『家族』
@ooo_r6n
第一章 平成二十七年十月二十七日
話していいのなら話させてください。ずっと、誰かに言いたかった。気の済むまで吐き出してみたかった。長くなるでしょうから先に謝っておきます、すみません。面白い話でもないですけど、聞いてください。父が終の住処に選んだこの場所でする話ではないのでしょうね。もし、霊となってそばにいるのなら、ぜひ最後まで逃げずに聞いて欲しいものですね。母は少し前に出かけました。まだ外に用があったのと、買うものがあったそうです。お茶のおかわりは入りますか? 足も気にせず崩してください。あなたは父の部下であっただけで、私とは何ら関わりがないのですから。
父は、それはそれは優しい人でした。母に叱られた私を抱きしめてくれるのは父。褒め言葉をくれるのも父でした。私はそんな父が大好きで、父が家にいる間はいつも後ろを付いて回っていました。
思い出せる父との思い出の中で一番古いものは、私が五歳のときのものです。私は家の中にある広い廊下を行ったり来たり、走って遊んでいました。それを父はあたたかい笑顔で見ています。母が危ないからと私を捕まえようとするのですが、大袈裟に飛び跳ねて見せる私の姿に父が「すごいすごい」と言うからもっと楽しくなって、母の手を避けて遊びました。結局すぐに捕まってしまい、母の鋭く冷たい言葉を浴びることになります。それでも叱られている間に父は変わらぬ笑顔で私を眺めていて、柔和な視線を感じたら叱られることも怖くないと思えたのです。
ご存知の通り父は忙しい人でしたから、当時は会社の社長だなんて知らなかったけれど、常に大変そうだということは伝わっていました。朝、早起きをすれば会うことができる。でも夜はなかなかそうもいきません。子供の私はすぐ眠くなってしまって待っていることができなくて、いつも父が早く帰ってくることを願っていました。そして度々そのときが来るのです。鍵が開く音がしたら、部屋を片付ける母のそばを離れ、玄関まで駆けて行き、帰ってきた父に「おかえりなさい」と言いながら抱きつきました。柔軟剤の香りの奥にタバコの煙を探すことが好きでした。
胸に飛び込む私を、父は必ず受け止めてくれます。早く帰ってきたと言っても夕飯を食べ終えている時間でしたから、私はもう寝る時間だと母に急かされるばかりでした。駄々をこねる私を父は寝室へ連れて行き、自分のことは後にして、眠るまで手を握っていてくれました。
ええ、本当に優しい人だったんですよ。
知っていらっしゃるかわかりませんが、私には一つ下の妹がいました。綾子という名前の十歳までしか生きることができなかった子です。たった十年でも多くの人に愛されました。とても綺麗な容姿をしていて、本当に私と姉妹なのか疑いたくなるほどでした。私と違ってくっきりとした二重。愛らしく柔らかそうで、ぽてっとした唇。白く透明感のある肌。華やかさを持つ顔でした。もし今も生きていたなら、女優やモデルなんかになっていたかもしれないくらい。可愛くって可愛くって自慢の妹でした。愛される理由はその顔だけではありません。性格だって良かったのです。人懐っこくて元気いっぱい、そして正義感の強い、まるで太陽のような子でした。
綾子は本当に笑顔を絶やさない子で、綾子の物心がついてから、泣いている姿を見たのはたった一度でした。それも、自分のことではなく、人のために流した涙でした。大したことでもなかったのに。綾子が七歳、小学二年生で、私が八歳、小学三年生のときの話です。
私が授業終わりに廊下を歩いていると、体育着を着た綾子と綾子のお友達が手を繋いで泣きながら歩いていました。急いで駆け寄り、泣いている理由を聞きたのです。綾子は音を立てて呼吸をしながら、途切れ途切れに説明をしてくれました。ただ、お友達が怪我をしたことが悲しかっただけのようでした。改めてお友達を見ると、膝に四角くて白い、大きな絆創膏が貼られており、真ん中のパッドには血が滲んでいました。きっと保健室で手当てをしてもらったあとだったのでしょう。私は子供ながらにお姉さんになろうと、二人の頭を撫で、教室まで送り届けました。次の授業には遅刻してしまいましたが、妹の優しくピュアな心を知ることができて、後悔はありませんでした。
涙を流すと言えば、父の泣く姿も一度しか見たことがありません。綾子が亡くなった時です。父は途切れることなく涙を流していました。目を閉じて寝かされている綾子に、何度も届くはずのない声をかけて、私より泣きじゃくっていました。そりゃあそうだと、思いました。
