シングルタスク

なかごころひつき

第1話『また、やってしまった。』

第1話『また、やってしまった。』

 また、やってしまった。

 テレビをつけたまま、スマホを手に取った瞬間のことだ。リビングにはバラエティ番組の軽い笑い声が流れていて、テロップが画面の下を忙しなく動いている。たいして興味があるわけでもないのに、なんとなくつけっぱなしにしていた。

 その状態で、スマホが震えた。

 通知が一件届いた。友人からの連絡だが、大した用事でもない。別にすぐ返事をしなくてもいいし、内容的に返さなくても怒られることはない。いつもなら何も考えずに確認して終わるはずのものだ。けれど、画面を覗いた途端、頭の中で何かがぷつりと切れた。

 音は聞こえている。テレビの声も、効果音も、すべて耳には届いている。でも意味が入ってこない。スマホの文字も同じだった。読んでいるはずなのに、内容が残らない。まるで二つの映像が重なって、どちらもピントが合わなくなったみたいだった。

 しばらくそのまま固まって、私は結局、テレビの電源を切った。あるいはスマホを伏せた。正確には、同時だったかもしれない。ただ、一つに絞らないと何もできない、という感覚だけが、はっきりと残った。

 世の中には、テレビを見ながらスマホを操作して、さらに誰かと会話までできる人がいるらしい。電車の中でも、食事中でも、器用に視線と意識を行き来させている。あれはどういう仕組みなのだろう、と昔から不思議だった。

 私にはできない。同時に二つの世界を生きることが、どうしてもできない。

 片目で別々の景色を見ようとするみたいに、視界が割れて、どちらもぼやけてしまう。

 これは怠けだろうか。集中力が足りないのだろうか。それとも、どこか壊れているのだろうか。

 そんな考えが、何度も頭をよぎった。

 「マルチタスクができないのは問題だ」

 「同時並行は社会人の基本だ」

 そういう言葉を聞くたびに、自分がどこか欠けているような気がしてくる。みんなが普通にできることを、なぜ自分はできないのか。その理由が分からないまま、「できない側」に立たされている感じがした。

 けれど、よく考えてみると、日常生活が成り立っていないわけではない。約束を忘れるわけでもないし、生活が破綻しているわけでもない。仕事だって、ちゃんとしている。ただ、一度に二つのことをしようとすると、途端に何もできなくなる。それだけだ。

 誰かに診断されたわけでもない。病院に行ったわけでもない。薬を飲んでいるわけでもない。

 それでも、「これは病気なんじゃないか」「発達障害なんじゃないか」と疑ったことはある。検索窓に言葉を打ち込んでは、画面を閉じる。そんなこともあったような気がする。

 けれど、調べれば調べるほど、違和感は増えていった。

 そこに書いてあるのは、できないことのリストだった。忘れやすい、落ち着きがない、衝動的。どれも、私の感覚とは少しずつずれている。私は雑ではないし、衝動的でもない。むしろ逆だ。一つのことに捕まって、離れられなくなる。

 私の場合、問題なのは「注意が散る」ことではない。注意が一か所に集まりすぎることだ。

 だから、テレビとスマホを同時に使えない。だから、一度集中すると、他のことができない。だから、何かをやるときは、それを終わらせてからでないと次に行けない。

 前に、電車の中で大声で話す二人組がいた。別にその話が面白かったわけではない。ただ、つい耳に入ってしまい、気づいたときには降りる駅を通り過ぎていたことがある。

 そして厄介なことに、途中で別のことを始めてしまうと、今やっていたことに戻れなくなる。頭の中の配線の配置が崩れて、どこに何があったのか分からなくなる。さっきまであったはずの道筋が、霧みたいに消える。

 この性質には、名前があるらしい。

 ――シングルタスク。

 それを知ったとき、少しだけ肩の力が抜けた。原因が分かったからではない。ただ、「同じような人が他にもいる」と知れたからだ。

 シングルタスクは、病名ではない。発達障害を意味する言葉でもない。ただの傾向であり、脳の使い方の違いだ。マルチタスクが得意な人がいるのと同じように、シングルタスクが自然な人もいる。それだけのことだ。

 それでも、日常は待ってくれない。テレビは流れ続けるし、スマホだって使うときは多い。世界は同時に、いくつもの情報を投げてくる。

 そのたびに、私は立ち止まる。

 また、やってしまった。

 そう呟きながら、どれか一つを選ぶ。全部は持てない。でも、一つなら、ちゃんと向き合える。そのことを、まだ言い訳にしながら、私は今日も暮らしている。

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