パルキメディアの奇跡

小径 散歩

パルキメディアの奇跡

 川瀬を踏みしめるトレッキングシューズの音が、ジャリッジャリッと渓谷に小気味よく響く。

 見上げる空には遠く薄い雲がかかり、雄大な山々から吹く風が、立ち止まった僕の髪を優しく撫でた。

 一呼吸吐き、後ろを振り返る。

 きっとあの日もこんな景色だったのだろうかと想像する。

 忘れようとしても出来なかった記憶。

 悲しい過去に誘われるように、とうとう僕はこの場所へと来てしまった。

 こうやって振り返ると、僕の少し後から彼女が片手を振って見せて、同じく片手を挙げて僕も彼女に応える。

 そんな二人のやり取りは儚い幻。

 川のせせらぎに集まる鳥たちの声。その心地良い音色が、かえって僕の心を寂しくさせた。


 僕が今歩いている山々のほぼ全域は太古から手つかずの自然が多く残り、その原生林の神秘的な美しさから、その地の、森、岩、川などは神格化され、古くから地域の人々の信仰を集め崇拝され今日に至っている。

 神々の棲む山。

 人々からそんな風に呼ばれる霊験あらたかな山は、なるほど何か奇跡的なことが起こってもおかしくはないと思わせるほど、荘厳で神秘的だった。

 だが僕は、雄大な自然を楽しみにここへ来たわけではない。

 僕は今日、彼女との約束を果たしに来たのだ。

 そして、自分自身にも決着をつけるために……。

 


 あれからもう1年が経つ。

 当時僕と彼女は高校3年生で、二人とも写真部に所属していた。

 その日、僕がいつものように機材の整理をしていると、背後から声が聞こえた。

「ねぇ、乃守部長。来月の末なんだけど、一緒に山に行かない?」

 振り向けば彼女が、写真部副部長の雪園美咲が笑って立っていた。

 その笑顔は、僕が3年間カメラ越しに追いかけてきた、眩しい光そのものだった。

 文化祭も終えて、間もなく引退を控えていた僕たちに、もう撮るべきものは無いはずだった。コンクールの課題は随分前に提出したし、学校紹介のための撮影も、とっくに撮り終えていた。

 けれど、彼女は言った。

「撮りたい景色があるの。ねぇパルキメディアって知ってる?神々が棲むって言われている山の、頂上の名前よ。そこにはある時期にだけ見られるっていう景色があって、その景色をカメラに収められたらきっと、神様は奇跡を起こしてくれると思うの」

 パルキメディア。

 山登りに興味の無い僕でもその名前は聞いたことがあった。

 その印象は、険しい登山道。危うい岩場。ハイキング感覚では絶対に辿り着けないであろうことは容易に想像できた。

 運動音痴の僕が、普段なら絶対に足を踏み入れない場所。

 でも、今目の前にいる彼女は、瞳を輝かせて僕をそこへと誘ってくれている。

 それならば例えどんな危険な場所であったとしても、僕はカメラを持って一緒にいくべきなのだと思った。

 彼女がその景色を一目見たいと言うのだから。



 ほどなくして見えてきた分かれ道は右に行けば海側の旧市街地へ、左側の道を進めば山深い森の中へと入っていく。

 分岐の真ん中にある、赤い布が被せられたお地蔵さんに手を合わせ、僕は左側の道へと進んでいった。

 誰もいない登山道。自分の息遣いと土を踏む音だけが聞こえる。

 木々の隙間から差し込む光が、時折眩しすぎて目を細めた。彼女がいたら「きれいだね」そう言って笑ってくれたかもしれない。だが、そんな優しい幻も、森を通り抜ける風にさらわれていく。

 標高が上がるにつれて道は険しさを増していった。

 冷たく湿った岩肌に指先が触れるたび、砂がパラパラとこぼれ落ちていく。

「痛っ」

 岩に引っかかった小指の爪先からじわりと血が滲んだ。慎重に足元を確かめ、少し広くなった場所でリュックを降ろして処置をする。水筒を取り出し一息つくと、額に汗が滲んでいるのが分かった。

 ―汗。そう、あの日もこんな風にじんわりと汗が滲んでいた。

 もっともあの日の汗は、僕が生まれて一度も感じた事が無いほど嫌な汗だったけど。



 彼女との約束の日も二週間後に迫ったその日。僕たちは写真部の引退式に出席していた。

 引退式といってもそんなに仰々しいものではなく、後輩に囲まれてジュースを片手に三年間の思い出を語るぐらいの、ささやかな宴だった。

 だけど、そんなお別れ会の和やかなムードは、突如走り込んできた顧問の林先生によって一瞬で吹き飛ばされた。

「大変だ乃守!やったぞ!お前やったんだよ!」

 部室の扉を破壊せん勢いで飛び込んできた先生は、僕の肩を掴むと興奮のあまり叫ぶように言った。

「コンクールだよ!お前の作品が、コンクールで大賞を獲ったんだ!」

「……えっ?」

 一瞬の沈黙のあと、部室がドッと沸いた。

「すごい!すごいじゃないですか先輩!」

「さすがです部長!」

 口々にそう褒めちぎられ、たちまち僕は後輩たちに揉みくちゃにされた。

「僕の……僕の写真が大賞……」

 僕は一体何が起こっているのか信じられなかった。そのコンクールは写真に青春をかける高校生が目指す頂点のような場所で、今までそんな全国規模の大会はおろか県のコンクールにすら何の賞にもかすりもしなかった僕が大賞を受賞するなんて事は、天と地がひっくり返るぐらい在り得ないことだった。

