矛盾
@Ngy_351
矛盾
人が死んだとき、悲しむのが正しいのだと、僕はずっと思っていた。
泣くべきだし、言葉を失うべきだし、胸に穴が空いたような顔をするべきなのだと。
だから、あの日、自分の中に浮かんだ感情を、僕は一瞬で否定した。
安堵だった。
それはほんの一瞬、呼吸と呼吸の間に滑り込むように現れた感情だった。あまりにも小さく、あまりにも速く、だからこそ見逃すこともできたはずなのに、僕は確かにそれを感じ取ってしまった。
終わった。
そう思ってしまった。
その人は、母だった。
長い闘病の末の死だった。余命宣告もされていたし、心の準備もできていたと、周囲は言った。医師も、親戚も、友人も、皆が「よく頑張った」「もう苦しまなくていい」と口を揃えた。
僕も頷いた。
正しい言葉を選び、正しい顔をした。
泣いた。
それなりに。
だが、胸の奥で、別の声がしていた。
やっと終わった。
その声は、誰にも聞かせてはいけないものだった。
母は、強い人だった。
少なくとも、周囲からはそう見られていた。
厳しく、正しく、妥協を許さない。
僕が子どもの頃から、母の言葉は絶対だった。
「ちゃんとしなさい」
「人に迷惑をかけるな」
「甘えるな」
それは教育だったのだろう。
愛情だったのだろう。
そう言われ続けて育った僕は、ちゃんとした人間になった。
大きな問題も起こさず、反抗もせず、母の期待に応える息子になった。
その代償として、自分が何を感じているのか、分からなくなった。
大学を卒業し、就職し、一人暮らしを始めても、母からの連絡は途切れなかった。
体調はどうか。
仕事は大丈夫か。
結婚はまだか。
僕は、そのすべてに真面目に答えた。
面倒だと思うこともあった。
息苦しいと感じることもあった。
だが、それを口に出すことはなかった。
母は、僕のためを思って言っている。
それが、僕の中の常識だった。
母が病気になったのは、僕が四十代に入ってからだった。
最初は軽い症状だった。だが、次第に悪化し、入退院を繰り返すようになった。
介護が始まった。
仕事を調整し、病院に通い、家事をこなす。
母は、弱っても母だった。
「もっとちゃんとやりなさい」
「そんなやり方じゃ駄目」
僕は、言い返さなかった。
疲れていた。
正直、限界に近かった。
それでも、僕は「いい息子」でい続けた。
周囲は言った。
「偉いね」
「親孝行だね」
その言葉を聞くたび、胸の奥がざらついた。
偉くなんてなかった。
親孝行でもなかった。
ただ、逃げていただけだ。
嫌われることから。
責められることから。
母の病状が悪化し、在宅介護に切り替えた頃、僕は眠れなくなった。
夜中、母が呼ぶ声で目が覚める。
トイレ、水、痛み、不安。
僕はそのたびに起き上がった。
そして、心の中で、こう思っていた。
早く終わってほしい。
その思考が浮かぶたび、僕は自分を殴りたくなった。
そんなことを考えるなんて、人間として最低だ。
息子として失格だ。
だから、必死で打ち消した。
僕は母を愛している。
僕は母のためにやっている。
僕は間違っていない。
だが、心は嘘をつかなかった。
疲労が積み重なり、感情がすり減り、ある日、ふとした瞬間に、思ってしまった。
母がいなければ、楽なのに。
その瞬間、世界が歪んだ。
自分の中に、決して認めてはいけない本音があることを、僕は知ってしまった。
母は、亡くなった。
病院からの電話を受け、駆けつけ、最期を看取った。
母の手は冷たく、軽かった。
涙は、自然に出た。
周囲も泣いていた。
葬儀は滞りなく終わった。
僕は、遺族として、立派に振る舞った。
だが、家に帰り、一人になった瞬間、胸に広がったのは、静かな解放感だった。
もう、呼ばれない。
もう、責められない。
もう、ちゃんとしなくていい。
その感情が、僕を救ってしまった。
それが、何よりも恐ろしかった。
それからの日々、僕は罪悪感と安堵の間を行き来した。
母を失った悲しみは、確かにあった。
だが、それと同じか、それ以上に、「自由」があった。
誰にも縛られない時間。
誰にも監視されない生活。
それを喜んでいる自分を、僕は心底憎んだ。
人は、綺麗な感情だけで生きられない。
頭では分かっていた。
だが、心がそれを許さなかった。
誰にも言えなかった。
友人にも、同僚にも。
「母が亡くなって、正直ほっとした」
そんなことを言えば、僕は人でなしになる。
だから、僕は黙った。
黙って、普通の顔で生きた。
だが、夜になると、母の声が聞こえた。
「ちゃんとしなさい」
その声は、もう現実には存在しないのに、僕の中では生き続けていた。
そして、僕は今、死を前にしている。
病気が見つかり、余命を告げられた。
不思議と、恐怖は少なかった。
むしろ、思った。
これで、全部終わる。
最後に、僕は自分に問いかけた。
僕は、母を愛していたのか。
それとも、恐れていただけなのか。
答えは、どちらでもあり、どちらでもなかった。
愛と恐怖は、簡単に混ざる。
依存と献身は、紙一重だ。
人は、正しい感情だけを持つことはできない。
醜い感情も、同時に抱えて生きている。
それを否定し続けた人生は、静かに僕を蝕んだ。
もし、許されるなら。
それは、母からではなく、自分からだ。
だが、許せるかどうかは分からない。
僕はただ、事実を認める。
母の死に、安堵した自分がいたこと。
それでも、母を失ったことを、確かに悲しんでいること。
矛盾したまま、人は生きる。
そして、矛盾したまま、死ぬ。
それが、僕の人生だった。
この話を読んだあなたが、もし誰かを失ったとき。
もし、綺麗ではない感情を抱いたとき。
どうか、それをすぐに否定しないでほしい。
人は、正直であるほど、醜くなることがある。
そして、その醜さを抱えたまま生きることこそが、
本当の苦しさなのだから。
矛盾 @Ngy_351
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