第2節 偽りの全能感がもたらす甘美な毒
草原を歩くこと数時間。
地平線の彼方に見えていた影は、巨大な城壁を持つ石造りの都市へと変わっていた。
王都アルカディア。
この大陸で最も栄えていると言われる冒険者の都だ。
巨大な石門をくぐり抜けると、そこには前世のテーマパークすら霞むような、圧倒的な「異世界」が広がっていた。
レンガ造りの建物が並ぶ大通り。
行き交う人々の中には、猫耳を生やした獣人や、重厚な鎧を纏ったドワーフ、杖を持った魔法使いたちが混じっている。
露店からは香ばしい串焼きの匂いが漂い、活気ある呼び込みの声が響く。
「すげぇ……本当にファンタジーの世界だ」
俺は子供のように目を輝かせながら、大通りを歩いた。
すれ違う人々は、俺を見ても眉をひそめない。
前世では、疲れ切って死んだ魚のような目をしていた俺を、誰もが避けて通っていた。
だが今は違う。
鏡を見ていないから詳しくはわからないが、体の軽さからして、顔色も随分と良くなっているはずだ。
俺が目指す場所は一つ。
異世界転生のチュートリアルとも言える場所、冒険者ギルドだ。
◇
冒険者ギルド「銀の剣」亭。
酒場を兼ねたその建物は、昼間から熱気と喧騒に包まれていた。
重い木製の扉を押し開けると、ムッとするような酒と脂の匂いが鼻をつく。
ガヤガヤと騒いでいた屈強な男たちの視線が、一斉に新入りであるオレに向けられた。
値踏みするような、あるいは獲物を見るような鋭い視線。
中には、明らかに威圧スキルを使っている者もいるようだ。
――だが。
(……ふん、なんだこれ)
俺は鼻で笑いそうになるのを堪えた。
彼らが放つ威圧感など、そよ風程度にしか感じない。
かつて職場で浴びせられた、胃を直接握り潰されるような上司の怒号に比べれば、彼らの殺気など可愛いものだ。
いや、それ以前に『精神耐性EX』が完全に遮断してくれているのだろう。
俺は無数の視線を悠然と受け流し、カウンターへと真っ直ぐ歩いた。
「いらっしゃいませ。冒険者登録ですか?」
受付に立っていたのは、栗色の髪をした愛想の良い女性だった。
俺が頷くと、彼女は慣れた手つきで羊皮紙を取り出す。
「では、こちらの用紙に名前と……得意な武器や魔法があれば記入してください。その後、実技試験を受けていただきます」
「実技試験?」
「はい。魔物と戦う最低限の実力があるか、先輩冒険者に確認してもらうんです。……ちょうど、あそこにいるバルカスさんが適任かしら」
受付嬢が視線を向けた先には、テーブル席でジョッキを片手に騒いでいる巨漢がいた。
全身傷だらけで、背中には巨大な戦斧を背負っている。見るからに荒くれ者だ。
バルカスと呼ばれた男は、ニヤリと笑って立ち上がり、俺の前に立ちはだかった。
身長二メートルはあるだろうか。俺を見下ろす威圧感は相当なものだ。
「へえ、この優男が新入りか? おいおい、迷子がお家に帰るなら今のうちだぜ?」
周囲の冒険者たちがドッと沸く。
バルカスは俺の胸倉を掴もうと、丸太のような腕を伸ばしてきた。
その瞬間。
俺の中で、何かが弾けた。
前世の俺なら、ここで縮こまって謝り倒していただろう。
『すみません』『調子に乗りました』と、媚びへつらって逃げ出しただろう。
だが、今の俺は違う。
俺はもう、誰にも頭を下げない。誰の顔色も窺わないと決めたのだ。
「触るな」
俺はバルカスの手首を掴んだ。
自分でも驚くほど冷徹な声が出た。
「あぁ? なんだテメェ、生意気な……」
「試験なら受けてやる。だが、俺の体に指一本触れるな。汚れる」
俺の言葉に、酒場が一瞬にして静まり返った。
バルカスの顔が怒りで真っ赤に染まる。こめかみに青筋が浮かび、歯ぎしりの音が聞こえてきそうだ。
「……殺す」
バルカスが咆哮と共に、その剛腕を振り上げた。
戦斧ではない。素手による殴打だ。だが、その拳は岩をも砕くほどの威力を秘めているように見えた。
「死ねェッ!!」
強烈なフックが、俺の側頭部に直撃する。
ゴシャッ、という鈍い音が響き、俺の体はカウンターに叩きつけられた。
受付嬢の悲鳴が上がる。
誰もが俺の首が折れたと思っただろう。あるいは、頭蓋骨が砕けたと。
――しかし。
「……で?」
俺はゆっくりと顔を上げた。
首をコキリと鳴らす。
確かに衝撃はあった。首の骨にヒビが入ったかもしれない。脳が揺れた感覚もあった。
だが、それだけだ。
痛みはない。『無限再生』が、損傷した組織をコンマ一秒で修復しているのがわかる。
「な……ッ!?」
バルカスが目を見開き、後ずさる。
俺は無傷の顔で、埃を払うように肩を叩いた。
「今のが試験か? 随分と軽い挨拶だな。蚊が止まったのかと思ったよ」
「バ、バカな……今のを喰らって、無傷だと……?」
「次は俺の番でいいか?」
俺は一歩踏み出した。
特別な格闘技の心得があるわけではない。
ただ、今の俺には「痛みへの恐怖」がない。防御を捨てることへの躊躇いがない。
それがどれほど恐ろしいことか、彼らはまだ知らない。
俺は全力で、バルカスの顔面を殴りつけた。
ドゴォッ!!