「表彰式は二週間後、東京だ。もちろん先生も一緒に行くからな。ああそうだ、スーツをクリーニングに出しとかないとなぁ」

「えっ?」

 上機嫌に笑う先生を置いて、僕は思わず彼女を見た。

 彼女は一瞬固まったような顔をしていたが、僕と目が合うとすぐにいつもの笑顔を向けた。

「…………あの、」

 何か言葉を絞り出そうとした僕に、彼女は小さく首を振った。

 そして小さな声で、

「……おめでとう」

 そう言って笑った。



 一つの岩場を越えると、また次の岩場が待っている。

 冷たい風は岩肌を叩きつけ、僕の唇は乾き、呼吸が荒くなる。

 あの時の彼女の笑顔。背中をつたった汗。

 僕は今、その向こうにあるものを確かめに来た。

 一年前、彼女と一緒に来るはずだった場所へ。

 岩の隙間に指を差し入れ、力を込めて身体を引っ張り上げる。

「もう少し、あと少しだ」

 小さく呟いて、自分を励ます。

 授賞式のことは、正直よく覚えていない。

 自分にとって名誉なことだったのは間違いないし、両親も先生も喜んでくれた。

 だけど、僕の心はそこには無かった。

 僕の心はもうその時から、この山の頂、彼女と向かうはずだったパルキメディアに向かっていたんだ。

 結局あれから彼女とは、一度も顔を合わすことなく卒業してしまった。

 元々クラスも学科も違う僕たちは、写真部という接点がなければ学校でも殆どすれ違うことも無かった。

 時々SNSを開いてみたりはしたけれど、彼女に何を話せばいいのか、心を文字に表す勇気が、僕には持てなかった。

 そして一年が経って、またあの季節がやってきた。

 彼女が見たがっていた、この時期にだけパルキメディアから見える景色。

 僕はそれを今日カメラに収める。

 そうすれば何かが進むかもしれない。動き出す力が湧くかもしれない。

 あの日見ることが出来なかった景色が、もう僕の目の前に迫っている。



 最後の岩壁を乗り越えた瞬間、視界が開けた。

 灰色の岩と青い空がぶつかり合う境界の上で、僕はしばし息を整える。

「来た……頂上だ」

 そこに立った瞬間、すべての音が消えたようだった。

 目の前に広がる、どこまでも続く山々が、重なり合ってゆるやかに雲と溶け合い、遥か遠くに広がる稜線は淡く霞んでいる。

 澄んだ風が僕の頬を撫でる。湿った岩と、草の青さが混ざり合った匂いがした。

「きれいだ……」

 誰に向けてでもなく、自然にそうこぼした。

 声は風に乗り、雲へと流れていく。

 彼女が見たかった景色。

 ここは確かに神が棲む場所だ。

 僕はリュックを降ろして、カメラを取り出す。

 そこではたと気づいた。

「いや、違う……」

 そう、彼女はこう言っていた。

「ある時期にだけ見られるっていう景色、その景色をカメラに収めてみたいの」

 ある時期……つまり今この季節だけの景色。

 ……どういうことだろう?

 首をかしげながらも、カメラを構える。

 ファインダーを覗きこんだ、その瞬間だった。

「あっ!」

 雲間から太陽が顔を出し、一筋の光が射し込んだ。

 陽光が眼下に広がる枯れ木の森を照らし、さっきまで灰色に沈んでいた木々が、突然息を吹き返したように輝き始める。

 木々の隙間に降りそそいだ光が山々の影へ、淡い文字のようなものを浮かびあがらせた。


 ス キ


 たった二文字。

 そう、カメラ越しに見えたその文字は、カタカナで、「ス」と「キ」

 風が揺らして形を歪めたかと思えば、また光が強まり、はっきりとした輪郭を描き出す。

 僕は思わず息を呑んだ。

 誰が書いたわけでもない。ただ、自然の偶然が重なって生まれた奇跡のような光景。

 胸の奥が思わず熱くなる。

 あの日彼女が僕と見たかった景色……。

 彼女はここにいないのに、まるで言葉が届いたような気がした。

 光はやがて弱まり、文字は滲んだように消えていった。

 結局、僕はシャッターを押すことが出来なかった。

 写真部で過ごした時間、彼女もきっと僕と同じ気持ちだったのだと思うと、ひとりでそれを写真に収めることが僕には出来なかったのだ。

 僕はカメラをリュックにしまうと、その場に腰をおろして、しばしそこから離れられずにいた。



 どれぐらいの時間、そうしていたのだろう。

 ふと背後から、踏みしめる石の音が聞こえた。

 振り返ると、霧の向うに人影が見えた。

 ゆっくりと近づいてくるその姿。

 息を整えながら、長い髪は風に揺れ、頬をつたう汗が光を受けてきらめいている。

 岩に手を置きながら、一歩、また一歩と僕に向かって近づいて来る。

 目の前の光景が信じられなくて言葉が出ない。

 一年ぶりに見たその笑顔は何も変わっていない。

「遅くなっちゃった」

 その声はかすかに震えていた。

 彼女の潤んだ瞳に、僕の姿が小さく揺れている。

 パルキメディアを照らす光が、そっと二人を包んだ。

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