釣ラネバナラヌ

なきぱま

第1章:沈んだ世界

目が覚めた。


いつもと同じ眺めだ。

ベッドと呼ぶには少し気が引ける木の板から、慎重に足を下ろす。ここは少しでも気を抜くとバランスを崩す。毎朝のことなのに、今日も一瞬よろけた。


手を伸ばし、釣り道具――相棒を掴む。

これだけは、裏切らない。


外に出ると、目が痛くなるほどの光が視界を埋めた。海に反射した朝日だ。

重たい瞼をこじ開けると、海上集落ステーブルが見える。昨日と同じ。たぶん明日も同じ。


建物はどれも歪で、継ぎはぎだらけだ。使える資材が限られているのは見れば分かる。それでも、人はここで暮らしている。文句を言う余裕なんて、とっくに沈んだからだ。


「鑑か。おはよう」


声をかけられて、軽く手を上げる。


「……ウッス」


挨拶は、今でも少し苦手だ。悪気はない。ただ、どう返せばいいのか分からない。


俺は足早に桟橋へ向かう。

仕事の時間だ。


船は、この世界では命と同じ価値を持つ。だが、子供の俺が持てるはずもない。だから今日も、停留所の脇に立ち、竿の糸を垂らす。


海は、何も言わない。

それが、昔からずっと気に入らなかった。


…なんて考えてるうちに釣り糸が、急に重くなった。

「重テェ……異世界種か?!」

思わず声が漏れる。反射的にリールを回す。

技術なんてものはない。考えるより先に体が動く。ずっと、こうやって生きてきた。


一瞬、引きが止まった。

――外れたか?


そう思った次の瞬間、糸が軋んだ。

「チッ……まだいんのかよ!」

歯を食いしばって、さらに回す。

脳筋釣りだろうが何だろうが、引き上げりゃ勝ちだ。

「おりゃぁ!!」

水面が弾け、獲物が桟橋に叩きつけられる。

「釣ってやったぜ!!!」

誰も見ていない。

だから、少し声が大きくなった。こういう時だけは、年相応に浮かれてしまう。


……で、何だこれは。


ヒレが五つ。

身は薄く、骨ばかりで、魚というより骨格標本に皮を被せたみたいだ。

「……高くはならなさそうだな」

ため息と一緒に、肩の力が抜ける。

こんなものが当たり前に釣れる海――


俺は、ふと視線を上げかけて、やめた。

空を見る癖は、もうない。


どうせ、何も変わらない。

そう思い込む方が、ずっと楽だからだ。


…朝から、思ったより力を使ってしまった。

このあばら魚――名前も分からない異世界種でも売れれば、昼飯代くらいには……ならねぇか。

そう考えているうちに、市場に着く。


「……ァの」


「うおっ。なんだ、鑑か」


やっぱり会話は苦手だ。

喉が詰まる感じがして、声がうまく出ない。


「……これ、売りたいんですけど」


「異世界種か? 見せてみな」


魚を見るなり、商人は鼻を鳴らした。


「だめだめ。点でダメだ。食いもんにもなりゃせん。十円にだってならねぇ」


「……そうですか」


「まぁ、五円なら買ってやらんこともない」


少し考えて、首を縦に振る。

どうせ、これ以上話したくない。

金を受け取って、すぐに背を向ける。

背後から、声が聞こえた。


「おい、見てみろよ! 新種だぜ新種!」


「マジか!? どこで釣れた!」


「偏屈小僧からよ!五円で買い叩いてやったわ!」


笑い声が重なる。


振り返らなかった。

悔しくないと言えば嘘になる。でも――もう慣れた。


この世界じゃ、

騙される方が悪い。


そういうことになっている。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る