第2節 偽りの全能感がもたらす甘美な毒

 草原を歩くこと数時間。

 地平線の彼方に見えていた影は、巨大な城壁を持つ石造りの都市へと変わっていた。


 王都アルカディア。

 この大陸で最も栄えていると言われる冒険者の都だ。

 巨大な石門をくぐり抜けると、そこには前世のテーマパークすら霞むような、圧倒的な「異世界」が広がっていた。


 レンガ造りの建物が並ぶ大通り。

 行き交う人々の中には、猫耳を生やした獣人や、重厚な鎧を纏ったドワーフ、杖を持った魔法使いたちが混じっている。

 露店からは香ばしい串焼きの匂いが漂い、活気ある呼び込みの声が響く。


「すげぇ……本当にファンタジーの世界だ」


 俺は子供のように目を輝かせながら、大通りを歩いた。

 すれ違う人々は、俺を見ても眉をひそめない。

 前世では、疲れ切って死んだ魚のような目をしていた俺を、誰もが避けて通っていた。

 だが今は違う。

 鏡を見ていないから詳しくはわからないが、体の軽さからして、顔色も随分と良くなっているはずだ。


 俺が目指す場所は一つ。

 異世界転生のチュートリアルとも言える場所、冒険者ギルドだ。



 冒険者ギルド「銀の剣」亭。

 酒場を兼ねたその建物は、昼間から熱気と喧騒に包まれていた。

 重い木製の扉を押し開けると、ムッとするような酒と脂の匂いが鼻をつく。


 ガヤガヤと騒いでいた屈強な男たちの視線が、一斉に新入りであるオレに向けられた。

 値踏みするような、あるいは獲物を見るような鋭い視線。

 中には、明らかに威圧スキルを使っている者もいるようだ。


 ――だが。


(……ふん、なんだこれ)