父は私より綾子の方が大事そうでしたから。目に見える差別はなく愛情をくれていましたがわかっていました。私達の名前を呼ぶとき、決まって父は綾子の名前を先に呼んでいました。そして父が私たちのために買ってくるものは大体、綾子が好きなものでした。私はとくに強い欲望はありませんでしたから、何をもらっても嬉しく思えていましたが、今思えばそれなりに差別だと言えますよね。
父が綾子に構っている間、私は母と一緒にいなければなりませんでした。四人で出かけると、二手に分かれることが多く、父は我先にと綾子の手を取ってお店を見に行きました。私はというと、こういう場でさえも笑いかけてくれない母と共に、母だけが強く握る手を気にしながら、立ち並ぶお店の外を歩いていました。我儘なんて言えるはずもありません。再び四人が集まったとき、綾子の右手にはアイスクリームがあって、羨ましさよりも、私と綾子は何が違うのだろうと不思議に思いました。
よく、「お姉ちゃんなんだから」という言葉に悩まされたと話に聞きますが、私達家族の中でその言葉が飛び交ったことは一度もありません。妹だからという理由で綾子が甘やかされることもなかったと思います。だからこそ不思議なのです。私は何を理由に二番手にされているのか。父の中では明らかに、私は二番手の存在でした。まずは綾子、その次に私。どうして? 何度も考えました。顔でしょうか。性格でしょうか。生理的に受け付けない何かがあったのでしょうか。私も綾子と同じ娘なのに。
考えて考えて最終的に、私へも優しいことには変わらない父の笑顔を思い出し、ぐるぐると巡る思考を止めていました。例え父に心の底から愛してもらっていなかったとしても、家族の誰からも愛されない人間ではありません。綾子がいますから。
綾子は事故に遭って亡くなりました。事故……ということにはなりましたが、真実は殺人です。E美という綾子ほどではないけれど確かに、可愛らしい顔をした子が犯人です。先ほど話した怪我をした子とは別の子です私は彼女と学校行事で一緒になったことがあるのでよく覚えています。濃く、はっきりとした派手な顔立ちの割に大人しい性格をしていました。ときどき、周りの女の子達にこき使われていて、それでもヘラヘラと笑っている姿を見て、断れず声も上げられない弱い子なのだと思いました。助けよう、とは思いませんよ。綾子に関係のない子でしたし。
事件が起きたのは、プールの授業があった日です。E美はプールに忘れ物をしたと言って綾子を連れ出したんです。綾子と一緒に帰ろうとしていた私は、E美が綾子に声をかけ、どこかへいく姿を間近で見ていました。E美とプールへ行くことは綾子がわざわざ私に伝えてくれました。二人が話している場面を見ていた私に気がついて、駆け寄って、先に帰っていてと。
不審に思うべきだったんです。それか、帰らずついて行けばよかったのです。それまでE美と綾子が仲良くしているところを見たことがありませんでした。同じクラスではあっても、少し暗い雰囲気を持つE美と明るく溌剌とした綾子とでは関わることはほとんどなかった。でも綾子は優しい子でしたから、困っている子がいたら助けようとしちゃうんでしょうね。E美について行ってしまいました。何度後悔したことか。私なら助けることができたのに。
言い訳、でもありませんが、その日の帰り道は普段と何ら変わらない道でした。当時も今も、私は嫌な予感がしたら見知った風景の中に違和感を探していました。違和感を見つけたら自分の予感が的中したとして、行動を起こすと決めていました。でも、あの帰り道は一つだって変わったところはなかった。そう思ったのです。当時は。隣に大切な人がいないことにすっかり納得してしまって。
E美とともにプールへ行った綾子は、足を滑らせ溺れてそのまま……となっていますが本当のところはE美が突き落としたのです。彼女は自ら飛び込んで助けることはせず、声をかけて大人を連れてくることもなく、溺れて助けを求める綾子を見つめていたそうです。E美は罪悪感に耐えられなくなり、後に本来起きたことを話しますが、子供の仕業ということで綾子の死は事故と処理されました。もちろん父も母も私も抗議しました。けれどそれは叶わず、幾らかのお金で和解という形になりました。
