糸の形が変わるだけ

神音色花

大学生の日向誠は、自分の身体が好きだった。

鍛え上げた腹筋、太い腕、服の上からでもわかる筋肉。努力の証だ。

だからこそ、この家では常に手を握りしめていた。

力を使わないために。


ホームステイ先の女主人――蜘蛛の妖怪の人妻は、普段は人間と変わらない姿をしていた。

伏し目がちで、和服の襟をきちんと合わせ、仕事を段取りよく終わらせる。余計なことは言わない。察しが良く、必要だと思った瞬間に必要な物を差し出してくれる。

よく言う「良妻賢母」そのものだった。


だが、ふとした拍子に見える。

光を反射する複眼。

肩にかかる大判のショールで隠された、脇の下から伸びる、折り畳まれるようなもう一対の腕。


それらは決して誠を威嚇しなかった。

むしろ、怯える小動物のように、彼女自身を守るために縮こまっていた。


夜、奥の部屋から声がする。

怒鳴り声ではない。

殴る音でもない。


「お前は出来が悪い」

「外で恥をかかせるな」

「黙っていればいい」


その言葉を聞くたび、誠の背中が熱くなる。


――殴れる。

――引き剥がせる。

――逃がせる。


でも、それをやった瞬間、彼女は「守られた存在」になる。

それは、糸の形が変わるだけだ。


ある朝、誠は見てしまった。

彼女が鏡の前で、必死に人の姿を整えているところを。


複眼を隠し、余分な腕を糸で縛り、

「普通」に見えるように。


「俺さ」

誠は、あえて軽い声で言った。

「強い人って、何もしないのが一番強い時あるよな」


彼女は驚いたように顔を上げた。

複眼が、一瞬だけ露わになる。


「……私は、弱いです」


「うん。でも、弱いって言えるのは、もう動ける人だと思う」


誠はそれ以上、近づかなかった。

手も伸ばさなかった。


数日後、彼は家を出た。

代わりに残したのは、連絡先でも金でもない。

――ここにいた事実だけだった。


それからしばらくして。

彼女は糸を切った。

一本ずつ、震える手で。


複眼を隠さず、余分な腕を縛らず、

「蜘蛛として」外に出た。


怖かった。

でも、誰にも殴られなかった。

誰にも「恥だ」と言われなかった。


ある日、彼女は思い出す。


あの青年の背中。

近づけば壊せる身体を持ちながら、

その身体を使わなかった距離を知った。


彼女は今日も糸を張る。

誰かを縛るためではなく、

自分が戻れる場所を作るために。


それはもう、檻ではなかった。

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糸の形が変わるだけ 神音色花 @KamineIr0ha

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