 俺は鼻で笑いそうになるのを堪えた。

 彼らが放つ威圧感など、そよ風程度にしか感じない。

 かつて職場で浴びせられた、胃を直接握り潰されるような上司の怒号に比べれば、彼らの殺気など可愛いものだ。

 いや、それ以前に『精神耐性EX』が完全に遮断してくれているのだろう。


 俺は無数の視線を悠然と受け流し、カウンターへと真っ直ぐ歩いた。


「いらっしゃいませ。冒険者登録ですか?」


 受付に立っていたのは、栗色の髪をした愛想の良い女性だった。

 俺が頷くと、彼女は慣れた手つきで羊皮紙を取り出す。


「では、こちらの用紙に名前と……得意な武器や魔法があれば記入してください。その後、実技試験を受けていただきます」

「実技試験?」

「はい。魔物と戦う最低限の実力があるか、先輩冒険者に確認してもらうんです。……ちょうど、あそこにいるバルカスさんが適任かしら」


 受付嬢が視線を向けた先には、テーブル席でジョッキを片手に騒いでいる巨漢がいた。

 全身傷だらけで、背中には巨大な戦斧を背負っている。見るからに荒くれ者だ。

 バルカスと呼ばれた男は、ニヤリと笑って立ち上がり、俺の前に立ちはだかった。

 身長二メートルはあるだろうか。俺を見下ろす威圧感は相当なものだ。


「へえ、この優男が新入りか? おいおい、迷子がお家に帰るなら今のうちだぜ?」


 周囲の冒険者たちがドッと沸く。

 バルカスは俺の胸倉を掴もうと、丸太のような腕を伸ばしてきた。


 その瞬間。

 俺の中で、何かが弾けた。


 前世の俺なら、ここで縮こまって謝り倒していただろう。

 『すみません』『調子に乗りました』と、媚びへつらって逃げ出しただろう。

 だが、今の俺は違う。

 俺はもう、誰にも頭を下げない。誰の顔色も窺わないと決めたのだ。


「触るな」


 俺はバルカスの手首を掴んだ。

 自分でも驚くほど冷徹な声が出た。


「あぁ? なんだテメェ、生意気な……」

「試験なら受けてやる。だが、俺の体に指一本触れるな。汚れる」


 俺の言葉に、酒場が一瞬にして静まり返った。

 バルカスの顔が怒りで真っ赤に染まる。こめかみに青筋が浮かび、歯ぎしりの音が聞こえてきそうだ。


「……殺す」


 バルカスが咆哮と共に、その剛腕を振り上げた。

 戦斧ではない。素手による殴打だ。だが、その拳は岩をも砕くほどの威力を秘めているように見えた。


「死ねェッ!!」


 強烈なフックが、俺の側頭部に直撃する。

 ゴシャッ、という鈍い音が響き、俺の体はカウンターに叩きつけられた。

 受付嬢の悲鳴が上がる。

 誰もが俺の首が折れたと思っただろう。あるいは、頭蓋骨が砕けたと。


 ――しかし。


「……で?」


 俺はゆっくりと顔を上げた。

 首をコキリと鳴らす。

 確かに衝撃はあった。首の骨にヒビが入ったかもしれない。脳が揺れた感覚もあった。

 だが、それだけだ。

 痛みはない。『無限再生』が、損傷した組織をコンマ一秒で修復しているのがわかる。


「な……ッ!?」


 バルカスが目を見開き、後ずさる。

 俺は無傷の顔で、埃を払うように肩を叩いた。


「今のが試験か? 随分と軽い挨拶だな。蚊が止まったのかと思ったよ」

「バ、バカな……今のを喰らって、無傷だと……?」

「次は俺の番でいいか?」


 俺は一歩踏み出した。

 特別な格闘技の心得があるわけではない。

 ただ、今の俺には「痛みへの恐怖」がない。防御を捨てることへの躊躇いがない。

 それがどれほど恐ろしいことか、彼らはまだ知らない。


 俺は全力で、バルカスの顔面を殴りつけた。

 ドゴォッ!!

 素人の大振りなパンチ。だが、リミッターの外れた俺の拳は、バルカスの巨体を軽々と吹き飛ばした。

 男はテーブルを三つほど破壊し、壁に激突してずり落ちる。


「が、はっ……」


 白目を剥いて気絶したバルカスを見て、酒場は水を打ったように静まり返った。

 数秒の沈黙の後、爆発的な歓声が沸き起こった。


「おい見たか!? あのバルカスを一撃だぞ!」

「すげぇ! 新入り! やるじゃねえか!」

「お前、名はなんて言うんだ!?」


 称賛の嵐。

 好奇の視線。

 畏敬の眼差し。


 俺は、震える拳を見つめた。

 かつてキーボードを叩くだけだったこの手が、今は暴力という名の力を握っている。

 そして、その力が周囲を認めさせ、ひれ伏せさせている。


(……ああ、なんて甘美なんだ)


 俺の心を満たしたのは、今まで味わったことのない、強烈な全能感だった。

 これが強者の景色か。

 誰も俺を馬鹿にしない。誰も俺を虐げない。

 ここでは、俺がルールだ。


「登録を頼む」


 俺は受付嬢に向かって、ニヤリと笑いかけた。

 彼女は頬を赤らめ、熱っぽい瞳で俺を見上げている。

 

「は、はいっ! 喜んで……カナタ様!」


 カナタ様。

 その響きが、脳髄を痺れさせるように心地よかった。


 それからの一ヶ月は、まさに夢のような日々だった。

 『無限再生』と『精神耐性』を武器に、俺は破竹の勢いで依頼をこなしていった。

 ゴブリンの群れを単身で壊滅させ、凶暴なオーガの棍棒を素手で受け止め、危険なダンジョンのトラップを強行突破した。

 

 どんな攻撃も俺には通じない。

 どんな恐怖も俺の心を揺るがせない。

 俺は瞬く間に「不死身の新人」として名を馳せ、ギルドでも一目置かれる存在になっていた。


 金も手に入った。

 名声も手に入った。

 美しい女性たちからの誘いも絶えなかった。

 酒場で一番高い酒を飲み、一番柔らかいベッドで眠る。


「俺は最強だ……」


 高級宿のテラスで、夜風に吹かれながら俺は呟く。

 眼下には王都の夜景が広がっている。

 前世で俺を見下していた連中に見せてやりたい気分だ。

 俺はもう、歯車の一つじゃない。この世界の主人公は俺だ。


 もっとだ。もっと高い場所へ。

 もっと強い敵を。もっと莫大な富を。

 満たされない渇望が、俺を次なる冒険へと駆り立てる。


 そして、ある酒場の噂話で耳にしたのだ。

 北の果て、極寒の地に聳そびえる「誰も帰還したことのない塔」の話を。


(誰も帰還していない? 面白い、俺のための舞台じゃないか)


 慢心。

 そう呼ぶにはあまりにも純粋で、無防備な自信。

 俺はグラスに残った赤いワインを飲み干し、不敵に笑った。


 その塔に眠るのが、俺の全能感ごと心をへし折る「運命の相手」だとも知らずに。

 偽りの最強時代は、こうして絶頂を迎えていた。

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