死にたがりの僕は今日も誰かを見つめている

@White928

窓辺に、僕の席はなかった

 死にたがりの僕は、今日も窓辺から誰かを眺めている。理由なんて、とっくに忘れた。ただ、教室の景色はいつも少し眩しくて、僕はそこに混ざれないまま時間だけが過ぎていく。昼休みの喧噪。机を寄せ合う笑い声。誰かの冗談に、誰かが、照れて誰かが笑う。僕は椅子の背もたれに腕を組んで寄りかかりながら、ぽつりと呟く。

『今日も、僕のことを見てくれる人は居ない』

まあ、いつものことだ。寂しいと思うべきなのかもしれないけど、胸は案外静かだった。


窓の外のグラウンドでは、体育の授業が終わったらしい。泥のついたボールが転がり、一年生の誰かが慌てて追いかけていく。風が吹き抜けるたび、僕の髪がふわりと揺れた。その時だった。

「あれ、この席って誰のだったっけ?」

すぐ横で、女子の声がした。僕の机の上に、白い小さな花瓶が置かれている。カスミソウが数本、頼りなく揺れた。

(なんで花?ここって確か僕の机.....だったよな)

ぼやける記憶。考えようとすると霧がかかる。別の女子が花瓶の横に教科書を無造作に置いた。プリントが散らばり、席が物置みたいになっていく。

「だれも座ってなかったし、いいじゃん」

僕は思わず手を伸ばす。散らばったプリントを拾いたくて、花瓶をどかしたくて。.....触れられない。指先は何もないみたいにすり抜ける。胸の中で何かが軋んだ。なのに、痛いのかどうかもよくわからなかった。

黒板の日直表には、どこか見覚えのある名前が書いてある。読み慣れたはずなのに、焦点が合わない。まるで僕の脳だけが、その文字を理解することを拒んでるみたいだ。

「.....これ、僕の名前?」

声に出してみたが、返事はない。誰も僕の存在を意識しない。僕の視線を避けるわけもなく、ただ最初から見えていないように。昼休みが終わる頃、ひとりの男子が花瓶の前に立った。短い前髪、あまり笑わない瞳。僕はその横顔を知っている気がした。彼はそっと目を閉じ、手を合わせる。

「.....海斗」

かすれるような声。僕の胸が静かに鳴った。けれど、その名が僕自身だと認める勇気はなかった。男子は花瓶の花を指先で撫で、ゆっくりと席へ戻る。その肩が、少しだけ震えていた。

(なんだろう、この感覚.....温かいのに、どこか切ない)

僕はただ見つめていた。言葉は喉の奥で凍りついたまま、届かない。誰も気づかない席。存在しない声。それでも、僕は今日も誰かを見つめている。春の風が窓から入り込んで、白いカーテンをふわりと揺らす。その向こうに見える校庭では、いつものように野球部が声を張り上げていた。けれど僕には、その音がどこか遠い世界の出来事みたいに聞こえる。

「海斗ー、ホームルーム始まるぞ」

優斗が僕の方を軽く叩いた。......はずだったのに、彼の指先が僕の肩をすり抜けるような感覚があった。触れたようで触れていない。僕は振り返りながら笑ってみせる。

「ちゃんと起きてるって。ほら」

本当は少しだけ胸がざわついていた。でも、それをごまかすのは昔から得意だ。優斗は呆れたように笑い、僕の席の前に立つ。そこに花瓶が置かれていなければ、きっと何でもない光景だった。透明なガラス。白百合が一輪。僕はちらりとそれを見て首を傾げた。

「.....なあ優斗、これ誰の?」

「海斗のだろ?昨日みんなで話してさ。ほら、あれ.....」

優斗は言いかけて、言葉を飲み込んだ。まるでその先を言っちゃいけないみたいに。僕には全く心当たりがない。そもそも、僕の机に花を飾られる理由なんて―—


花瓶を見たとき、なぜか責められている気がしなかった。誰かが、僕の席を忘れないようにしてくれたみたいで。

“死んだ人の机に飾るものじゃないか。”

ふと胸が冷たくなる。でも、そんな考えはすぐに打ち消した。笑ってしまう。僕は元気だし、ここにいる。みんなと同じように授業を受けて、優斗とふざけ合って、コンビニでアイスを買って帰る。それが日常だ。.......違うのか?