素人の大振りなパンチ。だが、リミッターの外れた俺の拳は、バルカスの巨体を軽々と吹き飛ばした。
男はテーブルを三つほど破壊し、壁に激突してずり落ちる。
「が、はっ……」
白目を剥いて気絶したバルカスを見て、酒場は水を打ったように静まり返った。
数秒の沈黙の後、爆発的な歓声が沸き起こった。
「おい見たか!? あのバルカスを一撃だぞ!」
「すげぇ! 新入り! やるじゃねえか!」
「お前、名はなんて言うんだ!?」
称賛の嵐。
好奇の視線。
畏敬の眼差し。
俺は、震える拳を見つめた。
かつてキーボードを叩くだけだったこの手が、今は暴力という名の力を握っている。
そして、その力が周囲を認めさせ、ひれ伏せさせている。
(……ああ、なんて甘美なんだ)
俺の心を満たしたのは、今まで味わったことのない、強烈な全能感だった。
これが強者の景色か。
誰も俺を馬鹿にしない。誰も俺を虐げない。
ここでは、俺がルールだ。
「登録を頼む」
俺は受付嬢に向かって、ニヤリと笑いかけた。
彼女は頬を赤らめ、熱っぽい瞳で俺を見上げている。
「は、はいっ! 喜んで……カナタ様!」
カナタ様。
その響きが、脳髄を痺れさせるように心地よかった。
それからの一ヶ月は、まさに夢のような日々だった。
『無限再生』と『精神耐性』を武器に、俺は破竹の勢いで依頼をこなしていった。
ゴブリンの群れを単身で壊滅させ、凶暴なオーガの棍棒を素手で受け止め、危険なダンジョンのトラップを強行突破した。
どんな攻撃も俺には通じない。
どんな恐怖も俺の心を揺るがせない。
俺は瞬く間に「不死身の新人」として名を馳せ、ギルドでも一目置かれる存在になっていた。
金も手に入った。
名声も手に入った。
美しい女性たちからの誘いも絶えなかった。
酒場で一番高い酒を飲み、一番柔らかいベッドで眠る。
「俺は最強だ……」
高級宿のテラスで、夜風に吹かれながら俺は呟く。
眼下には王都の夜景が広がっている。
前世で俺を見下していた連中に見せてやりたい気分だ。
俺はもう、歯車の一つじゃない。この世界の主人公は俺だ。
もっとだ。もっと高い場所へ。
もっと強い敵を。もっと莫大な富を。
満たされない渇望が、俺を次なる冒険へと駆り立てる。
そして、ある酒場の噂話で耳にしたのだ。
北の果て、極寒の地に聳そびえる「誰も帰還したことのない塔」の話を。
(誰も帰還していない? 面白い、俺のための舞台じゃないか)
慢心。
そう呼ぶにはあまりにも純粋で、無防備な自信。
俺はグラスに残った赤いワインを飲み干し、不敵に笑った。
その塔に眠るのが、俺の全能感ごと心をへし折る「運命の相手」だとも知らずに。
偽りの最強時代は、こうして絶頂を迎えていた。
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