〇〇を掴む手

lager

 薄墨色の風が飄々と吹く空を、じっと見つめていた。

 鷹のような目をした少女であった。

 道着姿で、擦り切れて平らになった岩の上に座し、坐禅を組んでいる。

 右腿の上に左足を乗せ、左腿の上に右足を乗せる――結跏趺坐である。

 その両足の甲が、瘤のように膨れている。

 腹の前で組まれた両手も、その甲に堅くひび割れた拳タコを覗かせていた。


 乾いた空気を呼吸している。

 意識して、息を吸う。

 意識して、息を吐く。

 臍下に気力を充足させ、それを少しずつ体へ渡らせていく。

 目は、鋭い光を宿し、虚空へと向けられている。

 息を吸えば吸うほど、吐けば吐くほど、その心魂の焔が燃え立ち、それが光となって眼光に顕れているようであった。


「ヨンチュン」


 低く鋭い声が、彼女の名を呼んだ。

 瞑目し、立ち上がった。


「はい、師父」


 禿頭の偉丈夫が、彼女を真っ直ぐに見つめていた。

 それを見返す鷹のような目は、先ほど虚空を睨みつけていた時といかほども変わらぬ光を放ち、今にも焔が噴き出しそうである。


「答えは見つかったか」

「いいえ、全く」


 師父、と呼ばれた男が、静かに礼を取った。

 胸の前で、右掌と左拳を合わせる。

 少女は視線を一切逸らさぬまま同じ構えを取り、両者揃って、腰を落とした。

 左手を前に、右手を胸元に。

 拳が握り締められた。


 ……。

 …………。


 ヨンチュンは、豆腐屋を営む父親の下で育った。

 四川省大涼山――。

 古来より交通網の僻地であり、峻険な山々にしがみつくようにして、いくつかの寒村がまばらに散らばっているような土地だった。

 ヨンチュンは、自身の生まれを知らない。

 物心ついた頃には既に母親はおらず、父は何も語ろうとはしない。その父親も、周囲の村人と馴染めているようには見えなかった。

 子供ながらに、自分はよそ者なのだという感覚が常に背中にへばりついているようだった。


「強く生きろよ、ヨンチュン」


 時折、ぽつりと父親がそう零したことがあった。

 豆腐を安く買い叩かれたときだったろうか。

 壁の隙間に泥を詰めているときだったろうか。

 塩商人の息子にヨンチュンを気に入られ、婚約を結ばされたときだったろうか。

 

「お前は、強く生きろ」


 強く、生きる。

 それはどういった意味だろうと、幼いヨンチュンは考えた。

 虫を蛙が食べ、蛙を蛇が食べ、蛇を鷹が食べる。

 虫は弱い。蛙は蛇より弱く、蛇は鷹より弱い。 

 負ければ死ぬ。生きるなら、勝ち続けなければならない。けど、勝てない相手には勝てない。ならば、どうする?


 人間だって同じだ。子供は大人に逆らえず、女は男に逆らえず、民は役人に逆らえない。生きることが勝つことで、勝つことが強いことというなら、自分より強いものからは逃げ、常に自分より弱い相手を探して勝ち続ければいいのか? それが強く生きるということ?

 