そんなことがあったものですから、父の悲しみはたまらなく深く、立ち直るのにかなりの時間がかかっていました。その間私はなんとなく父には話しかけることができませんでした。早く帰ったときの「おかえり」も言わずにいました。ただ一度、話しかけようとしたことがあります。綾子の葬式から一ヶ月ほど経ったある日。休日で家に父がいた際に、書斎から出てくるのを待ち構えて、「お父さん」と声を出そうとしました。でも、ドアの前にいた私を見つけた父の目が、あまりに知らない人のそれだったので、怖くなった私は「お母さん」と言って逃げました。なんとなく、お前がいなくなればよかったのに、と言われたようでした。これが初めて父を怖いと思った日です。いえ、最初で最後でした。この日以降、父は今までの私が知る優しい父に戻りました。
まあ、優しいと言っても、まだ私が二番手な雰囲気は残っていました。心ここに在らずのときがあるのです。早く帰る日が少なくなったことに始まり、運動会の日を忘れたり、授業参観を忘れたり。忘れるのが得意だったのでしょうね。あるときには、私の名前さえも忘れていました。朝起きて、父に「おはよう」と声をかけると、信じられない出来事が目の前で起きているかのように目を丸くして、私を見つめていました。「お父さん?」と言うと、「ああ」と気のない返事をして気まずそうに目を逸らしました。私が中学一年生の頃の話です。遠くから母が私の名前を呼ぶと、父は体を跳ねらせ硬い動きでこちらを向いて、わざとらしく笑って見せて私の名前を呼びました。この数秒間で父に起きたことはすぐに理解しました。私が知らない子供に見えたのです。父と血は繋がっていますが、どうやら私の記憶力はいいようですね。それとも、父の遺伝子はこれから本領発揮するのでしょうか。
勘違いしてほしくないのですが、私は父が本当に大好きでした。大切な日を覚えてもらえなくても、その悲しみは日常の小さな幸せがかき消してくれます。特に、土曜と日曜の夜にだけ訪れる歯磨きの時間が好きでした。中学二年くらいまで続いたやりとりです。なぜか一緒に歯を磨くことが恒例で、私は父と話がしたくて、早く歯磨きを終わらせようとするのですが、それを父が止めるのです。二人共に歯を磨き終わってからだって話はいくらでもできますが、私は洗面所のあの狭い空間が好きでした。リビングは広すぎて隣にいても父が遠く感じられてしまいます。それに、母がいる。二人きりの狭い世界。母が近づいてくる足音がしたら私は父を壁にして隠れました。ただ歯を磨いているだけなのに、この時間さえ急かしお叱りの対象にしてしまう母を鬱陶しく思いました。でも、母がいなくなったあとは父が、柔らかく心あたたまる笑顔で私の頭を撫でてくれました。いつだって、私の味方は父でした。
両親の結婚記念日に初めてプレゼントを贈ったのは中学三年生のときです。それまで私は父の日にも母の日にも、結婚記念日にも贈り物をしたことはありませんでした。ふとちゃんと親孝行をしなければと思い立って、母には淡い緑色の陶器のマグカップを、父にはネクタイピンを、貯めていたお小遣いで購入しました。父は、とても喜んでくれたんです。大切にする、ありがとうと言葉をくれました。母は、受け取ってからも一切の笑顔を見せませんでした。小さな声で、「こんなものいらない」と言っているのが聞こえました。特別苦しくはなってないですよ。これが日常でしたし、父が母を嗜めてくれましたから。私がこの実家を出るまでの間に、母がマグカップを使用しているのを見ることはありませんでした。
高校生になった頃、私は家を出たくて仕方がありませんでした。とにかく母が嫌いだったのです。何をしても叱られる。褒められた記憶など一度もありません。父がくれたような温もりを、母に期待していたときもありましたが、いつからかそれもやめていました。それでも私が落ちぶれずにいたのは父のおかげです。いつだって無償の愛をくれた父のおかげだと、今も思います。
東京の大学に進学するというとき、駅まで見送ってくれたのは父でした。小さい頃に見た笑顔と変わらない、温い表情を浮かべていました。母は家事で忙しいからと駅まで来てはくれず、家で「頑張って」の一言だけを私に言い放ちました。思わず笑ってしまいそうになるほど、空っぽな言葉に感じました。
父の車に乗って駅に向かいました。道中父はしきりに「お前なら大丈夫」「あまり不安になるなよ」と声をかけてくれました。別に不安はなく、私ならどうにかなると思っていましたし、楽しみな気持ちの方が大きかったのですが、父には不安そうに見えていたのかもしれません。私はただ、「うん、ありがとう」と何度も答えました。新幹線に乗る直前、私の背中を強く擦る父の手の感触は今も残っています。
