無彩の国家
谷本真人
第一章 線を引く者
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朝はいつも、同じ色をしている。
正確に言えば、色がないわけではない。
白、灰、淡い青。規定値内に収まる刺激として安全な色彩が、決められた比率で並んでいる。それらは個別に見れば違う色のはずなのに、まとまって視界に入ると一様に「背景」になる。
わたしはその背景の中を歩きながら、通勤という行為をこなしていた。
第一管区彩務部へ向かう朝の導線は、よく設計されている。混雑はない。音は吸収され、光は拡散され、個人の感情が過剰に刺激されないように配慮されている。
彩序国家において、通勤とは移動ではなく、調整だ。仕事に入る前に、心の彩度を落とすための儀式に近い。わたしたちの国を含む連合――正式には連合政府体。いくつかの国家と準国家組織が寄り集まって作られた、巨大で、鈍重で、しかし抗いがたい枠組みだ。
彩因災害の時代が始まって以降、色に関する問題は一国だけで処理できる規模をとうに超えた。だから連合は生まれた。合理的で、正しくて、冷たい選択だったと思う。
連合は命令を出さない。ただ「基準」を示す。
安全基準、規制基準、想定被害量、許容彩度。
それらは紙の上では完璧で、感情の入り込む余地がない。だからこそ、現場からは遠い。
連合は人を救うための組織だ。
でも、目の前の誰かを救う組織ではない。
それを担うのは、いつも下位の実働機関――彩務省のような、泥をかぶる側だ。彩務省は、連合の基準を「現実」に変換するための省庁。
色彩汚染、彩獣、彩因犯罪。
それらを机上の数値ではなく、血と破壊と後悔として処理する役目を負っている。
イロドリ調査官は、彩務省の中でも最前線に立つ存在だ。法執行官であり、研究補助であり、時には兵士であり、そして――後始末係でもある。
制服の内側で、彩度計測機が小さく振動した。起動時のセルフチェックが終わった合図だ。
わたしは歩きながら、表示を一瞥する。
自分自身の彩度。正常範囲。問題なし。
この数値を、いつから気にしなくなったのかは覚えていない。現場に配属されて数年が経った。その間に、わたしは数え切れないほどの色を見て、数え切れないほどの報告書を書いた。
色はいつも、事後的に処理される。それがイロドリ調査官の仕事だ。
第一管区彩務部の建物は、遠目には存在感が薄い。大きな行政施設でありながら、目立つ装飾がない。建築基準の上限ぎりぎりまで削ぎ落とされた外観は、見る者の記憶に残らないよう設計されている。
入口を通過する際、認証ゲートがわたしの身分と装備を確認する。
問題なし。規定どおり。
エントランスホールは広く、天井が高い。だが、開放感はない。光は柔らかく制御され、反響音は最初から存在しなかったかのように消える。ここでは誰も声を張らないし、張る必要もない。
エレベーターを待つ間、同じ制服の人間が数人並んでいた。顔見知りもいるが、挨拶は交わさない。
業務開始前の無駄な接触は、避けるのが暗黙の了解だ。
エレベーターが到着し、扉が開く。無言で乗り込み、無言で上昇する。
第一管区彩務部防染課。わたしの所属だ。
防染課は、彩務部の中でも地味な部署だ。基本的に派手な逮捕も劇的な制圧もない。彩獣と相対することもほとんどない。
あるのは、事故の後始末と、事件の痕跡処理、それから「問題がなかったことを証明する」仕事。
デスクに着くと、端末が自動的に起動した。
今日の予定が、淡々と表示される。
午前中に二件の防染作業。
午後に報告書整理と内部会議。
特筆すべき点はない。
平常運転だ。
「おはようございます、春野分隊長」
背後から声をかけられ、わたしは振り返った。
反田クルリが立っている。
まだ若い。高卒で任官して現場経験は浅いが、手は早く指示には素直だ。感情が顔に出やすいのが欠点といえば欠点だが、防染課では致命的ではない。
「おはよう。準備は?」
「はい。装備、点検済みです」
彼女は少しだけ胸を張った。その仕草を見て、わたしは何も言わない。部下を評価する言葉は、必要なときにだけ使う。
常に与えると、依存を生む。
午前の現場は、第一管区内の歩行者事故だった。無人配送車両と歩行者の接触。軽傷。彩因センサーの一時的誤作動。人為的介入の可能性は低い。
現場に向かう車内で、クルリが端末を操作しながら概要を読み上げる。
「――残留彩度は基準値以下と予測されています。念のための防染対応、とのことです」
「了解」
それ以上の会話はない。
現場はすでに封鎖され、一般の人間はいなかった。事故は十分前に片付けられ、残っているのは、色の名残だけだ。
わたしは防染服を整え、計測機を起動する。