――だって、あんなにも。


 父の腰は引けていた。目は引き攣るように笑っていた。声は上ずっていた。

 私を差し出して、商いの支援を受け入れることができると分かったときの、父の姿は。


「強く、生きろ」


 あんなにも、弱々しかったのだから。


 ……。

 …………。


 数年後、ヨンチュンの姿は山奥の寺院にあった。

 少林拳の流れを汲む門派で、下界から隔絶された生活を送っていた。

 逃げてきたのだ。

 既に婚約を結んでいたヨンチュンに、地元の名士の息子が横恋慕をした。

 父親は天秤にかけたのだろう。

 いざとなればまた流れて行けばいい。その際、土地に縛られた金満と、経済力を持った商人、どちらに恩を売っておけばいいかを。

 ヨンチュンはほとぼりが冷めるまでと山門の奥に隠され、匿われた。


「お主は何を望む、ヨンチュン」


 護身用に、と学ばされた。

 体を修め、心を修め、正道に歩むべし、と。

 春秋左氏に曰く、ほことどむるを武と為す。以て爭いをおさむるべし、と。

 本当だろうか、と。やはりヨンチュンは懐疑的だった。


 体を沈め、息を深く吐き出す。

 両脇を絞め、両掌をゆっくりと前に構える。

 腕を大きく回し、鋭く踏み出すと共に肘を撃つ。

 足で円を描き、重心を移して拳を突き出す。


 つまり、相手の腕を掻い潜って顎を砕き。

 足を払って胃の腑を破壊する。

 鶴翼を模して翻弄し、虎爪を象り襲い掛かる。

 これが、護身の術? 平和のための技?

 なるほど確かにそういった一面もあるのだろう。

 だが、同じ技を女であり子供である自分が使うよりも、男であり大人である師父が使うほうが何倍も強力なのだ。

 これではむしろ、強い人間が弱い人間を撲殺するためのぶきではないか。


「やめよ、ヨンチュン」


 師父は時折、彼女の演武を留めた。


「お主の内には炎が燃え盛っておる」 


 この人は、自分を導こうとしているのだ、と、ヨンチュンは自分に言い聞かせた。

 体を修め、心を修める。

 自分の中の歪みを矯め、罪悪を糾し、正道を歩ませようとしているのだ。

 師父から説教を受ける度、ヨンチュンはそれを強く意識した。


「気を鎮めよ。お主の心の声を聞け。蓋をするな。さりとて溢れるがままにするな。それは目を眩ませ、耳を塞ぎ、道を鎖す。吞み込まれてはならん。向き合うのだ」


 ならば、師父よ。

 なぜそのように、怯えた目で私を見るのですか。

 あなたを思う存分殴りつけ、殴って、殴って、殴り抜いて、骨を砕いて、肉を裂いて、打ち倒したいと願う私のこの両手は、一体なんでしょうか。

 これが、私の心なのでしょうか。


 ……。

 …………。


 虎爪が唸り、空を切る。

 鉄橋鉄馬――頑健な足腰を支えに、強靭な手技で敵を喰らう。

 師父の踏み込み一つで地が震え、突き一つで空気が張り裂ける。

 足、腰、体、腕、拳。一つを起点に起こした力を体内で増幅し、打ち出す。

 脱力からの爆発。

 鋭く、重い一撃。

 受けたはずのヨンチュンの腕が軋み、体勢を崩される。

 次の攻撃に備え、それを受ける。また崩される。

 これでは、こちらから攻め手に移れない。


「墳っ」


 双手の突きを肩で受け、吹き飛ばされた。

 倒れたくない。

 必死に足を踏み続け、体幹を取り戻す。

 拳を前に。意地でも崩さない。

 残心から構えを取り直した師父を見上げる。


「心の声を聞け、ヨンチュン。暗闇にただ手を振り回すことを、武とは呼ばない」


 ぎり、と唇を噛みしめた。

 血の味が口に広がる。

 鉄馬――大きく踏み込む。地の支えを己に通じ、遠心力を乗せて拳を突き出す。

 それが、あっさりと受け止められる。

 即座に肘を返され、受け流すこともできずに両腕で止める。

 師父はそれを起点に逆の腕に力を流し、再び肘を撃つ。

 こちらの力の流れは止められ、あちらの力学の中で一方的に動かされる。


 足を払われ、背中から転げた。

 呼吸が乱れ、視界が白くぼやける。


 ダメだ。

 やはり師父には敵わない。

 強いのだ。自分よりも。体も大きく、力も強い。

 自分は子供で、相手は大人で、自分は女で、相手は男で。

 勝てない。

 やはり――。

 

 