昼休み、僕は優斗と屋上のドアの前に座り込んだ。鍵が壊れていて、開かない。でもここは風が通って気持ちいい。優斗は購買で買ったパンをちぎりながら言う。

「最近さ、お前ちょっとぼーっとしているよな。何考えてんだ?」

僕は答えずに空を見上げた。青がやけに鮮やかで、手を伸ばしたら届きそうなのにどこまでも遠い。

「なあ、優斗。俺たちってさ——」

言いかけたとき、優斗の声が重なった。

「海斗。俺......お前が好きだ」

パンを握る優斗の指が震えていた。僕の心臓も、同じリズムで震えた。

「笑うなよ。わかってる、変だよな。ずっと隣にいて.......いつの間にかこうなっていた」

優斗の目が、真っ直ぐに僕を射抜く。その目の奥に、後悔の影が見えたのは気のせいだろうか。僕は少し息を吸って、そっと笑った。

「変じゃない。僕も——優斗が好きだよ」

言葉にした瞬間、優斗の表情が崩れた。泣きそうな笑い顔。その顔を見て、胸がきゅっと痛む。優斗が顔を近づける。僕との距離が、ゆっくりと、吸い寄せられるみたいに縮まる。.....触れられるだろうか。この胸のざわつきは、恋のせいか。それとも。唇が触れそうになった瞬間、世界の音が全部消えた。僕の身体は、透けていた。薄い膜のように陽光を透かし、その向こうに校舎の壁が見える。優斗の瞳に、恐怖と悲しみが同時に浮かんだ。優斗は震える手で僕の頬に触れようとした。だがその指先は、やはり僕の輪郭をすり抜けた。僕は自分の手を見つめる。光が透け、まるで靄のようだ。

—僕は、生きていない?

そんな考えが脳裏をかすめて、でもすぐには信じられなくて。優斗の顔が近い。逃げられないほど近い。僕は目を閉じた。次の瞬間、ふっと風が吹いたような感覚のあと——触れられた。優斗の唇が、ほんの刹那、僕の唇に触れた。音が消えたあと、心臓の音だけが二人分、重なって聞こえた。暖かい。確かにそこにある。世界の境界が音を立てて崩れていくような感覚に包まれる。優斗の指が僕の頬に沿い、その体温が溶け込んでくる。僕はその手に自分の手を重ねた。重ねられた—触れられた。

「.......優斗」

声をかけた瞬間、景色が滲んだ。色彩が溶け、音が歪む。咄嗟に優斗と繋いだ手をぎゅっと握る。離れたらいけない気がして。

でもその温もりが、指の間から水みたいにすり抜けた。優斗の瞳だけがはっきり見えた。涙で赤く腫れ、僕を必死に追っている。

「海斗!!行くなよ!!置いていくな!!」

優斗の叫びが遠ざかる。僕の身体は透けきり、世界から剥がれ落ちるみたいに消えた。最後に見たのは、花瓶の白百合が揺れ、花びらがひらひらとゆかに散る姿だった。

翌日。教室へ入ると、そこには妙な静けさが漂っていた。みんな優斗の席のあたりに集まっている。僕は近づいて声をかけた。

「優斗?今日眠そう」

優斗は机に突っ伏したまま動かない。肩に触れようと手を伸ばすと、すり抜けた。

(......あれ?昨日は触れられたのに)

担任が震える声で言った。

「.....優斗のご冥福を、祈ります」

世界が止まる。僕は笑う。くすぐったい夢の悪戯だと思いたくて。

「やめろよ、そんな冗談......僕は、ほら、ここに——」

言いかけて気づく。誰も僕を見ていない。僕の声は空気に溶け、優斗の冷たい手は僕に触れられない。花瓶に添えられたカードには文字があった。

『海斗のために祈ります 優斗より』

そして下にもう一行。

『明日、海斗に会いに行く』

優斗の席に寄り掛かり、僕は呆然としたまま動けなかった。彼の背中は小さく見えた。昨日まで僕に触れ、笑っていた身体が、今はただの温度のない殻だ。死を理解するには、あまりに唐突過ぎた。だって、昨夜僕たちは確かに触れ合った。唇も、手も、声も届いていた。それは夢ではなかったはずだ。

