答え

@Ngy_351

答え

 僕は昔から「優しい人」だと言われてきた。


 その言葉を、疑ったことはなかった。むしろ、それ以外に自分を説明する言葉を持っていなかった。怒鳴った記憶も、誰かを拒絶した記憶もない。頼まれれば引き受け、期待されれば応え、空気が悪くなれば自分が折れた。


 それが普通だと思っていた。


 子どもの頃からそうだった。

 親が喧嘩をすれば黙って部屋に戻った。

 友達が無理なお願いをしても笑って頷いた。

 教師が理不尽でも、反論しなかった。


 僕は、波風を立てないことが正しさだと信じていた。


 社会に出てからも、それは変わらなかった。職場では便利な人間だった。残業を頼めば断らない。誰かがミスをすれば、黙ってフォローする。評価は悪くなかった。むしろ、「いい人だよね」という言葉と一緒に、仕事がどんどん回ってきた。


 断らないから、増える。

 増えても、断らない。


 恋人ができたのは三十を過ぎてからだった。彼女は明るく、感情表現が豊かで、よく泣き、よく笑った。最初の頃、彼女は僕の優しさを褒めた。


「一緒にいると安心する」


 その言葉が嬉しかった。

 安心させることが、愛だと思った。


 彼女は次第に、僕に頼るようになった。

 仕事の愚痴。

 友人関係の不満。

 家族への怒り。


 僕は、すべてを聞いた。

 意見は言わなかった。

 否定もしなかった。


 ただ、聞いた。


 それが、正しい恋人の姿だと信じていた。


 結婚してから、彼女の依存は強くなった。

 帰りが少し遅れると不安がり、連絡がないと怒った。

 休日は一人で出かけることを嫌がった。


 僕は、それでも従った。


 「我慢すればうまくいく」

 「相手を優先するのが大人だ」


 そうやって、自分を納得させた。


 だが、体は正直だった。


 眠れなくなった。

 食欲がなくなった。

 理由もなく動悸がした。


 それでも、病院には行かなかった。

 弱音を吐くことは、彼女を不安にさせると思ったからだ。


 優しさは、いつの間にか義務になっていた。


 ある夜、仕事で大きなトラブルがあった。僕のミスではなかったが、責任を取る形で残業が続いた。帰宅したのは深夜だった。


 玄関を開けると、彼女はソファに座っていた。


「遅い」


 その一言に、胸がざわついた。


 説明しようとした。

 仕事が忙しかったこと。

 仕方なかったこと。


 だが、彼女は聞かなかった。


「私のこと、もうどうでもいいんでしょ」


 その言葉を聞いた瞬間、何かが切れた。


 怒りではなかった。

 悲しみでもなかった。


 ただ、限界だった。


 僕は初めて、声を荒げた。


「違う」


 たったそれだけだった。

 大声でも、罵倒でもない。


 それなのに、彼女は泣き崩れた。


「ひどい」


 その言葉が、胸に突き刺さった。


 僕は謝った。

 何度も、何度も。


 その夜、眠れなかった。

 天井を見つめながら、考え続けた。


 僕は、本当に優しいのだろうか。


 それとも、ただ逃げているだけなのだろうか。


 答えは出なかった。


 日々は続いた。

 僕は以前よりも、さらに彼女に気を遣うようになった。

 怒らせないように。

 不安にさせないように。


 その結果、僕は自分の感情が分からなくなった。


 嬉しいのか。

 悲しいのか。

 怒っているのか。


 何も感じない時間が増えた。


 そして、あの日が来た。


 彼女が泣きながら、こう言った。


「あなたは、私の気持ちを分かってくれない」


 その言葉は、正しかった。


 僕は、彼女の気持ちを「理解しよう」としていた。

 だが、それは本当の意味で向き合うことではなかった。


 ただ、衝突を避けていただけだ。


 その夜、彼女は激しく感情をぶつけてきた。

 責められ、否定され、試されているようだった。


 僕の中で、積み重なっていたものが、静かに崩れた。


 言葉が、勝手に口から出た。


「もう、無理だ」


 その瞬間、彼女の表情が変わった。

 恐怖と怒りが混じった顔だった。


 彼女は叫んだ。

 罵った。

 物を投げた。


 そして、僕は――彼女を突き飛ばした。


 力は強くなかった。

 だが、彼女は倒れ、頭を打った。


 音がした。

 鈍い音。


 彼女は動かなかった。


 救急車を呼んだ。

 必死だった。

 だが、間に合わなかった。


 裁判で、僕は「普段から優しい夫だった」と証言された。

 減刑された。


 だが、僕の中で、何かが終わっていた。


 優しさが、人を壊すことを、僕は知ってしまった。


 刑期を終え、外に出た。


 誰も、僕を責めなかった。

 「事故だった」と言われた。

 「仕方なかった」と。


 それが、一番つらかった。


 僕は、優しさの仮面を被ったまま、逃げ続けていた。

 そして、最後に、最も残酷な形で、それが剥がれた。


 死を前にして、僕は思う。


 もし、もっと早く怒れていたら。

 もし、もっと早く拒めていたら。


 優しさとは何だったのか。


 それは、誰かのためだったのか。

 それとも、自分が嫌われないための手段だったのか。


 答えは、もうどうでもいい。


 ただ一つ、確かなことがある。


 優しさは、必ずしも善ではない。


 そして、我慢は、いつか形を変えて誰かを傷つける。


 僕は、その証明だ。


 これが、優しかった人間の、最後だ。

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