地下室の独立自尊

シガ

第1話 地下室の独立自尊

 昭和四十三年の秋、未田の銀杏並木が黄金色に染まる頃、一枚の怪文書が学内に出回り始めた。


「慶答義塾学生諸氏に告ぐ」


 そう大書された謄写版刷りの紙片は、まるで幽霊のように講義室の机上に、図書館の閲覧席に、学生食堂のテーブルに現れた。誰が配っているのか、誰も目撃した者はいない。


 文学部三年の佐伯誠一郎は、その朝、いつものように遅刻ギリギリで教室に滑り込んだとき、自分の席に一枚の紙が置かれているのを見つけた。


「慶答義塾学生諸氏に告ぐ。福沢先生の真の遺志を継ぐ者よ、今宵子の刻、図書館旧館地下の扉を叩け。独立自尊の精神を問う」


 佐伯は鼻で笑った。また学生運動かぶれの連中の悪ふざけだろう。だが、席に着いて周囲を見回すと、クラスメイトたちも同じ紙片を手にして、困惑した表情を浮かべている。


「なあ、お前のところにも来てたか?」


 隣の席の親友、田村が囁いた。


「ああ。くだらない悪戯だろう」


 だが田村の目は真剣だった。彼は民俗学研究会に所属していて、こういった不思議な出来事には敏感だった。


「ただの悪戯に見えるけど、『図書館旧館地下』ってのは妙だ。旧館は確かに地下があるけど、公認の出入り口はないはずだぜ」


「はぁ...だとしたらよくもまぁこんなビラを堂々とばらまけるなぁ、学生課が気づかないわけないよ」


「つまりそれだけの組織力があるってことか」


「まあ、行ってみようじゃないか。図書館旧館の地下なんて、入ったことないだろう? 気にならないか?」


 佐伯は肩をすくめた。しかし、その日一日中、あの文言が頭から離れなかった。


 子の刻。真夜中の零時である。夜、子宮のような静けさに包まれた未田キャンパス。銀杏の葉が風に鳴る音だけが、闇を裂いて響く。


 佐伯誠一郎は、懐中電灯を握りしめて旧図書館の裏手に立っていた。田村は結局、怖じ気づいて来なかった。親父と喧嘩をしてしまって、今晩は家を出られないという言い訳だった。まったく、腰抜けめ。


 僕は違う。と彼は考えた。だけど心臓が高鳴っているのがわかる。でも、ここで引き返すわけにはいかない。なぜなら——いや、なぜだろう?


 旧館は昭和十年に建てられた赤レンガの建物で、戦災を免れた数少ない遺構だった。普段は研究室と書庫に使われているだけで、夜は完全に閉ざされている。地下への扉など、存在すら知らなかった。


 裏門の錆びた鉄扉を抜けると、すぐに階段が見えた。石段は苔むし、湿った空気が肺の奥まで染み込んでくる。懐中電灯の円い光が、闇の中にぽっかり浮かぶ。


 十三段目を降りきると、そこにあったのは重い鉄の扉だった。錆びてはいるが、明らかに最近まで使われていた形跡がある。蝶番には油が差してある。


 佐伯は息を呑んだ。叩くべきか。それとも?

 ここで引き返せば、ただの笑い話で終わる。

 だが、指は勝手に動いていた。


 コン、コン、コン。


 三回、静かに扉を叩く。

 しばらく沈黙が続いた。もう誰もいないのかと思った、その瞬間。

 ガチャリ、と音がして、扉が内側から開いた。


「遅かったな、佐伯」


 そこに立っていたのは、予想もしなかった人物だった。

 文学部の助教授、藤井だった。いつも穏やかな笑みを浮かべている、あの藤井先生が、今は全く別の顔をしていた。背広ではなく黒い学生服姿で、胸には確かに慶応の校章が輝いている。


「入れ。待っていたぞ」


 地下室は意外に広かった。天井の低い部屋に、古びた長机が一列に並び、十人ほどの学生が座っていた。皆、上級生だ。顔見知りも何人かいる。誰も口を開かない。ただ、真ん中に置かれた一枚の紙を見つめている。


