Me262, ドイツ・ジェット戦闘機奮戦す。―― 1947、氷点下の分水嶺
いわのふ
Operation Zero 元帥の冷たい置き土産
1947年、初夏。
ベルリンの喧騒から離れた路地裏。煤けたレンガ造りのビアホール「アドラー」の片隅は、まるで歴史の奔流から切り離されたエアポケットのようだった。古く湿った重たい木製のテーブルの上には、二つのビアマグと、一通の簡素な封筒が置かれている。
「……本気ですか、元帥閣下」
デーニッツが向き合ったのは、老政治家コンラート・アデナウアーだった。アデナウアーの声は、店内に流れる古いアコーディオンの音色に紛れるほど低かった。彼はデーニッツ引退後に実施された選挙ですでに新たなドイツ大統領に決定している。そしてデーニッツ自身は、すくなくとも表向き元帥、実際は実権のない閑職についている。
アデナウアーの向かいに座るカール・デーニッツは、軍服を脱ぎ捨てた地味な背広姿で、泡の消えかけたビールを見つめている。かつて世界を震撼させた潜水艦艦隊の司令官であり、滅びゆくドイツを救い上げた男の指先は、今はただ、穏やかにビアマグの肌をなぞっていた。デーニッツは自分の指の動きを見ながら視線を落として言った。
「アデナウアーさん、あなたの手はまだ汚れていない。この国を救うには、あなたの清らかな手と老獪な頭脳が必要だ」
デーニッツはビアマグを置くと、窓の外を指差した。遠く、ベルリンの上空を、パトロール任務に就く最新鋭ジェット戦闘機、Me262αが独特の高周波を響かせて通過していく。翼の形状こそ多少変わろうと、ドイツ人のだれもが聞けばわかるその音だった。かつては敵機を葬るための勇ましい咆哮だったその音は、今や米独連合、そして「欧州広域防衛軍」へと変質しようとしている新秩序の、危うい鼓動そのものだった。
「私の役割は、あの毒薬を、外交のテーブルに載せるまでだった。だが、その毒を薬として、ユーラシアという病人に飲ませる術は、私のような血なまぐさい軍人には分からん。それにドイツ人たちすらデーニッツという男を、あくまで血とハーケンクロイツに染まった軍人としか見ていない。ドイツ人どころか世界もだ……だから、このことを解決するのは、あなたのような、ポリティクスを語れる者がやるべき仕事だ」
デーニッツはポケットから万年筆を取り出し、封筒に自らの名を記した。退任届。それは、一個人が国家という呪縛から解き放たれる、あまりに軽い紙切れだった。
「ですが、東のボリシェヴィキたちが……赤星を刻んだあの者たちが、ポーランド国境を越え、オーデル川を渡ろうとしています。あなたが去れば、現場の連中、いやベルリンはどうなる」
「だからこそだ」
デーニッツは鋭い眼光を一度だけアデナウアーに向けた。
「私がいれば、あれはただの『軍隊』だ。だが、私がいなくなり、あなたが語れば、あれは『ヨーロッパの盾』になる、いやヨーロッパどころか世界かもしれないが……。アデナウアーさん、このビアホールを出る時、あなたは大統領として、あの翼に新しい魂を吹き込むんだ」
デーニッツは立ち上がり、飲み干したビールの代金を小銭でテーブルに置いた。
彼は一度も振り返ることなく、薄暗い店の階段へと消えていった。
残されたアデナウアーは、一機のMe262αが夕闇の空を切り裂いていく音を聞いた。その瞬間、店内のラジオが、ノイズ混じりに緊急速報を告げ始めた。
「引き続き緊急速報です。すでにお伝えした通り、今朝、ソ連軍はポーランド国境を突破しました。ソ連軍の戦闘車両群と航空隊はポーランド国内を迅速に西進しており、全軍がドイツ方面に進撃を——」
英雄が去り、理想という名の重責が、一人の政治家の肩に降り積もる。アデナウアーは静かに立ち上がり、デーニッツが残した封筒を懐に収めかけた。しかし、ふたたび取り出して破り捨てた。そして一言つぶやいた。
「デーニッツさん、あんたには責任の一端というものがあるはずだ。いや、一端どころではなかろう。そう簡単にやめてもらっては困る」
麗しき春は去り、そしてまた厳しい冬に立ち戻ろうとでもしているかのようだった。一時の平和が終わり、新たな冷たい時代が始まろうとしていた。
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