安定した後ろ姿をじっと見つめる。
「……なんでもないわ。ただ少し……、ね」
警告を上書きするように、悦びに震えていた。
あれは「日常」に居ていい生き物ではない。
自分と同じ、あるいは自分以上に壊れた何かが、あそこにいる。
そして、莉瑠蘭もまた、歩きながら首だけをひょいと後ろに向けた。
「んー……さっきの人、変な匂い」
小さな呟きに、友人の女子学生が反応する。
「え、香水のこと? 九条エリザさんでしょ。夜間制の有名人だよ、めっちゃ美人だけど、超怖いって噂」
「まじ綺麗だよな。クォーターってやつ?」
「どこの国なん?」
友人の軽口を、莉瑠蘭はいつものように右から左へ受け流す。
「ふーん……。ま、いっか。……なんか、お腹空いちゃったな」
莉瑠蘭はすぐに前を向き、再び無関心な足取りで歩き出す。
だが、その唇の端には、本人も気づかないほど僅かな、愉悦の予感による綻びが浮かんでいた。
エリザの鋭い「考察」と、莉瑠蘭の動物的な「予感」。
二つの異分子が触れ合った火花は、数分後に訪れる世界の崩壊とともに、巨大な業火へと変わっていくことになる。
六
不意に、キャンパスの喧騒に、奇妙な不協和音が混じり始めた。
「……? 何、これ」
隣の席の学生が、眉を潜めて自分のスマートフォンを叩いている。
見れば、テラスや通りにいるほぼ全員が、一斉に手元の端末を覗き込んでいた。
エリザも自分のバッグから、最新機種のスマートフォンを取り出す。
画面には、見たこともないノイズが走っていた。
液晶の端から、黒い染みのようなドット欠けが侵食し、言語設定が壊れたかのように、意味をなさないヘブライ文字や数式が超高速でスクロールされている。
ふと見上げた大講義棟の壁面に設置された大型モニター。
そこでも、ニュース番組のキャスターが、奇怪なデジタルノイズに塗り潰され、断末魔のような電子音を撒き散らしていた。
「これは……」
講義中、スマホを隠れて使用していた凌之助も、同様の事態に見舞われていた。
「な、なななんだよ……これぇ……」
スマホの画面は酷く歪み、黒いノイズが砂嵐のように埋めつくしていた。
「こ、これって」
周りを見れば、生徒全員のスマホが同様の不具合を起こしているようだった。
教授の触っていたパソコンでさえも、同じようなノイズが走っている。
電波障害ではない。
これは、この世界の物理法則そのものが、何者かによって上書きされようとしている音に感じられた。
「何が起こってんだよ……っ」
スマホを強く握りしめ、凌之助は舌打ちをした。
「ねぇっ、凛咲のスマホはどう?!」
「私も、ダメみたい……っ。なにこれ……」
凛咲の方も、同様だった。
つい先程まで駅前までの道を記したマップは消え失せ、いまはノイズが画面内で繁殖している。
「…………!」
冷や汗を掻きながら、周りを見渡すと全ての学生が同じ事態を訴えていた。
スマホ、パソコン、テレビ、室内に設置された壁掛けのモニターまでも同様の症状を発している。
しかし、このパニックは大学内に留まっていなかった。
日本全国、様々な電子機器、モニター機器が正体不明のバグに襲われていた。
市民、報道機関、政府までもが冷や汗を流し、慌てふためいている。
「なにこれ。また買い替えなきゃなの……?」
しかし、莉瑠蘭は場違いなまでに冷静な態度で、顔を顰めていた。
「ねぇ山中。買い替えも兼ねて機種変した方が良いかな」
「いや、今それどころじゃねぇだろっ……」
半ば呆れ気味に声を上げる。
だが、友人らの動揺は収まらない。
突如、何かを切り裂くような、無理やり硬いものを破るかのような轟音が人々の耳を突き刺した。
「えっ、やばい! 壊れた?!」
学生らが大声を上げ、スマホを握りしめるなか、九条エリザだけは空を見上げていた。
「……………………。」
動揺もせず、ただ静かに空を睨みつける。
空は徐々に灰色がかっているように感じられた。
しかし、それ以上に異様な光景が写っている。
空に、空間に亀裂が走っていた。
先程の裂傷音はこれか。
亀裂は更に大きく裂け始め、ひびのように、蜘蛛の巣のように広がっていく。
「おいっ上みろ!!」
男子学生の叫び声が聞こえた。
周りの人々、果ては日本国民が空を見上げ、体を硬直させる。
「……始まったのね」
エリザが空の亀裂を見上げ、呟きを残した瞬間、日本中の音が消失した。
亀裂は広がり、ホログラムのようなノイズらしき模様を覗かせた。
直後、キャンパス内のあらゆる液晶画面——学生たちのスマートフォン、掲示板のデジタルサイネージ、そして空そのものを覆い尽くすほどの巨大なホログラムが、鮮烈な「赤」に染まった。
ノイズの渦の中から、一人の男が躍り出る。
「はい、全国の可哀想で愛すべき
その愉快でテンションの高い声は、全国に響き渡り、これから始まる地獄のお告げとなった。
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