空気中に漂う彩因を読み取り、分布を可視化する。
淡い残留。
問題になるほどではない。
「回収ポイント、二か所。手早く終わらせる」
「はい」
作業は滞りなく進んだ。クルリは指示どおりに動き、必要以上に質問をしない。良い部下だ。
最後に、わたしは周囲を一度だけ見回した。
何もない。
あるべき色は回収され、あるべき無色が残っている。
それでいい。
彩務部に戻る車内で、クルリが少しだけ躊躇した後、口を開いた。
「あの……分隊長」
「なに」
「今日の現場、センサーのログなんですけど……ほんの一瞬、規定外の揺らぎがあって」
わたしは彼女を見る。
視線を合わせる必要はないが、あえて合わせた。
「基準値以下だった」
「はい。でも、パターンが……」
「基準値以下だった」
それで会話は終わる。
規定値以下の揺らぎは、揺らぎとして扱わない。
そう決まっている。
庁舎に戻り報告書を作成する。定型文を選び、数値を入力し、異常なしにチェックを入れる。事実は正確に記録される。正確である限り、それ以上の意味は持たない。
午後の内部会議は短かった。
軽微事案の共有と次週のシフト確認。誰も問題提起をしない。問題がないからではない。問題にすると、仕事が増えるからだ。
夕方、デスクを整理しながらふと手が止まった。
今日の事故現場の映像が、脳裏に浮かぶ。
ほんの一瞬、規定外の揺らぎ。わたしはそれを、意識的に切り捨てる。関心を持たない方が楽だ。それは経験則であり、この仕事における処世術でもある。
制服を脱ぎ、私服に着替える。
端末の電源を落とし、建物を出る。
外はすでに夜だった。
街は、朝と同じ色をしている。無彩の世界は、今日も正しく機能している。
その中で、わたしもまた、正しく呼吸していた。
この世界は今日も正しく機能している。その中で、わたしもまた、正しく呼吸していた。――そう思った瞬間に、自分の中で何かが鳴った。
警報音ではない。胸の奥が、乾いた指先で弾かれたみたいに小さく震えた。
理由は分からない。分かる必要もない。理由を探し始めた時点で、わたしは職務の規範から外れる。
それでも足が止まりそうになって、わたしは少しだけ歩幅を広げた。
駅へ向かう導線は朝と同じように滑らかだった。群れは流れ、交差点は滞りなく捌かれ、信号は規定の周期で切り替わる。
人間は単体として見えない。輪郭を持った個として見えない。
ここにいるのは、ただ規定に沿って移動する集合体だ。規定に沿う限り、安心だ。
規定に沿わない色は、危険だ。——そういう前提の上に、この街は立っている。
改札を抜けて、ホームに出る。
列車は定刻どおりに来て、定刻どおりに出る。扉が閉まる音だけがやけに明瞭で、他はすべて吸い込まれていく。
車内の広告は静止画だけだ。動画は許可制で、公共交通における刺激値の上限に達しやすいからだと説明されている。
説明はいつも、正しい。
わたしは吊革に掴まり、窓の外を見た。夜の窓は鏡になる。そこに映る自分の顔は、仕事の顔だった。
笑っていない。眉間にしわを寄せてもいない。
感情の中間に、正確に固定されている。
大学校を出た頃は、違ったはずだ。もっと、何かを「嫌だ」と思うことができた。
もっと、何かを「正しい」と信じることができた。今はどちらも難しい。
帰宅すると、玄関の照明がわたしの彩度を読み取って、適正な色温度に調整された。
こういう設備があると、便利だ。便利である限り、依存する。
上着をかけ、靴を揃える。鏡の前で髪をまとめ直したとき、ふと自分の首元に視線が止まった。そこには、喉元に沿って垂れる一枚のスカーフがある。
――黒。
第一管区の色。何者にも染まらない、という意味を与えられた色。
どこにも属さず、どこにも溶け込まないという宣言のような色。
わたしは指先で、布の端をわずかに整えた。皺ひとつないその黒が、かえって不自然に思える。
他の管区の調査官たちは、それぞれの色を身にまとっている。静寂に潜む青、明るく照らす黄、安寧と平和を示す緑。色は、所属であり、帰属であり、ある種の誇りだ。
それに比べて、この黒はどうだろう。「何者にも染まらない」それは裏を返せば、「どの色にもなれない」ということではないのか。
わたしは一瞬だけスカーフから視線を逸らした。
その問いに答えを出すには、まだ早すぎる気がした。
制服を脱いだ瞬間、わたしはただの「一個体」になる。
それは自由のはずだ。
でも実際には、輪郭の支えを失ったみたいに不安定になる。
キッチンで水を飲み、冷蔵庫を開けた。中身は整然としている。彩度管理された食品が、色別に配置されている。管理が悪いと、簡単に違反になる。調理前の食材でも、持ち出し時に「混合色」と判断されると面倒だ。
わたしはパックされた主食と、低彩度の副菜を取り出した。