 それは、あの怪文書と同じ謄写版刷りだった。


 藤井が静かに言った。


「諸君、ようこそ『黒龍会』へ」


 佐伯は息を呑んだ。戦前の、伝説の右翼学生組織。もう三十年以上前に解散したはずの、あの。


「我々は福沢先生の真の遺志を継ぐ者たちだ。『独立自尊』とは、国家の独立であり、民族の自尊だ。戦後GHQによって歪められたこの義塾を、本来の姿に戻すために」


 藤井の声は静かだったが、地下室全体を震わせるほどの力強さがあった。


「今夜から、諸君には訓練が始まる。精神鍛錬と肉体鍛錬。そして、新しい日本のための理論武装だ。もちろん拒否権などない。知ってしまった以上、逃げることは許されない」


 佐伯は足が震えるのを感じた。震えているのは、恐怖か、それとも。


 興奮か。


 机の上に、一枚の紙が滑ってきた。

 それは、誓約書だった。


 血判を押すための、小さな懐剣が横に置かれている。

 外では、銀杏の葉がまた一つ、風に舞って落ちた。黄金色の葉は、闇の中で音もなく消えていった。


「待ってください」


 佐伯の声は、自分でも驚くほど冷静だった。懐剣に手を伸ばすことなく、藤井の目を真っ直ぐ見据える。


「福沢先生の『独立自尊』が、なぜ血判を必要とするのですか」


 地下室に緊張が走った。他の学生たちが一斉に佐伯を振り返る。藤井の表情が一瞬、硬くなった。


「何を言っている」


「『一身独立して一国独立す』。福沢先生の言葉です。独立自尊とは、誰かの命令に盲従することではなく、自らの理性で判断し行動することだと、僕は理解しています」


 佐伯は震える手で誓約書を取り上げた。薄暗い電灯の下で目を凝らす。


「ここに書かれているのは『絶対服従』と『秘密厳守』。これは組織への従属であって、独立ではない」

「黙れ!」


 藤井が初めて声を荒げた。


「貴様に何が分かる。戦後二十三年、この国は占領軍に魂を奪われたのだ。真の独立を取り戻すには、まず志を同じくする者たちが結束しなければならん」

「では、なぜ秘密結社なのですか」


 佐伯は怯まなかった。


「福沢先生は『門閥制度は親の仇』と公言された。隠れて活動することこそ、先生の精神に反するのではありませんか」


 藤井の拳が長机を打ち付けた。金属製の机が冷たい音を立てた。


「青二才が。現実を見ろ。表立って言えば潰される。今は水面下で力を蓄える時期なのだ」


「力……その力とは具体的に何ですか?」


 佐伯は自分の声が落ち着いていることに驚いた。恐怖よりも、怒りと疑問が先に立っている。


「武器か?暴力か?それとも政治的発言力か?」


 藤井の目が細くなる。


「すべてだ。必要なものを得るために必要な手段を講じる。それが現実というものだ」

「では、その『現実』とやらは、先生の教えと調和するのでしょうか」


 佐伯は机上の紙をひらひらと振った。


「ここには『大日本帝国憲法の復活』とありますね。福沢先生は明治憲法についてどう評価されたか、ご存知ですか?」


 藤井の顔が歪んだ。


「そんな細かいことはどうでもいい!大事なのは現体制を打倒し、日本人の手に本当の国家を取り戻すことだ!」

「そこですよ、藤井先生」


 佐伯は一歩前に進み出た。


「あなたが語るのは『現実』ではなく『理想』でしょう。それも、先生の思想から大きく逸脱した」


 地下室の温度が上がったような錯覚に陥る。壁際の上級生たちが殺気立っているのが分かった。


「黙れ!生意気な!」


 その時、部屋の奥から別の声が響いた。


「よく言った、佐伯君」


 暗がりから一人の老人が姿を現した。白髪で背筋の伸びた、威厳のある人物だ。佐伯は息を呑んだ。学部長の江藤教授だった。


「藤井君、やはり君のやり方は間違っていた」


 江藤教授の声は穏やかだったが、その場にいる全員を圧倒する力があった。


「教授......」


 藤井の顔が蒼白になる。


「私も戦前、この地下室で『黒龍会』の一員だった。国を憂い、行動することの尊さを学んだ。だが、我々は過ちも犯した。独善に陥り、異なる意見を封じ、やがて暴力に訴えた」


 江藤教授は佐伯に向き直った。


「君は正しい。真の独立自尊とは、まず自らの頭で考え、勇気を持って疑問を呈することだ。藤井君、君が本当に福沢先生の精神を継ぎたいなら、この若者の声に耳を傾けるべきだ」


 地下室が静まり返った。藤井は拳を固く握り締め、床を見つめている。


「残念だ」


 彼は低く呟いた。


「私は、戦争を知らない世代が軟弱になっていくことに焦りを感じていた。だが、佐伯の言う通りだ。強制や秘密主義は、福沢先生の教えではない」


 佐伯は誓約書を静かに机に置いた。


「藤井先生。先生の国を憂う気持ちは理解します。ですが、それを実現する方法は、もっと開かれたものであるべきではないでしょうか」


 江藤教授が頷いた。


「そうだ。この地下室を解散しよう。そして、もし本当に義塾の精神を問い直したいなら、日の当たる場所で、堂々と議論しようではないか」


 一人、また一人と、学生たちが立ち上がった。誰もが、何か重い荷を下ろしたような表情をしている。


 佐伯が地下室を出ようとした時、藤井が声をかけた。


「佐伯」


 振り返ると、藤井は複雑な表情で微笑んでいた。


「君のような学生がいることが、我が国の希望かもしれんな」


 地上に出ると、東の空が白み始めていた。秋の冷たい空気が、肺を洗うように清々しい。


 銀杏の葉は、朝日を浴びて金色に輝いていた。


 その日から、旧図書館の地下室は正式に封鎖された。そして翌週、三田の大教室で「福澤諭吉の思想を現代に問う」という公開討論会が開かれた。


 藤井も、江藤教授も、そして佐伯も登壇した。議論は時に激しく、時に笑いに包まれながら、深夜まで続いた。


 結論は出なかった。だが、それでよかった。

 独立自尊とは、完成された答えではなく、永遠に問い続ける姿勢そのものなのだから。

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