聖女様の言う通り
あ
第1話
セーラ・アーテストは怒っていた。
公爵家の一人娘として育てられた彼女には使命がある。第一王子であるファルスと結婚し、子供を産むことだ。アーテスト家はかつてからそうして公爵としての地位を確立してきた。政変で政治的な立場をほとんど失った今でも、それは変わらない。
それに、セーラは第一王子のことが嫌いではなかった。王妃に似た端正な容姿を持ち、剣の腕にも覚えがある。無口で陰気なのは少し気になるところだが、感情の起伏が激しくないのは良い点である。少なくとも短気なセーラにとっては相性の良い相手だった。
18歳の夏、彼女は彼と結婚することが決まっていた。はずだった。
ファルスは半年前、花屋の平民の女に一目惚れをしたらしい。あの感情のない男が、初恋を、したというのだ。従者に聞いた時は耳を疑ったし、流石に嘘だと思っていた。しかしその噂話は広まるばかりであり___実際セーラもその様子を見ている。
花屋の女に必死に話しかけるファルスの姿は、普段は一文字に結ばれた口をだらしなく綻ばせており、セーラは一度も見たことのない「心底惚れ切った男」の顔をしていた。
これはまずい、とセーラは思った。ゴロンボ王は情に深く、息子想いの人間だ。彼が心から愛した女がいると知れば、王は婚約破棄を許すだろう。そういう甘い男なのである。
………とはいえ、セーラとファルスの婚姻関係は王国では周知の事実。
流石に平民の女が、天下のアーテスト公爵家の婚約者を奪おうなどできるはずがない。確かに見た目は令嬢達に並んでも劣らない美しさではあるが、平民に生まれてしまった時点で、そんなもの何の価値もない。この世は血と権力がものを言うのだ。そしてそれはセーラの思想ではなく、この国の思想である。もちろんファルスにもその考えがあるはずなのだ。
「すまないが、セーラ。婚姻を破棄していただきたい。好きな女性ができたのだ」
「……は?」
「初恋なんだ。すまない」
一昨日の話である。
もちろん荒れた。荒れまくった。机の上に置いていたものを全て床に落とし、壁を蹴り、服を破いた。日々丁寧に磨いていた爪はボロボロになり、玉のように滑らかな肌には細かい傷がついた。彼女は一晩中、正気とは思えないほどに暴れ回り、暴れ回り、暴れ回り………そうして、目が覚めたら、今日になっていたのだ。
時間帯でいえば昼過ぎくらいだが、外は曇りなのか仄暗い。まるで荒んだの心をそのまま移しているかのようだ。
セーラは起床後すぐの回らない頭で、それでも昨日言われたあの屈辱的な言葉を思い返す。婚約破棄。初恋。ああそうですか。へえ。徐々に脳みそがクリアになり、掠れていたあの怒りがふたたび鮮明に、そのまま取り出したかのような熱量で蘇ってくる。婚約破棄ねえ。ふうん。
「……いい。いいわ。私にも手があるから。」
セーラはそう言うと、両親からのお小遣いを貯めておいた貯金箱を持ち、その焦れるような募りに身を任せ部屋着のまま部屋を出た。
これが全ての失敗の始まりである。
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