食事は、生きるための手続きだ。
温め、皿に移す。皿は白い。
白は、無色に見えて、いちばん厄介だ。白はすべての光が混ざった色だと教わった。
つまり、最も汚れた色でもある。
この世界で「純白」が特別視されるのは、矛盾の上に成り立っている。
わたしはその矛盾を、口に入れる。
味はしないわけではない。だが、味を評価する習慣が消えて久しい。
食べ終えたあと、端末が震えた。業務端末ではない。個人端末だ。
画面には、非通知の番号が表示されている。
一拍置いてから出る。
「春野」
聞き覚えのある声だった。
牧田ハイマだ。彩理専門官。
「どうした」
「いま話せるか」
「短く」
わたしは椅子に座り直し、端末を耳に当てる。
ハイマは無駄を削ぐ人間だが、用がないときに連絡してくるほど軽くもない。
「午前の事故、ログを見た」
わたしの口の中に残っていた白が、急に重くなる。
わたしはそれを飲み込んだ。
「基準値以下だった」
「数値の話はしてない」
短い否定。
ハイマの声には、感情ではなく、結論が含まれていた。
「揺らぎの形が、自然じゃない」
「……自然じゃない、の定義は?」
「自然現象はノイズとして散る。今日は違う。——線だ」
線。
彩因の分布が、点ではなく、線として残る。
わたしは今日の現場の視界を頭の中で再生した。
何もなかった。
何もないように処理した。
「防染は完了してる」
「残留彩度は回収できる。でも原因は回収できない」
ハイマはそこで一度だけ息を吐いた。
疲れた吐息ではなく、思考の区切りだ。
「上に報告した。返事はまだだ」
「報告、というと」
「不正操作の可能性。——微小でも、形が一致する」
不正操作。
その言葉が、わたしの部屋の空気を一段冷やした。
イロドリ犯罪。
彩因不正操作犯罪。
この街で最も嫌われる種類の犯罪だ。色をいじる人間は、世界をいじる人間だと見なされる。
危険というより、不快だ。危険は対処できる。不快は伝播する。
「それは、まだ」
「まだ、だ。だから連絡した」
ハイマは言葉を選んでいるようで、選んでいない。必要なことしか言わない。
それが彼の誠実さだと、わたしは理解している。理解しているつもりだ。
「春野、明日、少し早く来い。記録室で照合したい」
「命令?」
「提案。拒否してもいい」
提案という形を取るのは、彼の性格ではない。
これは配慮ではなく、制度への遠慮だ。
わたしは端末を握る指に力が入っているのを感じた。
どこかで自分が、何かを選ばされている。
その感覚が嫌だった。
「行く」
即答すると、ハイマは少し間を置いた。
彼の沈黙は、安心のための沈黙ではない。
確認のための沈黙だ。
「了解。——あと」
「なに」
「クルリには、まだ言うな」
わたしは眉を寄せた。
「クルリが拾ったのか」
「拾ってる。あいつ、目がいい」
目がいい。それは誉め言葉だ。しかし現場では、欠点にもなる。
「分かった」
「じゃあ、切る」
通話が終わった。
画面が暗くなり、部屋に残るのは静けさだけだった。
わたしはしばらく動けなかった。
基準値以下という言葉が、舌の上で変な味を出していた。
基準値以下。それは免罪符だ。
規定に収まっている限り、問題は存在しないとされる。逆に言えば、規定から外れた瞬間に、人間は「問題」に変わる。
色も、人も、同じだ。
わたしは立ち上がり、洗い物を片付けた。水の音が、部屋の静けさを切り裂く。
刃物みたいな音だと、一瞬思った。
刃物——。
台所の引き出しにある包丁の輪郭が、頭に浮かぶ。わたしはその連想をすぐに切り捨てる。
余計な関心は、不要だ。
ベッドに横になった。
天井の白が、やけに明るい。白は、最も汚れた色。それでも人は、白を「純粋」だと信じたがる。
わたしは目を閉じた。
眠れるかどうかは分からない。眠れないなら、眠れないまま朝を迎えるだけだ。
朝はいつも同じ色をしている。
そのはずだった。
——けれど、その夜の終わり際、わたしは夢の中で「線」を見た。
点ではなく、線。色が、意志を持ったみたいに伸びていく。
誰かが引いた線だ。
誰かが、この世界に触った線だ。
目を覚ましたとき、わたしは自分が息を止めていたことに気づいた。
呼吸を整え、端末を見る。時刻は午前四時。まだ朝ではない。しかし、わたしの中ではすでに始業ベルが鳴っていた。
——関心を持たない方が楽だ。
そう自分に言い聞かせながら、わたしは布団から出た。
制服に袖を通すためではない。制服がなければ、輪郭が保てないからだ。
第一管区彩務部へ向かう。
明日、わたしは記録室で「線」を見る。
そして、その線がどこへ繋がっているのかを、たぶん知ってしまう。
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