第4話 限界宣言


 あの最悪な食事会から数日が過ぎても、私と誠の間に横たわる溝は埋まらなかった。


 会話は必要最低限。「おはよう」「おやすみ」「ご飯できたよ」。それだけだ。  誠は私の機嫌を損ねないよう、腫れ物に触るような態度を続けている。それが余計に私を苛立たせていることにも気づかずに。


 金曜日の夜。  夕食後の片付けを終えた私は、リビングのソファでスマホをいじっていた誠の前に座った。


 テレビのバラエティ番組の音だけが、空虚に響いている。


「誠。少し話せる?」


 私が切り出すと、誠はビクリと肩を跳ねさせ、慌ててスマホを置いた。


「う、うん。何かな」


「お義父さんのこと」


 その単語が出た瞬間、誠の顔から表情が消えた。  逃げ出したい、という心の声が聞こえてきそうだ。


「単刀直入に言うね。私、もう限界なの」


「限界って……」


「お義父さんのあの態度。そして、それを黙って見ているあなた。これ以上続くなら、私にも考えがある」


 私は深呼吸をして、できるだけ低いトーンで続けた。


「……離婚も、視野に入れてるから」


「えっ!?」


 誠が裏返った声を上げた。


「り、離婚!? なんでだよ! 俺たち上手くいってるじゃないか。親父のことは別問題だろ?」


「別問題じゃないよ。親族なんだから。あなたが親族としての責任を果たさないなら、私は他人になるしかない」


 誠は口をパクパクさせている。信じられない、という顔だ。  彼にとって、義父の横暴は「台風」のような自然災害で、耐えれば過ぎ去るものという認識なのだろう。だが私にとっては、防げるはずの人災だ。


「それとね、誠。私、聞いたよ。お義母さんから」


「……何を?」


「三年前の、漢方薬局での事件」


 誠の顔色が、一瞬で土気色に変わった。  やっぱり、知っていたのだ。私には隠していただけで。


 先日、義母に電話で相談した時に教えてもらったのだ。


 義父・昭三は三年前、個人輸入の漢方薬を取り寄せようとして、配送が数日遅れたことに激昂した。  それだけならまだしも、その薬局に乗り込み、「俺を殺す気か!」「土下座して詫びろ!」と二時間にわたって怒鳴り散らしたらしい。


 結果、営業妨害で通報され、パトカーに乗せられた。  店側が被害届を出さなかったため厳重注意で済んだが、近所では有名な話だという。


「……知ってたんでしょ?」


「あ、ああ……まあ」


 誠は視線を泳がせた。


「でも、あれは親父も体調が悪くて気が立ってて……それに、警察沙汰になったのはあれ一回だけだし」


「一回でもあれば十分だよ!」


 私は思わず声を荒らげた。


「あれは犯罪手前の行為なの。店員さんに土下座を強要したり、大声で恫喝したり……今の時代、完全にアウトなんだよ。あなたが『親父は昔気質なだけ』なんて甘いこと言ってるレベルじゃないの」


 私は誠の目を真っ直ぐに見つめた。


「次に、あんなことがあったら。あなたがまた黙って見てるだけだったら……私は私のやり方で終わらせる」


「終わらせるって、何を……」


「全部よ」


 夫婦関係も、義父との関係も、何もかも。  具体的な言葉にはしなかったが、誠には伝わったはずだ。


 彼は青ざめた顔で、縋るように言った。


「分かった、分かったよ美咲。次は……次は俺も頑張るから。だから離婚なんて言わないでくれよ」


「『頑張る』じゃなくて『やる』の。守ってよ、私を」


 誠は弱々しく頷いた。  その頷きが、どれほど頼りないものか、私は痛いほど分かっていた。  染み付いた恐怖心は、そう簡単には拭えない。


 それでも、私はこの「最後通告」をする必要があった。彼に最後のチャンスを与えるために。


 ◇


 翌週。  まるで私の覚悟を試すかのように、義父から再び連絡が入った。


『おう美咲ちゃん。先日はどうもな。今度はあそこの焼き肉屋に行こうと思うんだが、どうだ?』


 懲りない人だ。  だが、私は逃げなかった。


「分かりました。行きます」


 電話を切った後、私は鏡の前で自分の顔を見た。  そこには、もう媚びへつらう嫁の顔はなかった。  戦場に向かう兵士のような、冷たく光る瞳があった。


(次が、最後)


 もしまた義父が暴れ、誠が逃げたら。  その時は、私が全てのケリをつける。


 こうして、運命の「最後の食事会」の幕が上がろうとしていた。  だが私はまだ知らなかった。  そこで誠のトラウマの根源となる、凄惨な過去の記憶がフラッシュバックすることになるとは。

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