そんな大好きな父に対して疑問を持ち始めたのは、社会人四年目、二十六歳のときでした。私は当時交際していた彼と同棲を始めました。彼は心を許した人にだけ特別優しい人で、どんな私も受け止めてくれる抱擁感のある人でした。でも、彼は何もしないのです。彼と私とは同じ会社で働いていて、同期でしたから同じくらいの給料をもらっていました。家賃は当然きっぱり折半です。電気代や食費諸々は丁度良くなるように担当を分けていました。お金の負担はほとんど同じなはずなのに、彼は何もしないのです。ですがまあ、全ての家事をこなす母の姿を見ていましたから、特に強い疑問を抱くことなく月日は流れました。
ある日、彼が突然彼のご両親を連れて家に帰ってきたのです。しかも一泊すると。仕事終わりの夜で、私はくたくたでしたが、精一杯のもてなしをしました。そこまで厳しい方々ではなく、程よい距離感で朝を迎えました。翌日は休日で、昼頃に帰るということでしたが、その朝から昼までの間に事件が起きたのです。
まず一つは、私の部屋を覗こうとしたこと。寝室は彼と一緒でしたが、別に各々部屋を持っていて、彼には私の部屋に入らないことを約束してもらえるなら泊まらせてもいいと伝えました。その約束などまるで知らないかのように、私の部屋に入ろうとする彼のご両親。見られてやましいものがあるわけではありませんが、自分のテリトリーを踏み荒らされたくはない性格でして、ドアが開いて見えた自分の部屋とご両親との間に無理に体をねじ込みました。変に怪しまれはしましたが、色々話を誤魔化してなんとか部屋を守り切りました。なんて言ったかは、覚えていないです。とにかく必死でしたから。
その間、彼は一切こちらには干渉せず、むしろ楽しそうに私とご両親との押し問答を眺めていました。挙句の果てに、俺の両親と仲良さそうでよかったよ、なんて言うのです。その瞬間、彼の顔の横に父の顔が見えました。
二つ目の事件は、帰り際に起こりました。ご両親が彼にした、金を貸してくれないかという相談がきっかけです。彼は二つ返事で金を振り込むことを承諾しようとしました。しかも提示された額のさらに倍の額、貸すのではなくあげると言いました。私たちはそこまで裕福ではありません。そんな唐突な出費に耐えられない可能性が大いにあります。彼を説得しますが、家族が大事だからの一点ばり。優しさにも限度があります。せめて使い道を聞くべきだと言い、尋ねますがご両親は言葉を濁しました。彼は、僕の両親を責めないでくれと言いました。何か事情があるのだと。これは何を言っても無駄だと、仕方なくお金を渡すことを承諾しました。彼がご両親に、「いつだって頼ってくれ」と声をかける姿を見て、また、彼の顔の横に父の顔が浮かびました。
その日、彼のご両親が帰った後、私は話しかけてくる彼を無視して考え続けました。なぜ彼の顔の横に父の顔が見えるのか。……父は、彼のようだったのではないか。大切な人にやけに甘い、甘すぎる人だったのではないか。今までの家族との日々を思い返しました。でもそれは父の姿を見返すのではなく、母の姿を見返すためです。本当に母が嫌いでしたが、考えてみれば決定的な嫌悪に繋がる行動はされていないのです。
小さい頃、私がトイレに行きたいと起きてしまったらついてきてくれるのは母でした。粗相をすれば、叱るのは母でしたが、片付けてくれるのも母でした。厳しい人であったことは確かです。ただ、母がいなければ、私は今のような常識ある人間にはなれなかったと思うのです。父の愛だけでは堕落していたでしょう。我儘放題の女になっていたかもしれません。そんなことを考えると怖くてなりません。
綾子が亡くなったときもそうでした。泣きくれる父とは反対に、母はしっかり強く場をまとめてくれて、ただでさえ忙しいだろうに私のことをそばに置いてくれました。そして私の手を握って言ったのです。「あなただけでもいてくれてよかった」と。なぜ私は忘れていたのでしょう。握る手は冷たかったけれど、その言葉には温もりを感じた。大切にするべきでした。母があんなにも冷たい人だったのは、父の愛情との均衡を保つためだったのです。愛するばかりでは駄目なのです。
その後、彼とは別れました。あの人と一緒にいては母のようになってしまう。大切な子供に厳しく当たるしかなくなってしまう。だから、彼のご両親が訪問した一ヶ月後には、別れを告げて家を出ました。