 唾を飲み下し、呼吸を整える。

 立ち上がり、構えを取る。

 それを見た師父が、眉根を寄せた。

 ――腰の位置が高い。


 師父が口を開く前に、ヨンチュンは鋭く前へ踏み出した。


「フッ」


 真っ直ぐ、突き出す。

 腰も入っていない、上半身だけの突き。

 当然のように受け止められ、先ほどと同じように肘を返される。

 だが、先ほどとは違い、受け止められたところでヨンチュンの力の流れは崩れていない。今度は余裕をもって反撃を逸らし、空いた師父の脇腹に突きを入れた。

 軽い突きだ。まるで威力はない。

 だがそれでも、守りを抜いた。


 師父の体が捻転し、虎の爪が襲い掛かる。

 力強い一撃。男の体格を十分に生かした攻撃。

 それを、短い突きで根元から逸らし、即座に逆の手で突きを放つ。

 胸元に当たる。だが、効かない。

 一瞬、困惑した師父と視線が交わった。

 

 強く願った。

 この男を倒したい。

 だが、この男と同じぶきを使ったところで勝ち目はない。

 同じ技を使えば、体格に勝るほうが有利なのだから。

 鉄橋鉄馬。それは、己の体重を活かして手足を鈍器とする術理だ。

 それではダメなのだ。

 全く別の術理が必要なのだ。


 そもそも、師父の伝える武術は不安定な船上での使用を想定して作られた流派だ。だから腰を落として重心を安定させ、体重を乗せた一撃を放つ。

 だが、ここは陸地だ。

 そして、ヨンチュンの体で体重を乗せたところでどのみち大した威力は出ない。

 

 だから、腰を上げる。

 手足を振り回さない。

 短橋狭馬――手足が短いのなら、もっと狭い距離で戦えばいい。


 踏み込め。

 鋭く。

 前へ。

 前へ。


「破ぁっ!」


 師父が怒声と共に腕を振り下ろし、ヨンチュンの肩を砕きにかかる。

 ヨンチュンは、さらに前へと歩を進めた。

 肩ならくれてやる!


 遠心力の乗り切らない内側でヨンチュンの肩が叩かれ、真っ直ぐ突き出されたヨンチュンの手が、師父の顎を捉えた。

 徹った。

 焔が、噴き出した。


 撃つ。撃つ。撃つ。撃つ。


 正中線目掛けて、拳を打ち続ける。

 同じ動作で同じ技を撃っても、あちらは十でこちらは七。

 ならば、あちらが十の打撃を一度撃つ間に、五の打撃を二回撃てばいい。

 発声はいらない。

 そんな暇があれば拳を撃て。

 呼吸の続く限り撃ち続けろ。

 腰を入れるな。

 肩で撃て。

 拳は真っ直ぐ。

 短く。

 鋭く。

 速く。

 もっと。もっと。もっと!