「ねえ.....優斗。何してんだよ。返事してよ」

机に突っ伏す優斗の肩に触れようと手を伸ばす。指先は、冷たい空気を掬っただけだった。手が震える。息が詰まる。心臓があるなら、きっと悲鳴を上げて叫んでいる。僕は今更になって気づく。

僕はもう、この世界の住人じゃない。

優斗が死ぬまでのあいだ、僕の存在は彼の中にだけ残っていた。キスで触れ合えたのは、優斗の「生きたい」と「追いたい」が交差した、短い奇跡だった。教室の片隅で、誰かが泣き崩れる声がした。優斗がどんな顔で死んだのか、誰も知らない。でも僕だけはわかっている。

僕を追うようにして、逝ったんだ。

それが、胸を締め付ける。嬉しいと思ってしまった自分が、苦しいほど怖い。

「......なんでだよ」

やっと絞り出した言葉も宙を迷うだけで、誰にも届かない。僕は世界の壁の外側にいる亡霊で、彼の涙すら触れられない。


その日から僕は、優斗の霊を探した。放課後の校舎、閉鎖された音楽室、彼が帰り道に寄っていた川沿い。幽霊でも疲れることを初めて知った。たまにかぜに混じって、微かに声が聞こえる気がした。

『....海斗』

幻聴だとしても、追わずにはいられなかった。僕がいなくなった世界で、優斗はどんな絶望を抱えたのか。知らなきゃ前に進めなかった。

夜、校舎の階段を降りると、優斗の机と同じ白百合の香りがした。薄暗い廊下の先、非常灯だけの場所に、背中が見えた。

「優斗.......?」

振り返らない影。僕は近づく。触れられないとわかっていながら、それでも伸ばす。距離が縮まるほど、胸が重くなる。あと少しで届くその瞬間、影はゆっくりと溶けるように消えた。

「待って!!行かないで!!」

声が廊下に響き、音が虚しく散る。優斗は僕が届く寸前の距離にいて、掴めない。まるで「追いかけてこい」と誘うようだった。僕はその夜、初めて泣いた。涙は落ちなかったが、心は確かに濡れていた。


光もない場所。上下も前後もない、深い海の底みたいな世界。気づくと僕はそこにいた。身体も影も曖昧で、存在が霧みたいにぼやける。孤独だった。でもその孤独の中心に、誰かが立っていた。

「......海斗」

優斗だ。かつてのように制服で、あの目で僕をまっすぐ見る。手を伸ばす。今度はすり抜けなかった。優斗の指が僕の指に触れ、しっかり絡んだ。

「来てくれたんだな。......置いていかれるの、怖かった」

「僕だって.......怖かったよ。優斗がいなくなるのが」

近づく。呼吸が触れ合う距離で、目を閉じた。唇が重なる。昨日の奇跡よりも深く、長く、溺れるみたいに。闇に温度が生まれ、世界が少しずつ色を取り戻していく。二人の影が寄り添うように重なった。

「もう、離れないよ」

「うん。どこにも行かない。ここで一緒にいる」

この場所が何かはわからない。天国か地獄か、あるいはその境界か。でもそんなことはどうでもよかった。二人が触れられるなら、それでいい。現世ではバッドエンド。けれどこの闇の奥でだけ、僕らは確かに救われていた。


卒業式の日。集合写真を撮る前、誰もいないはずの教室でシャッター音がした。写真には、生徒の列の一番後ろ。窓際の光の中にぼんやりと二人の少年が写っていた。窓の外では、いつものように夕焼けが滲んでいた。教室はもう使われていない場所みたいに静かで、僕の席が少しだけ浮いて見える。

名前を呼ばれなかった理由をようやく理解した気がした。黒板の文字が読めなかったのも、みんなの声が遠かったのも、全部。それでも、海斗の手の温度だけは確かだった。

「....優斗」

呼ぶと優斗は困ったみたいに笑った。

「遅いよ」

その一言で、胸の奥がほどけた。理由も、恐怖も、未練も、全部置いていけると思った。窓辺の机には、白い花が一輪置かれていた。誰が持ってきたのかは分からない。だた、責められている気がしなかった。忘れないよ、と言われた気がしただけだ。世界が静かに裏返る。

その日、二人分の影が、教室から消えた。

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