灰白の牢に、錆は降る

鳴芽明

第一話:記憶を焚べる

 ――その場所には、名前も、昨日もなかった。

 男の手足には、こびり付いた灰と、剥がれぬ「忘失の錆」が浮いている。

 重い剣を引き摺りながら、彼は灰白の霧の中を歩く。

 一歩進むたびに、鎧の継ぎ目から剥落した錆が、乾いた音を立てて地面にこぼれ落ちた。

 視界を遮る濃霧の先に、半壊した礼拝堂の影が見える。

 屋根はとうの昔に崩れ落ち、無数のひび割れた石柱が、墓標のように天を指していた。

「……あなたは、何を捨ててここまで来たのですか?」

 礼拝堂の隅。

 首の折れた女神像の足元に、その女は座っていた。

 汚れなき白布で両目を覆った彼女が、男の足音に応えるように、細い手を差し伸べる。

「あなたの痛みを、私に聞かせて。さすれば、その錆はひとときの熱を得るでしょう」

 男は沈黙したまま、彼女の前に膝をついた。

 鉄錆と血の臭いのなかに、わずかながら、焦げた香油のような匂いが混じる。

 これが幾度目の死の先にある出会いなのか、もう思い出せなかった。

 男は、自らの内に残された澱をまさぐる。

 それは、この灰の世界には存在しない、眩いほどに白い犬の記憶だった。

 幼い頃、共に野を駆け、温かな体温を分け合った、名も知らぬ獣の感触。

 聖女の指先が、男の額に触れる。

 ――チリ、と。

 冷え切った脳の奥で、小さな火が爆ぜた。

 男の脳裏から、白犬の柔らかな毛並みの感覚が消えていく。

 代わりに、鉛のように重かった四肢に、痛みを伴う熱が奔流となって流れ込んだ。

 男は立ち上がった。

 右腕を覆っていた忘失の錆が一部剥がれ落ち、鈍い鋼の輝きが戻っている。

 彼は、自分が今何を捨てたのかを、すでに知らない。

 ただ、この先に進むための熱を得たことだけを理解していた。

 礼拝堂の出口、霧の向こうから、重厚な金属音が響く。

 引き摺られる鎖の音。そして、獣じみた低い呻き。

 男は腰の剣を抜き放った。

 

 出口を探さねばならない。

 なぜそう思うのか、その理由すら錆に食われて消え果てようとも。

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