「がぁあ!!」


 技もなにもない、遮二無二繰り出された師父の横拳がヨンチュンのこめかみを打ち、小さな体が吹き飛ばされて、地面に沈んだ。

 師父の顔は、いつしか真っ赤に腫れあがっていた。

 荒い息を吐き、弟子の体を見下す。

 気を失い、仰向けに横たわったヨンチュンの手が虚空に伸ばされ、その口元には、僅かに笑みが覗いていた。


 ……。

 …………。


「私が憎いか、ヨンチュン」


 その日の夜。燈明皿の僅かな灯りを挟んで向かい合い、師父とヨンチュンは粥を啜っていた。

 問いかけられたヨンチュンの目が見開かれ、手が止まる。


「え……?」


 思いもよらぬ問いかけであったように。

 心底、意外だというように。

 その反応に、むしろ師父のほうが狼狽した。


「なぜ、ですか?」

「なぜって、それは……」


 ヨンチュンを寺に迎え入れるとき、彼女の事情は概ね父親から聞いていた。

 流れ者の身で、村落に馴染めていないこと。

 本人の意向もなにもなく婚約を決められていること。

 横暴な土地の分限者に見初められ、それから逃げてきたこと。

 決して珍しいことではない。だが、一人の少女が世を恨むには、十分すぎる苦境だろう。


 きっと彼女は、およそ男というもの一切に恨みを持っているのだと、師父は考えていた。

 自分を守れもしない軟弱な父親。

 自分勝手に彼女の身を振り回す社会。

 師父との修練の際に見せる寒気を覚えるような殺気も、そこに通底しているのだと思っていた。


 師父が慎重に言葉を選びながら、そんなようなことをかいつまんで語ると、ヨンチュンは椀を床に置き、照れたように微笑んだ。


「師父。虫が蛙を訴えるでしょうか」

「は?」

「蛙は蛇を? 蛇は鷹を、一方的に自分を喰らうなど理不尽であると、義をもって諭すでしょうか?」

「……続けてくれ」

「はい。もちろん恨みはするでしょう。怒りはするでしょう。ですが、どうしようもありません。弱いものが強いものに負けることは、天の理です。私の境遇が、他人から見てどう映るのかは分かりませんが、なにか、他にやりようがあったとは、どうしても思えないのです」

「ならば、なぜ……」


 あのように、こわい目を――。


「強くなりたいのです」


 ぽつり、と。

 恥じらいすら感じるような声だった。


「最初は父の言葉がきっかけでした。お前は強く生きなさい、と。きっと父はそんな意味で言ったのではないのでしょう。蛙の身で蛇を喰らえるようになれ、などとは。そうではないのです。ただ、したたかに生きよ、と、その程度の意味だったのでしょう。ですが私は、のです」

 

 師父は、ずっと自分が彼女に投げかけ続けていた言葉を思い出した。

 己の心の声に耳を傾けよ、と。


「それが私の心なのです。きっと私は、どこかが壊れているのでしょう。父を恨みもしました。あの横暴な男を恨みもしました。ですが、今更彼らを倒そうとは思いません。私はもう、彼らより強い」


 夜闇の中、燈明の僅かな炎によって浮かび上がる彼女の顔は、儚げだった。体の小さな少女だった。けれどその瞳だけが、燈明の炎よりもなお盛んに燃え続ける彼女の焔によって、爛々とした輝きを放っていた。


「師父。貴方を倒したい。それは貴方を恨んでいるからではありません。貴方が私より強いからです。けれど、貴方の技を使っているだけでは、私は貴方に勝てない。それでは意味がない」


 私を破門にしますか、と。

 清々しいような笑みを浮かべて問う弟子に、師父は苦笑して首を振った。

 彼の覚悟は決まっていた。

 自分は、踏み台になるのだ。

 この少女は、きっと中華武術の歴史に名を残す侠女となる。

 貧した身の上がどうの、婚約者がどうのと、そんな些末な問題にかかずらっていていい人間ではなかったのだ。

 

詠春ヨンチュン

「はい、師父」


 改めて、師弟は真っ直ぐ向き合い、瞳を合わせた。


「これから先、お前のその手は、なにものも掴むことはない」

「はい」

「勝利に意味はない。敗北にも意味はない。それは強い弱いということと本質的に無関係だからだ」

「はい」

「お前の進む道になにがあるか、誰も知らない。誰にも分からない。だが、それでも進み続けろ。それでも手を伸ばし続けろ。それだけが、お前の望みを叶えてくれる」

「はい、師父」

「二人で作ろう。お前が昼に見せてくれたお前の拳を、私とお前で完成させる。まずは、そこから始めよう」

「……はい!」


 その時の、花の綻ぶような彼女の笑顔は、天から舞い降りた仙女のようにも、血を求めてさすらう鬼女のようにも見えたと、師父は後に回想した。


 ……。

 …………。


 詠春拳、と呼ばれるその武術の発祥は、実のところ諸説あって定かでない。

 だが、その名前については、中国武術の歴史に名を残す少林四侠女のうちの一人、厳詠春の名から取ったという説が広く知られている。

 攻防一体の多様な手技と鋭く短い打撃に特徴を持ち、その末裔たる葉継門の下では、かのブルース・リーも師事していた。

 現在も、世界各国で護身や実践武術として多くの道場が開かれ、教え継がれている。


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