引っ越しの際、ある封筒を見つけました。これは、上京してきた時に鞄の中に入っていたものです。ずっと開けずにいたのは、封筒に書かれた私の名前が母の字で書かれていたからです。捨ててしまいたかったけれど、親は親ですから捨てずに持っていました。ええ、捨てずにいてよかった。そこには母からの短い手紙と十枚の一万円札が入っていました。体には気をつけなさい、帰る場所があることを覚えていなさい、そしてお母さんがあなたを愛していること、忘れないでちょうだい、と書かれていました。私は泣きました。誤解していたことが申し訳なかったのもありますが、何より、ずっと母から聞きたかった「愛している」の言葉が嬉しかったのです。
次の連休、私はすぐに実家へ帰りました。変わらず母は無愛想、かと思いましたが、私の顔を見たその瞬間だけ、頬が緩んだのを見逃しませんでした。一瞬ではありましたが帰って良かったと思えました。父もあたたかく迎えてくれましたが、その笑顔を真正面から受け取れる私はもういませんでした。
たまたま父が会社に呼び出され家を出ました。これをチャンスだと思い、私は母に頭を下げました。今まで母のことを誤解していた。なぜあんなにも冷たいのかと嫌に思ってしまっていたが、理由があったことに気がついた。ごめんなさい。何度も頭を下げて泣きました。母は私に顔を上げなさいと言いました。私の娘の顔は可愛いのだから、下を向いてちゃあもったいない、ましてや涙を流すだなんて。頬に流れる涙を拭きながら私を抱きしめてくれました。初めて、母の体温を感じました。
それから私は、母との時間を取り戻すために多くの言葉を交わしました。未だ東京暮らしで頻繁に帰ることができるわけではありませんが、週末にはお互いのことを報告し合う電話をするのが習慣になりました。母の作る料理のレシピも教えてもらいました。実は隠れて、私があげたマグカップを使っている姿も、帰ったときに見つけました。病に侵され、だんだんと体が弱っていく父を、母は献身的に介抱していました。私も何かできることを、と思うのですが、父のこととなるともう何も行動が思いつきません。そんな私に気がついた母は、無理しなくてもいいと言うのです。
母がここまで育てくれました。常識ある人間にしてくれました。だから今日はここにきたのです。本当なら父の葬式になど出たくなかった。……えぇその通りです。父の存在だって母と変わらぬくらい大切です。わかっているから危篤の知らせも無視せず最期を看取りましたし、葬式にも出たのです。今ここにいるのだってそう。正直、遺品整理なんてどうでもいい。父のものが無くなろうと残ろうとどっちだっていい。冷たいと思いますか? ですが本気で、私がするべきこと、恩返しはこれで全て完了したと思っています。
母は婚姻関係を終了させるつもりだと言っていました。もちろん賛成しました。私は変わらず父の娘でいようと思います。例え籍を離れたとしても、この身に父の血が流れていることは変わりませんから。逃れられないものとして、籍だけは共にしようと決めました。大事にしてくれた父親になんて酷いことを、と言う人もいるでしょう。それはそれで構いません。私は、父には愛を存分に返してきたつもりです。必要ないと言われながらも毎月欠かさず仕送りをしていました。手紙を添えて。母に内緒で顔を見せに帰ったことなんて何度もあります。父が東京へ遊びにくるときは一日かけて二人で出かけることもしました。もう十分でしょう? これまで父に返してきた愛を今度は母に返したいのです。
楽しくない話を長々とすみません。話し始めたら改めて苛ついてきて止まりませんでした。自分でも思います。母の行動言動が自分のためだったとわかったからって、父に対して酷く接しすぎではないか、確かに愛情を受け取っていた相手をそこまで一気に悪者にできるのかと。多分ずっと引っかかっていたんでしょうね。でも嫌いな母から逃げるには父に縋るしかなくて、父を好きだと思うようにしていた。だけど本当は、寂しくて、辛くて、どうしてって腹が立っていたんだと思います。その思いを堰き止めていた壁は、母の本物の愛で包まれた「愛している」の言葉で崩れたんです。
父の中で私は一生二番手でした。死ぬ間際、母の名前を読んだ後、私より先に「綾子」と呟いたんですよ。笑っちゃいました。母は悲しそうな顔をしていました。
良くないですね。また長く話してしまうところでした。……ちょうど母が帰ってきたようですし、もう少ししたら作業を再開しましょう。書斎、無駄にものが多くて大変ですね。お疲れ様です。
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